朝鮮文化の将来 四
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2007/03/16 11:15 投稿番号: [3174 / 3669]
(四)
日本は、半島の鮮人が部落時代を脱出せない際、早くも統一国家を組織していて、その派遣官は、南鮮にも出張していた。日本は、支那のコロニーなる楽浪帯方から文化を受入れた事実はあるといえるが、それすら軽微なものであり、多くは大陸への直接交通によりてなされてある。かつて、ある大官に対して、こうした見解を述べた際、大官は、それは初耳だと不思議がっていられたこともある。またかつて、『日本の朝鮮文化に感謝すべきことといったら、近代に於いてであるといわねばならぬ、それは退渓李氏の学風が直に我が崎門派に影響したことであるけれども、今人は、それ等に感謝を払おうとはせず、却てせないでもよい古代人に感謝しようとしているではないか、日本人が崎門派の著書を検別し、退渓李氏の学風の、内地においては、いかように発展したかを紹介したならば、鮮人の理解、亦いかばかりか』といったこともある。
併合の行われた際、ロシアの極東局長ツルベッコイ氏は、日韓併合の形式こそおろかなものはない、まるで裁判官と犯人とが、合意のもとに死刑を執行したというふれ出しではないか、その東洋式なることが、看取されるといったことがある。吾人は、今更それ等の批評をとって、答問したくはないが、周囲の事情によんどころなくせられたとはいえ、姑息の譏は、遂に免れないであろう。朝鮮人の歴史的誤解も詮索すれば、畢竟そこから出発するわけである。併合の前提として、第一に指摘せられるのは、日本の併合の野心は、日清戦争の当時において既に決定していたというのである。日本人すらも、この解釈に肯定を与えんとするかたむきがあるから困る。
日清戦争当時における日本の実力に対する国民の自信の、いかようであったかは、少しく注意すればただちに了解されるので、政府にも民間にも、絶対的勝利は愚か半島より清兵を撃退することすら勝算は持たないのであった。つまりあの戦役は、勝算なしに始めたから、成歓牙山で大勝したという報が□舞いこんでも安心は出来ず平壌大捷の報を手にするまでは、官民ともにおっかなおっかなですごした。戦の初めに、堂々たる軍人が家族を日光に避難せしめたことがある。日光なら、敵弾はとどかぬからとの見込みであったらしい。こんな笑話は、何程でもある。
戦争前三年ほどに、清国の水師提督丁汝昌は、堅鋭無比の名を博していた北洋艦隊をひきいて、横浜まで遊弋し、示威をやったことがある。彼れは、帰路長崎に寄港して一夕の宴を張ったものだ。ホンタという芸妓が姿色あったので彼れはお気に召したらしい、彼の女の肩をたたきながら、『こちらに来てから、何にも負けはしないが、お前にはまいった』といったとのことである。丁提督の眼中に日本のなかったことがわかる。既に戦いが開けてから、海洋島で両国の艦隊が衝突した、樺山将軍が、西京丸という仮装艦に乗り込み死に物ぐるいに敵艦隊を突き切ったという話しは、この際のことであるが、勝利はわが艦隊に帰したということを知ったのは、大分後のことで、実は意外に感じたほどであったのである。
海軍の方は、陸軍に比して、一層敵に怖れを抱いたという事実がある。海陸の大捷がつづいてから今までとは反対に、官民とも有頂天になり、北京城頂に旭日旗を立てなければ戦いは休めぬというような誇大妄想に駆られたが、それは患者が熱にうかされたようなもので、思慮ある階級では一日も速に局面を収めたいものと機を窺っていた、例の陸奥伯手記を見ると、その辺の消息は明かであるが、当時日本には、条約改正という開国以来の懸案が、今やワシントンの上院に附議せられていた間際であるから、事を隣邦に構うることを不利とした事情がある、朝鮮併合などとは、以ての外の妄想である。支那が半島より手を引いてくれれば十分であるとした、それに井上伯などが京城政府の改善を企ててみたが、紊乱するばかりで、一向寸効も挙がらない。この戦役の効果を述べるのが主題でないから省略するが、今日の鮮人の想像のごとき、併合の野心が、日清戦争の際からだというのは、全く事実では無い。寧ろ日本の国力に対する買い被りの嫌いがある。
