山本七平『洪思翊中将の処刑』
投稿者: bosintang 投稿日時: 2002/03/17 14:08 投稿番号: [920 / 3669]
に関連して、最近の新聞記事を紹介します。
[時論]親日派洪思翊(文化日報2002年3月13日)
「朝鮮人洪思翊です」。
洪思翊は日本の植民地期,朝鮮人出身として唯一日本帝国陸軍中将まで昇った軍人で,戦後A級戦犯として処刑された。かれは日本帝国の将星でありながら,最後まで創氏改名を拒否したまま洪思翊という名前で通した。そして軍隊内で自己紹介するとき,常に朝鮮人であることをまず明らかにした。軍首脳部さえ,彼のこのような頑さを曲げさせることができなかったそうだ。
最近,国会内の「民族正気を建て直す議員の集い」による親日反民族行為者708人名簿の発表と関連して,再び彼の名が挙がった。発表時の名簿には含まれていないが,彼については諮問委員たちが書いた「提言」の4番目に取り上げられた。それによれば,「光復会で審議した692人からチョン・ウンボク(安重根の伊藤博文処断に対する謝罪団団長),イ・イクフン(警察所長),洪思翊(将星)など,親日反民族行為が歴然としている人士が漏れている。次の機会には名簿に入れることを望ましい」となっている。
朝鮮朝末期の1887年,京畿道アンソンの貧寒な農家に生まれた洪思翊は,16歳のとき武官学校に入学したが,大韓帝国皇帝の命令で留学生として日本陸軍中央幼年学校に入る。しかし学業に精進していた途中の1910年,大韓帝国は日本に併合されてしまう。1900年6月19日に発表された大韓帝国皇帝の軍人諭勅を胸に抱いていた洪思翊と,同じ境遇の同僚たちにとって青天の霹靂の事態だった。彼らは秘密裏に会い,今後の身の処し方について議論した。全員脱走して帰国しようとか,さまざまな意見が出たが,大部分は洪思翊の主張のとおり,勉強を続けるということで合意した。
ここで最初の疑問は,洪思翊はなぜ祖国を失った武人の立場で学業の継続を主張したのかである。
二つ目は,陸士生徒の時期を前後して同僚たちからの脱走,光復軍参与の勧めを拒んだ点だ。彼は一部の同僚,すなわち後に独立軍として名をはせる李青天の誘いにもかかわらず,日本軍将校として残留する。それなのに彼は自分の月給をさいて同僚の亡命者や独立軍の家族を助けることに献身する。
苦難よりは栄華を選んだ者の,わずかばかりの良心ゆえだったのか。
日本帝国軍隊の将校として服務しながら,彼は毎年,年初を迎えるにあたって,李王家参拝を忘れなかった。最後まで大韓帝国皇帝の軍人諭勅を捨てなかったという彼の行為は,このように矛盾があるように見える。洪思翊は後に,李王家を以外では朝鮮人として唯一陸団大学を出,将星にまで進級する。そして中将だった1944年,フィリピン戦時捕虜司令官に赴任したあと,敗戦とともにA級戦犯に分類される。
三番めの疑問は,彼が長い期間の裁判の過程で,ただの一言の弁明もなしに沈黙を通したという点だ。彼の心の中には,日本人自らが行った捕虜にたいする残虐行為いっさいを彼にかぶせ,自分のかわりに絞首台に送るのではないかという疑惑や憤怒がわかなかったのか。あるいはマッカーサー将軍の焦燥感にたいし,一言の蔑視表現ぐらいは可能ではなかったのか。事実,マッカーサーはフィリピンで初期の日本軍の破竹の勢いに押され,自分の部下たちを捨てて,一人逃げ出したということのため,捕虜虐待問題について必ず犠牲の羊が必要な状況だった。洪思翊はなぜ何もいわなかったのか。
洪思翊は1946年9月26日処刑場へ移送され,絞首台に昇った。かれが最後に参観人たちに頼んだのは旧約聖書詩篇51篇の朗唱だった。「私が罪悪の中に生まれたのであり,母親が罪の中に私を身籠もったのだ。内心に真実であることを主は望まれるゆえ,私の中に知恵を知らしめたまえ」
洪思翊の長い沈黙を,今日を生きるわれわれはどう受け止めるべきか。そして後世の人々の彼に対する親日派分類作業を彼自身はどう受け止めているだろうか。洪思翊の忠誠の対象ははたして日本天皇だったのだろうか。そうでなければだれだったのか。最近の親日派論争を見ながら感じる断想は,人間とはわれわれが考えるよりずっと複雑な存在だという点だ。(イ・シンウ論説委員)
