『イムジンガン』どう歌う2
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2009/11/20 08:07 投稿番号: [3563 / 3669]
「帰国同胞歓迎曲」も作る
この歌が発表された当時は、朝鮮総連が「帰国対策委員会」を設置(58年8月)し、北送事業に本掛かりになっていた時であり、第一陣が出港する1年4カ月前の時点でもある。
そして59年12月4日、北送第1船の2隻が新潟港に接岸し、14日に北に向け出発するまで、船から流れてきたのが同じ朴世永作詞の『帰国同胞歓迎曲』であった。その歌詞は『イムジンガン』の原詩2番の比ではないほど北を称え、北韓をはっきりと社会主義の楽園と呼んでいる。
早く来なさい同胞たち 兄弟姉妹よ
虐待と飢えも過ぎたことだ
海の上の太陽の光も われらの心のように
帰国船の航路に 花をふりまく
社会主義の楽園は ひろい懐で
あなたたちを 温かく迎える
(「朝鮮総連と収容所共和国」李英和著。小学館より)。
朴世永は日本大学出身であり、南と北をよく知るだけでなく、日本や在日同胞社会とも無縁ではなかった。『イムジンガン』は当然のこと、『帰国同胞歓迎曲』の作詞にもそうした経歴が関係あったのかも知れない。
6・25韓国戦争の休戦(53年7月)からさほど間がないこの時期、北韓は社主義諸国の結束した支援を受けて韓国よりも順調な経済復興の過程にあり、対韓優位の意識を再び強めていた。在日同胞の「帰国事業」も、復興への労働力確保に加え、韓国に対する優位の証・国威発揚の踏み台ととらえていた。
変容しながら根強くいまに
朴世永作詞による二つの曲は、北韓のそうした高揚感を映したものであり、北の体質そのままに極めて政治性の強いものである。今となっては顧みられる歌であるはずがない。『帰国同胞歓迎曲』は当然ながら、怨嗟の対象として墓場深くに葬られた。だが、『イムジンガン』は変容しながらも、根強く歌い継がれている。
■□
♪河よ思いを伝えておくれ
人の断絶なくしたい 日本の若者が歌い広まる
『イムジンガン』の生命力は何か。2番の歌詞から見て結局は、北韓の優位を称える歌と言わざるを得ないにもかかわらず、歌詞1番の自由な水鳥に託した情念が政治性の濃い2番を色あせさせるほどに強く、哀切なメロディーもまたその情念を掻き立たせずにはおかないからだ、とまずは言えるだろう。
しかし、これだけでは朝鮮総連や左派系の人々の間で歌われるだけで、次のステージはあり得なかったはずだ。1番の歌詞だけを知って感動し、イメージを大切に温めながら、まったく別物とも言っていい、新たな命を吹き込んだ日本人の若者がいなければならなかった。
この歌を『イムジン河』として日本社会に送り出したのは、大ヒット曲『帰ってきたヨッパライ』の作詞者で、ライター・編集者などの顔を持つ松山猛さん(46年、京都生まれ)であり、その仲間のフォーク・クルセダーズだ。
東芝音工(現・東芝EMI)によるレコード・リリースは68年2月だが、フォークルは65年の結成から間もなく、ライブで歌い始めている。
松山さんは、知り合った朝鮮高校の生徒からメロディーと1番の歌詞(日本語訳)を教わり、2番・3番を「南北がひとつになれば」との気持ちを込めて書き加えた。 この詩を「世間の相変わらずの差別意識を変えるために、まず身の周りから人間の自由や平等を音楽で訴えよう」と、フォークルに持ち込み、松山さんが聞き覚えた旋律を加藤和彦さんが採譜した。
大意が原詩と同じ1番は除いて、松山さんによる『イムジン河』の2番・3番の歌詞を見ておきたい。
北の大地から南の空へ
飛びゆく鳥よ自由の使者よ
誰が祖国を二つに分けてしまったの
誰が祖国を分けてしまったの
イムジン河空遠く
虹よかかっておくれ
河よ思いを伝えておくれ
ふるさとをいつまでも忘れはしない
イムジン河水きよく
とうとうとながる
歌の主人公の身は北にあり、北から南へ投げかける構図はそのままでも、この歌詞は南北いずれかの立場から一方を貶めることを許さない強いメッセージ性があり、松山さんが意図したとおり「南北がひとつになれば」との思いがにじむ。多くの同胞らが北と南を自在に入れ替えつつ、統一への鮮烈な願いを感じ取ってきた。
松山さんは「初めてコンサートで歌ったとき、会場は今まで体験したことのない静けさにつつまれ、演奏が終わっても静まり返ったまま。しばらくして嵐のような共感の拍手が起こり、それは感動的でした」と語っている。