日本は、半島の鮮人が部落時代を脱出せない際、早くも統一国家を組織していて、その派遣官は、南鮮にも出張していた。日本は、支那のコロニーなる楽浪帯方から文化を受入れた事実はあるといえるが、それすら軽微なものであり、多くは大陸への直接交通によりてなされてある。かつて、ある大官に対して、こうした見解を述べた際、大官は、それは初耳だと不思議がっていられたこともある。またかつて、『日本の朝鮮文化に感謝すべきことといったら、近代に於いてであるといわねばならぬ、それは退渓李氏の学風が直に我が崎門派に影響したことであるけれども、今人は、それ等に感謝を払おうとはせず、却てせないでもよい古代人に感謝しようとしているではないか、日本人が崎門派の著書を検別し、退渓李氏の学風の、内地においては、いかように発展したかを紹介したならば、鮮人の理解、亦いかばかりか』といったこともある。
併合の行われた際、ロシアの極東局長ツルベッコイ氏は、日韓併合の形式こそおろかなものはない、まるで裁判官と犯人とが、合意のもとに死刑を執行したというふれ出しではないか、その東洋式なることが、看取されるといったことがある。吾人は、今更それ等の批評をとって、答問したくはないが、周囲の事情によんどころなくせられたとはいえ、姑息の譏は、遂に免れないであろう。朝鮮人の歴史的誤解も詮索すれば、畢竟そこから出発するわけである。併合の前提として、第一に指摘せられるのは、日本の併合の野心は、日清戦争の当時において既に決定していたというのである。日本人すらも、この解釈に肯定を与えんとするかたむきがあるから困る。
日清戦争当時における日本の実力に対する国民の自信の、いかようであったかは、少しく注意すればただちに了解されるので、政府にも民間にも、絶対的勝利は愚か半島より清兵を撃退することすら勝算は持たないのであった。つまりあの戦役は、勝算なしに始めたから、成歓牙山で大勝したという報が□舞いこんでも安心は出来ず平壌大捷の報を手にするまでは、官民ともにおっかなおっかなですごした。戦の初めに、堂々たる軍人が家族を日光に避難せしめたことがある。日光なら、敵弾はとどかぬからとの見込みであったらしい。こんな笑話は、何程でもある。
戦争前三年ほどに、清国の水師提督丁汝昌は、堅鋭無比の名を博していた北洋艦隊をひきいて、横浜まで遊弋し、示威をやったことがある。彼れは、帰路長崎に寄港して一夕の宴を張ったものだ。ホンタという芸妓が姿色あったので彼れはお気に召したらしい、彼の女の肩をたたきながら、『こちらに来てから、何にも負けはしないが、お前にはまいった』といったとのことである。丁提督の眼中に日本のなかったことがわかる。既に戦いが開けてから、海洋島で両国の艦隊が衝突した、樺山将軍が、西京丸という仮装艦に乗り込み死に物ぐるいに敵艦隊を突き切ったという話しは、この際のことであるが、勝利はわが艦隊に帰したということを知ったのは、大分後のことで、実は意外に感じたほどであったのである。
海軍の方は、陸軍に比して、一層敵に怖れを抱いたという事実がある。海陸の大捷がつづいてから今までとは反対に、官民とも有頂天になり、北京城頂に旭日旗を立てなければ戦いは休めぬというような誇大妄想に駆られたが、それは患者が熱にうかされたようなもので、思慮ある階級では一日も速に局面を収めたいものと機を窺っていた、例の陸奥伯手記を見ると、その辺の消息は明かであるが、当時日本には、条約改正という開国以来の懸案が、今やワシントンの上院に附議せられていた間際であるから、事を隣邦に構うることを不利とした事情がある、朝鮮併合などとは、以ての外の妄想である。支那が半島より手を引いてくれれば十分であるとした、それに井上伯などが京城政府の改善を企ててみたが、紊乱するばかりで、一向寸効も挙がらない。この戦役の効果を述べるのが主題でないから省略するが、今日の鮮人の想像のごとき、併合の野心が、日清戦争の際からだというのは、全く事実では無い。寧ろ日本の国力に対する買い被りの嫌いがある。
これは メッセージ 3173 (monju_jz さん)への返信です.
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