論点「ハル・ノートは最後通牒だったのか」
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/01/12 17:38 投稿番号: [3302 / 7270]
>>ハルノートは昭和天皇が事実上の最後通牒であると、独白録で述べている。
>>どの角度から見ても、これから話し合いをするけれども、話し合いのもとになる考え方をアメリカから提案すると言うことで、交渉のステップに過ぎない。
>>事実上の最後通牒などあるはずがない。最後通牒とはこれが認められなければ交戦状態に入るということで、交渉過程の条件吊り上げとは本質的に違う。
>ハルノートを「最後通牒である」とは、
>どのような場所で、どのような人達が、どのような過程で、どのように判断したのか?
赤城さんとは別の角度から述べたいと思います。
当時は、ハル・ノートも「二十六日案」と呼ばれていました。
その前の11月20日に野村・来栖大使がアメリカに提示したのは、「二十日案」です。
4月8日にアメリカから示された第一次試案は、「日米諒解案」です。
つまり、交渉の叩き台となる「案」です。
しかし、「案」の内容が重要なのです。「案」だから譲歩の余地があるというのは早計です。
そこに日本が飲めない議題と交渉の出発点が書かれていれば、どうでしょうか。
そして、重要なのは交渉経過と状況です。
交渉経過を見ると、日本にも妥協しようと気運があったのですが、交渉は難航します。
そして、日本軍の南部仏印進駐と8月1日アメリカの対日石油全面禁輸措置があって、対立が決定的となります。
ただし、すでに5月頃から、アメリカはあらゆる制限を設けて、実質的には全面禁輸に近い状態でした。
「アメリカは蒋介石軍へ軍事援助継続」「日本のアジアからの全面撤退」「石油禁輸」がアメリカの回答であり、日米開戦に向かう大きなファクターです。
9月4日日本の日米巨頭会議の提案をアメリカは拒否。
9月6日御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定。
「一、帝国ハ自存自衛ヲ全ウスル為対米(英蘭)戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ概ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス。二、帝国ハ右ニ並行シテ米英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽クシ帝国ノ要求貫徹ニ務ム。三、前号外交交渉ニ依リ十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ、直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス。」
日本が開戦を実質的に決意したのは、日本の修正案に対して、10月2日にハル米国務長官が提出したハル4原則の原則的了解と仏印・中国からの撤兵要求の覚書(アメリカ・ノート)にあると言われています。
10月16日近衛内閣、日米合意ができないことを理由に退陣し、東条内閣成立。
11月1日政府大本営連絡会議で改めて、開戦決意を確認。
しかし、天皇陛下の「なお、交渉を」の言葉があり、日本は来栖特使を派遣し20日間足らずで14回に渡る会談を重ねたが、アメリカの回答は「ハル・ノート」でした。
アメリカの態度は最初から最後の「ハル・ノート」まで一貫して、妥協案や代案を示すことなく、日本の譲歩のみを要求しています。
昭和20年ハル長官はアメリカ議会の真珠湾事件調査委員会で、「11月20日、野村、来栖の両大使は余に提案を提出したが、余も他の政府高官も陸海軍省の提供した傍受電報によって、それが日本の最後通牒であることを知った」と述べています。(真珠湾は奇襲ではなかった?)
つまり、ハル長官も状況を知りながら、日本の「二十日案」を完全に拒否して「ハル・ノート」を叩き付けたというが、真相です。
勿論、ハル長官は「ハル・ノート」が最後通牒であることを否定していますが。
しかし、『その翌朝、ハル長官はスチムソン陸軍長官に、「私は日米交渉から足を洗った。いまやこの問題はあなたとノックス(海軍長官)、すなわち陸海軍の手中に落ちた」(「ルーズベルト大統領と1941年戦争の到来」防衛研修所)と語ったという。』のは、すでに日米交渉が打開の余地のない状況に陥った認識があることを意味しています。
日米相互に実質的な最後通牒だと考えたとしても、当然だった訳です。
したがって、交渉経過や状況を見ずに、「ハル・ノートは交渉のステップであり、最後通牒ではない」と断ずるのは、単純過ぎます。
ハル長官の「二十六日案」は到底容認し得べきものでないとして日本が最終的な開戦を決定したのは、12月2日の御前会議です。
しかしなお、「だが若し日米交渉にして打開の道があれば戦争に訴えず」という「条件」が付せられていました。
「ハル・ノートは最後通牒である」と騙されていたら、この「条件」は付かないでしょう。
>>どの角度から見ても、これから話し合いをするけれども、話し合いのもとになる考え方をアメリカから提案すると言うことで、交渉のステップに過ぎない。
>>事実上の最後通牒などあるはずがない。最後通牒とはこれが認められなければ交戦状態に入るということで、交渉過程の条件吊り上げとは本質的に違う。
>ハルノートを「最後通牒である」とは、
>どのような場所で、どのような人達が、どのような過程で、どのように判断したのか?
