3・1運動、その未完の片側革命⑤
投稿者: bosintang 投稿日時: 2001/12/30 19:00 投稿番号: [381 / 3669]
(2)
日本社会主義発展と若い朝鮮知識人たち
おもしろいことに、3・1運動が起こった1919年は、日本社会主義運動史においても記念碑的な年だ。1919年、日本では数多くの労組が結成され、合計2388件の労働争議が起こり、年間32万人以上の労働者が労働運動を引き起こした。なぜこのように朝鮮民衆の3・1運動と日本民衆の社会主義運動は、ピッタリ一致するんだろう?
ではここで、日本の社会主義の発展史をちょっとだけ説明してから先に進もう。
明治維新以後、日本からヨーロッパに渡った多くの日本留学生たちは、「ヨーロッパのもの」と言えば便器を磨くブラシさえ偉大だと思うほど、ヨーロッパ文明に傾倒していた。そのさなか、マルキシズムが日本社会にも紹介され、日本では1898年、早くも日本共産党の前身といえる「社会主義研究会」が結成された。社会主義研究会は、以後、「社会民主党」として本格的な政党になったが、社会主義革命を恐れる日本帝国主義者たちは、治安警察法によって彼らを弾圧し、解散させた。しかし、再び労働争議、小作争議が活発に起こった1900年代中盤の1906年、結局また日本社会党が結成され、彼らは東京市の電気料金引き上げに際して大々的な民衆運動を展開、結局は再び警察機動隊と衝突する事態を招いた。それだけでなく、翌1907年には大々的な労働者ストを展開、日本軍が出動しこれを鎮圧するという事態にまで至った。これを契機として日本政府は、社会党の解散を執行したが、このとき拘束された党員たちが出所すると、社会党員たちが集まって赤い旗を押し立てて行進するのを再び警察が攻撃、数多くの社会党員が再び逮捕されるという有名な赤旗事件につながり、現在も日本共産党の機関紙の名前は「赤い旗」すなわち「アカハタ」として残っている。
1908年に成立した第2次桂内閣は、社会主義者に対する取締りを強化、結局1910年には大逆事件(天皇暗殺謀議事件)を捏造、社会主義者検挙に熱をあげ、日本社会主義を1919年まで深い冬眠に陥らせた。これについては、日本史教科書に出ている文章を紹介する。
「韓国併合に際し、それまでの日本政府の対朝鮮政策を批判し、朝鮮民衆に同情を寄せていた日本の社会主義者たちも、5月から8月までの大逆事件によるすさまじい検挙の嵐と社会主義者弾圧のために、併合に対する反対運動を起こすこともできなかった」
上で説明したように、日本社会主義運動の特徴は自然発生的だったということだ。日本資本主義が、ヨーロッパ、特に英国をモデルとしたこと、そしてマルクスが資本論の著述に際し、特に英国労働者たちの悲惨な日常を主要なモデルとしたことを考えれば、日本の社会主義運動がいかに自然発生的だったかは、あらためて述べる必要もない。それだけ、日本が直輸入した英国の「原初的資本主義」の弊害は深刻だったのだ。コミンテルンだって? 日本社会党が結成されたのは、コミンテルンが成立するよりずっと前のことだ。
では、日本領朝鮮に、社会主義はどのように紹介されたのか? 日本領朝鮮に社会主義が伝えられた主なルートは日本だった。当時、日本領朝鮮の知識人の多くは日本へ留学しており、彼らが当時の日本知識人社会に吹いていた「左派の風」に大きく鼓舞されたことは当然だ。日本の社会主義者たちは、日本の植民地経営にも反対したし、朝鮮民衆の運命は朝鮮民衆の力によって決定されるべきだと、日本に留学に来ていた朝鮮の若者たちに独立の意志を植えつけてやったのだ。当然、これにイカレタ朝鮮の若い知識人たちは、社会主義思想を母国朝鮮に移植しようという努力を傾け始める。これが朝鮮労働党、とくに南労党系列の思想的母胎になる。
もう一度言うと、社会主義者たちの独立争取のための努力が貶められることがあってはならないということだ。
(つづく)
おもしろいことに、3・1運動が起こった1919年は、日本社会主義運動史においても記念碑的な年だ。1919年、日本では数多くの労組が結成され、合計2388件の労働争議が起こり、年間32万人以上の労働者が労働運動を引き起こした。なぜこのように朝鮮民衆の3・1運動と日本民衆の社会主義運動は、ピッタリ一致するんだろう?