まさかとは思ったが3まで行っちゃいます。
この歌が発表された当時は、朝鮮総連が「帰国対策委員会」を設置(58年8月)し、北送事業に本掛かりになっていた時であり、第一陣が出港する1年4カ月前の時点でもある。
そして59年12月4日、北送第1船の2隻が新潟港に接岸し、14日に北に向け出発するまで、船から流れてきたのが同じ朴世永作詞の『帰国同胞歓迎曲』であった。その歌詞は『イムジンガン』の原詩2番の比ではないほど北を称え、北韓をはっきりと社会主義の楽園と呼んでいる。
早く来なさい同胞たち 兄弟姉妹よ
虐待と飢えも過ぎたことだ
海の上の太陽の光も われらの心のように
帰国船の航路に 花をふりまく
社会主義の楽園は ひろい懐で
あなたたちを 温かく迎える
(「朝鮮総連と収容所共和国」李英和著。小学館より)。
朴世永は日本大学出身であり、南と北をよく知るだけでなく、日本や在日同胞社会とも無縁ではなかった。『イムジンガン』は当然のこと、『帰国同胞歓迎曲』の作詞にもそうした経歴が関係あったのかも知れない。
6・25韓国戦争の休戦(53年7月)からさほど間がないこの時期、北韓は社主義諸国の結束した支援を受けて韓国よりも順調な経済復興の過程にあり、対韓優位の意識を再び強めていた。在日同胞の「帰国事業」も、復興への労働力確保に加え、韓国に対する優位の証・国威発揚の踏み台ととらえていた。
変容しながら根強くいまに
朴世永作詞による二つの曲は、北韓のそうした高揚感を映したものであり、北の体質そのままに極めて政治性の強いものである。今となっては顧みられる歌であるはずがない。『帰国同胞歓迎曲』は当然ながら、怨嗟の対象として墓場深くに葬られた。だが、『イムジンガン』は変容しながらも、根強く歌い継がれている。
■□
♪河よ思いを伝えておくれ
人の断絶なくしたい 日本の若者が歌い広まる
『イムジンガン』の生命力は何か。2番の歌詞から見て結局は、北韓の優位を称える歌と言わざるを得ないにもかかわらず、歌詞1番の自由な水鳥に託した情念が政治性の濃い2番を色あせさせるほどに強く、哀切なメロディーもまたその情念を掻き立たせずにはおかないからだ、とまずは言えるだろう。
しかし、これだけでは朝鮮総連や左派系の人々の間で歌われるだけで、次のステージはあり得なかったはずだ。1番の歌詞だけを知って感動し、イメージを大切に温めながら、まったく別物とも言っていい、新たな命を吹き込んだ日本人の若者がいなければならなかった。
この歌を『イムジン河』として日本社会に送り出したのは、大ヒット曲『帰ってきたヨッパライ』の作詞者で、ライター・編集者などの顔を持つ松山猛さん(46年、京都生まれ)であり、その仲間のフォーク・クルセダーズだ。
東芝音工(現・東芝EMI)によるレコード・リリースは68年2月だが、フォークルは65年の結成から間もなく、ライブで歌い始めている。
松山さんは、知り合った朝鮮高校の生徒からメロディーと1番の歌詞(日本語訳)を教わり、2番・3番を「南北がひとつになれば」との気持ちを込めて書き加えた。 この詩を「世間の相変わらずの差別意識を変えるために、まず身の周りから人間の自由や平等を音楽で訴えよう」と、フォークルに持ち込み、松山さんが聞き覚えた旋律を加藤和彦さんが採譜した。
大意が原詩と同じ1番は除いて、松山さんによる『イムジン河』の2番・3番の歌詞を見ておきたい。
北の大地から南の空へ
飛びゆく鳥よ自由の使者よ
誰が祖国を二つに分けてしまったの
誰が祖国を分けてしまったの
イムジン河空遠く
虹よかかっておくれ
河よ思いを伝えておくれ
ふるさとをいつまでも忘れはしない
イムジン河水きよく
とうとうとながる
歌の主人公の身は北にあり、北から南へ投げかける構図はそのままでも、この歌詞は南北いずれかの立場から一方を貶めることを許さない強いメッセージ性があり、松山さんが意図したとおり「南北がひとつになれば」との思いがにじむ。多くの同胞らが北と南を自在に入れ替えつつ、統一への鮮烈な願いを感じ取ってきた。
松山さんは「初めてコンサートで歌ったとき、会場は今まで体験したことのない静けさにつつまれ、演奏が終わっても静まり返ったまま。しばらくして嵐のような共感の拍手が起こり、それは感動的でした」と語っている。
まさかとは思ったが3まで行っちゃいます。
これは メッセージ 3562 (jgeilsbandfreak さん)への返信です.
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