赤城さんとは別の角度から述べたいと思います。
当時は、ハル・ノートも「二十六日案」と呼ばれていました。
その前の11月20日に野村・来栖大使がアメリカに提示したのは、「二十日案」です。
4月8日にアメリカから示された第一次試案は、「日米諒解案」です。
つまり、交渉の叩き台となる「案」です。
しかし、「案」の内容が重要なのです。「案」だから譲歩の余地があるというのは早計です。
そこに日本が飲めない議題と交渉の出発点が書かれていれば、どうでしょうか。
そして、重要なのは交渉経過と状況です。
交渉経過を見ると、日本にも妥協しようと気運があったのですが、交渉は難航します。
そして、日本軍の南部仏印進駐と8月1日アメリカの対日石油全面禁輸措置があって、対立が決定的となります。
ただし、すでに5月頃から、アメリカはあらゆる制限を設けて、実質的には全面禁輸に近い状態でした。
「アメリカは蒋介石軍へ軍事援助継続」「日本のアジアからの全面撤退」「石油禁輸」がアメリカの回答であり、日米開戦に向かう大きなファクターです。
9月4日日本の日米巨頭会議の提案をアメリカは拒否。
9月6日御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定。
「一、帝国ハ自存自衛ヲ全ウスル為対米(英蘭)戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ概ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス。二、帝国ハ右ニ並行シテ米英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽クシ帝国ノ要求貫徹ニ務ム。三、前号外交交渉ニ依リ十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ、直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス。」
日本が開戦を実質的に決意したのは、日本の修正案に対して、10月2日にハル米国務長官が提出したハル4原則の原則的了解と仏印・中国からの撤兵要求の覚書(アメリカ・ノート)にあると言われています。
10月16日近衛内閣、日米合意ができないことを理由に退陣し、東条内閣成立。
11月1日政府大本営連絡会議で改めて、開戦決意を確認。
しかし、天皇陛下の「なお、交渉を」の言葉があり、日本は来栖特使を派遣し20日間足らずで14回に渡る会談を重ねたが、アメリカの回答は「ハル・ノート」でした。
アメリカの態度は最初から最後の「ハル・ノート」まで一貫して、妥協案や代案を示すことなく、日本の譲歩のみを要求しています。
昭和20年ハル長官はアメリカ議会の真珠湾事件調査委員会で、「11月20日、野村、来栖の両大使は余に提案を提出したが、余も他の政府高官も陸海軍省の提供した傍受電報によって、それが日本の最後通牒であることを知った」と述べています。(真珠湾は奇襲ではなかった?)
つまり、ハル長官も状況を知りながら、日本の「二十日案」を完全に拒否して「ハル・ノート」を叩き付けたというが、真相です。
勿論、ハル長官は「ハル・ノート」が最後通牒であることを否定していますが。
しかし、『その翌朝、ハル長官はスチムソン陸軍長官に、「私は日米交渉から足を洗った。いまやこの問題はあなたとノックス(海軍長官)、すなわち陸海軍の手中に落ちた」(「ルーズベルト大統領と1941年戦争の到来」防衛研修所)と語ったという。』のは、すでに日米交渉が打開の余地のない状況に陥った認識があることを意味しています。
日米相互に実質的な最後通牒だと考えたとしても、当然だった訳です。
したがって、交渉経過や状況を見ずに、「ハル・ノートは交渉のステップであり、最後通牒ではない」と断ずるのは、単純過ぎます。
ハル長官の「二十六日案」は到底容認し得べきものでないとして日本が最終的な開戦を決定したのは、12月2日の御前会議です。
しかしなお、「だが若し日米交渉にして打開の道があれば戦争に訴えず」という「条件」が付せられていました。
「ハル・ノートは最後通牒である」と騙されていたら、この「条件」は付かないでしょう。
これは メッセージ 3274 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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