朝鮮文化の将来 五
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2007/03/16 11:19 投稿番号: [3175 / 3669]
(五)
朝鮮人ばかりではない、他の外人でも、そうした真相を認めずにある。ただただ日本国民の領土慾から発生した戦いである、併合の野心は既にその際から現れていると一概に断定するのであるが、しかし、かかる誤解を致した近因をしらべて見るに、日本人側において、負うべき責任が多大である。近代の日本の国民教育方針が、国家主義にのみ偏し、尚武の精神に資せんがため、役にも立たぬ自負心やら自尊心やらを助長したというきらいがある。それがためには、史実を曲解しても、何とも思わない、御用学者の罪は最大である。なかんずく、国史家の責任は、見のがすべからざるものだ、例えば秀吉の文禄役についていえば、秀吉はけだし一世の英雄であり、朝鮮は申すに及ばず、支那本部までをも席捲せんとした、つまり日本国民を代表したものは秀吉であるのだ、秀吉の未完の事業を達成するということは、われ等の責任であるといった工合に説明し、小学児童の唱歌にまで、八道蹂躪を高調せしめたものである。日清戦争の真相が全く直解されなくなったということは、これでは無理とは思われない。
文禄の役の結果した半島の生活については、何れ戦争が前後六七年もつづいたことであるから、悲しむべき事件が発生せなかったとはいわれない。が、しかし文禄の役の起った以前の半島は富裕であり、以後は貧弱になったということは史実では無い。半島には、この戦争の起る十数年前まで生長らえていた政治家で学者であった李栗谷という人がある、この人の宣祖王に進めた意見書を読むに、嘉靖より草暦にわたりて、半島の地方は疲憊の極に達していたことがわかるのであるから、戦役前まで富んでいたとは思われない、ただこの戦争の結果が貧弱の上塗りをしたとはいえるであろう。文禄の役の動機について論述する遑は無いが、秀吉の征服慾からであるという工合に即断することは、危険である。
支那に対しても同様であると思う。秀吉という人は、政治家であったから、宣伝は巧妙であった、従って彼れの遺文で見ると、大明打ち入りということは信ぜられるけれども、秀吉の真意は、足利時代の日支貿易を再開すべく、威嚇的文字を使用したままである。徳川家光の鎖国令以後の学者の頭脳では、秀吉時代の対支思想はわかろうはずはない。英雄なるものは、往往突飛的な気分を出すものではあるが、おおくは時代の産物である朱子が、宋の太祖の批評した言葉に、後人は太祖は前代のまつりごとをすみからすみまであらためたように思うけれども、間違いである。太祖はよくよくの弊をのみあらためた、英雄の手段はこうしたものだと述べているが、これらは参考すべき人物論であると思う。秀吉の主人は、信長であり、信長の主人筋は足利氏であるから、何といっても、あらそわれない伝統的気分がある。明からもらった冠服でも封冊でも、いささかも秀吉は破棄せなかったではないか。画像を見ても、得意げに明冠をいただいているのがある。すべてこうした方面から、彼れの真面目は却てうかがわれなければならぬ。当時の京城政府の彼れに対しての見解のよう、専ら征服慾の権化であるかにみてるのは禁物である。
日本人の皮相な解釈で、識者の笑われものになってる事件は、指摘すれば何ほどもあるが、中にも家族主義に関してである。朝鮮現代の道徳は、家族主義によりて支持されているということを耳にする日本の学者たちは、自国の家族主義に比べて見て、両民族の融和の一致点は、そこに見出さなければならぬと悦んでいるものもあるが、これほど見当違いのものはなかろう。同じく家族主義ではあるけれども、朝鮮のと内地のとは、雲泥の差が生じている。朝鮮のは大体より見て、氏族制度を脱出しかけた位の程度のもので、大家族主義の面影が見出される。半島の田舎への旅行者は、容易に知らるることと思うが、金とか趙とかいう一姓の大家族の聚落は、随所に発見される。