[時論]親日派洪思翊(文化日報2002年3月13日)
「朝鮮人洪思翊です」。
洪思翊は日本の植民地期,朝鮮人出身として唯一日本帝国陸軍中将まで昇った軍人で,戦後A級戦犯として処刑された。かれは日本帝国の将星でありながら,最後まで創氏改名を拒否したまま洪思翊という名前で通した。そして軍隊内で自己紹介するとき,常に朝鮮人であることをまず明らかにした。軍首脳部さえ,彼のこのような頑さを曲げさせることができなかったそうだ。
最近,国会内の「民族正気を建て直す議員の集い」による親日反民族行為者708人名簿の発表と関連して,再び彼の名が挙がった。発表時の名簿には含まれていないが,彼については諮問委員たちが書いた「提言」の4番目に取り上げられた。それによれば,「光復会で審議した692人からチョン・ウンボク(安重根の伊藤博文処断に対する謝罪団団長),イ・イクフン(警察所長),洪思翊(将星)など,親日反民族行為が歴然としている人士が漏れている。次の機会には名簿に入れることを望ましい」となっている。
朝鮮朝末期の1887年,京畿道アンソンの貧寒な農家に生まれた洪思翊は,16歳のとき武官学校に入学したが,大韓帝国皇帝の命令で留学生として日本陸軍中央幼年学校に入る。しかし学業に精進していた途中の1910年,大韓帝国は日本に併合されてしまう。1900年6月19日に発表された大韓帝国皇帝の軍人諭勅を胸に抱いていた洪思翊と,同じ境遇の同僚たちにとって青天の霹靂の事態だった。彼らは秘密裏に会い,今後の身の処し方について議論した。全員脱走して帰国しようとか,さまざまな意見が出たが,大部分は洪思翊の主張のとおり,勉強を続けるということで合意した。
ここで最初の疑問は,洪思翊はなぜ祖国を失った武人の立場で学業の継続を主張したのかである。
二つ目は,陸士生徒の時期を前後して同僚たちからの脱走,光復軍参与の勧めを拒んだ点だ。彼は一部の同僚,すなわち後に独立軍として名をはせる李青天の誘いにもかかわらず,日本軍将校として残留する。それなのに彼は自分の月給をさいて同僚の亡命者や独立軍の家族を助けることに献身する。
苦難よりは栄華を選んだ者の,わずかばかりの良心ゆえだったのか。
日本帝国軍隊の将校として服務しながら,彼は毎年,年初を迎えるにあたって,李王家参拝を忘れなかった。最後まで大韓帝国皇帝の軍人諭勅を捨てなかったという彼の行為は,このように矛盾があるように見える。洪思翊は後に,李王家を以外では朝鮮人として唯一陸団大学を出,将星にまで進級する。そして中将だった1944年,フィリピン戦時捕虜司令官に赴任したあと,敗戦とともにA級戦犯に分類される。
三番めの疑問は,彼が長い期間の裁判の過程で,ただの一言の弁明もなしに沈黙を通したという点だ。彼の心の中には,日本人自らが行った捕虜にたいする残虐行為いっさいを彼にかぶせ,自分のかわりに絞首台に送るのではないかという疑惑や憤怒がわかなかったのか。あるいはマッカーサー将軍の焦燥感にたいし,一言の蔑視表現ぐらいは可能ではなかったのか。事実,マッカーサーはフィリピンで初期の日本軍の破竹の勢いに押され,自分の部下たちを捨てて,一人逃げ出したということのため,捕虜虐待問題について必ず犠牲の羊が必要な状況だった。洪思翊はなぜ何もいわなかったのか。
洪思翊は1946年9月26日処刑場へ移送され,絞首台に昇った。かれが最後に参観人たちに頼んだのは旧約聖書詩篇51篇の朗唱だった。「私が罪悪の中に生まれたのであり,母親が罪の中に私を身籠もったのだ。内心に真実であることを主は望まれるゆえ,私の中に知恵を知らしめたまえ」
洪思翊の長い沈黙を,今日を生きるわれわれはどう受け止めるべきか。そして後世の人々の彼に対する親日派分類作業を彼自身はどう受け止めているだろうか。洪思翊の忠誠の対象ははたして日本天皇だったのだろうか。そうでなければだれだったのか。最近の親日派論争を見ながら感じる断想は,人間とはわれわれが考えるよりずっと複雑な存在だという点だ。(イ・シンウ論説委員)
これは メッセージ 230 (piment999 さん)への返信です.
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