ではここで、日本の社会主義の発展史をちょっとだけ説明してから先に進もう。
明治維新以後、日本からヨーロッパに渡った多くの日本留学生たちは、「ヨーロッパのもの」と言えば便器を磨くブラシさえ偉大だと思うほど、ヨーロッパ文明に傾倒していた。そのさなか、マルキシズムが日本社会にも紹介され、日本では1898年、早くも日本共産党の前身といえる「社会主義研究会」が結成された。社会主義研究会は、以後、「社会民主党」として本格的な政党になったが、社会主義革命を恐れる日本帝国主義者たちは、治安警察法によって彼らを弾圧し、解散させた。しかし、再び労働争議、小作争議が活発に起こった1900年代中盤の1906年、結局また日本社会党が結成され、彼らは東京市の電気料金引き上げに際して大々的な民衆運動を展開、結局は再び警察機動隊と衝突する事態を招いた。それだけでなく、翌1907年には大々的な労働者ストを展開、日本軍が出動しこれを鎮圧するという事態にまで至った。これを契機として日本政府は、社会党の解散を執行したが、このとき拘束された党員たちが出所すると、社会党員たちが集まって赤い旗を押し立てて行進するのを再び警察が攻撃、数多くの社会党員が再び逮捕されるという有名な赤旗事件につながり、現在も日本共産党の機関紙の名前は「赤い旗」すなわち「アカハタ」として残っている。
1908年に成立した第2次桂内閣は、社会主義者に対する取締りを強化、結局1910年には大逆事件(天皇暗殺謀議事件)を捏造、社会主義者検挙に熱をあげ、日本社会主義を1919年まで深い冬眠に陥らせた。これについては、日本史教科書に出ている文章を紹介する。
「韓国併合に際し、それまでの日本政府の対朝鮮政策を批判し、朝鮮民衆に同情を寄せていた日本の社会主義者たちも、5月から8月までの大逆事件によるすさまじい検挙の嵐と社会主義者弾圧のために、併合に対する反対運動を起こすこともできなかった」
上で説明したように、日本社会主義運動の特徴は自然発生的だったということだ。日本資本主義が、ヨーロッパ、特に英国をモデルとしたこと、そしてマルクスが資本論の著述に際し、特に英国労働者たちの悲惨な日常を主要なモデルとしたことを考えれば、日本の社会主義運動がいかに自然発生的だったかは、あらためて述べる必要もない。それだけ、日本が直輸入した英国の「原初的資本主義」の弊害は深刻だったのだ。コミンテルンだって? 日本社会党が結成されたのは、コミンテルンが成立するよりずっと前のことだ。
では、日本領朝鮮に、社会主義はどのように紹介されたのか? 日本領朝鮮に社会主義が伝えられた主なルートは日本だった。当時、日本領朝鮮の知識人の多くは日本へ留学しており、彼らが当時の日本知識人社会に吹いていた「左派の風」に大きく鼓舞されたことは当然だ。日本の社会主義者たちは、日本の植民地経営にも反対したし、朝鮮民衆の運命は朝鮮民衆の力によって決定されるべきだと、日本に留学に来ていた朝鮮の若者たちに独立の意志を植えつけてやったのだ。当然、これにイカレタ朝鮮の若い知識人たちは、社会主義思想を母国朝鮮に移植しようという努力を傾け始める。これが朝鮮労働党、とくに南労党系列の思想的母胎になる。
もう一度言うと、社会主義者たちの独立争取のための努力が貶められることがあってはならないということだ。
(つづく)
これは メッセージ 380 (bosintang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/a2a1a53a5ja5a24xoa2bdqc0ra2a1_1/381.html