朝鮮人ばかりではない、他の外人でも、そうした真相を認めずにある。ただただ日本国民の領土慾から発生した戦いである、併合の野心は既にその際から現れていると一概に断定するのであるが、しかし、かかる誤解を致した近因をしらべて見るに、日本人側において、負うべき責任が多大である。近代の日本の国民教育方針が、国家主義にのみ偏し、尚武の精神に資せんがため、役にも立たぬ自負心やら自尊心やらを助長したというきらいがある。それがためには、史実を曲解しても、何とも思わない、御用学者の罪は最大である。なかんずく、国史家の責任は、見のがすべからざるものだ、例えば秀吉の文禄役についていえば、秀吉はけだし一世の英雄であり、朝鮮は申すに及ばず、支那本部までをも席捲せんとした、つまり日本国民を代表したものは秀吉であるのだ、秀吉の未完の事業を達成するということは、われ等の責任であるといった工合に説明し、小学児童の唱歌にまで、八道蹂躪を高調せしめたものである。日清戦争の真相が全く直解されなくなったということは、これでは無理とは思われない。
文禄の役の結果した半島の生活については、何れ戦争が前後六七年もつづいたことであるから、悲しむべき事件が発生せなかったとはいわれない。が、しかし文禄の役の起った以前の半島は富裕であり、以後は貧弱になったということは史実では無い。半島には、この戦争の起る十数年前まで生長らえていた政治家で学者であった李栗谷という人がある、この人の宣祖王に進めた意見書を読むに、嘉靖より草暦にわたりて、半島の地方は疲憊の極に達していたことがわかるのであるから、戦役前まで富んでいたとは思われない、ただこの戦争の結果が貧弱の上塗りをしたとはいえるであろう。文禄の役の動機について論述する遑は無いが、秀吉の征服慾からであるという工合に即断することは、危険である。
支那に対しても同様であると思う。秀吉という人は、政治家であったから、宣伝は巧妙であった、従って彼れの遺文で見ると、大明打ち入りということは信ぜられるけれども、秀吉の真意は、足利時代の日支貿易を再開すべく、威嚇的文字を使用したままである。徳川家光の鎖国令以後の学者の頭脳では、秀吉時代の対支思想はわかろうはずはない。英雄なるものは、往往突飛的な気分を出すものではあるが、おおくは時代の産物である朱子が、宋の太祖の批評した言葉に、後人は太祖は前代のまつりごとをすみからすみまであらためたように思うけれども、間違いである。太祖はよくよくの弊をのみあらためた、英雄の手段はこうしたものだと述べているが、これらは参考すべき人物論であると思う。秀吉の主人は、信長であり、信長の主人筋は足利氏であるから、何といっても、あらそわれない伝統的気分がある。明からもらった冠服でも封冊でも、いささかも秀吉は破棄せなかったではないか。画像を見ても、得意げに明冠をいただいているのがある。すべてこうした方面から、彼れの真面目は却てうかがわれなければならぬ。当時の京城政府の彼れに対しての見解のよう、専ら征服慾の権化であるかにみてるのは禁物である。
日本人の皮相な解釈で、識者の笑われものになってる事件は、指摘すれば何ほどもあるが、中にも家族主義に関してである。朝鮮現代の道徳は、家族主義によりて支持されているということを耳にする日本の学者たちは、自国の家族主義に比べて見て、両民族の融和の一致点は、そこに見出さなければならぬと悦んでいるものもあるが、これほど見当違いのものはなかろう。同じく家族主義ではあるけれども、朝鮮のと内地のとは、雲泥の差が生じている。朝鮮のは大体より見て、氏族制度を脱出しかけた位の程度のもので、大家族主義の面影が見出される。半島の田舎への旅行者は、容易に知らるることと思うが、金とか趙とかいう一姓の大家族の聚落は、随所に発見される。
これは メッセージ 3174 (monju_jz さん)への返信です.
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