朝鮮文化の将来 六(完)
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2007/03/16 11:24 投稿番号: [3176 / 3669]
(六)
そこには、宗孫と称して、一門中の宗家がある、家廟もある、他姓のものは、殆ど雑居せない。しかし、日本内地に見る如き村落共同の祭りを受ける村社とか郷社とかいったものは見あたらない。もしあるとしたら、それは、特定したある一姓の祀廟であるのであるから、あたかも、日本の中古時代に繁昌した氏神や氏寺のごとき性質を示している。姓氏を異にした人々が、共同に奉祀しようとするものは、寺院以外には見あたらぬ。支那の古典に、『神は非類を喜ばず』ということがあるが、非類は異姓をいうのである。同一血族が共同して祖先を祀るというのが、本旨であり、他姓はこれに加わることは出来ない。朝鮮の社会が、如何にして、こうした旧態を支持しているかは、別に研究を要することではあるが、かかる世相が、今日の政治文化の上に効益あるものとは、聊かも思われない。朝鮮人でも、識者は、『これら家族主義の支持は、いつまでたっても、民族の統一を促成するの障碍である』と気付いている。
家族主義に密接なる儒教について一言しようと思う。日本も半島もかつて儒教を以て道徳の基礎としたから、儒教提唱は、一般人民に受けがよかろうと解釈するのが普通であるが、これらは、半島の儒教と内地のそれとに、著大の差別あることに気づかぬという嫌いがある。日本の儒教には、礼が伴っていない。家族倫理は、ただ理論のみであるから、生活の様式には格別影響せないが、半島では、朱子の『文公家礼』によりて組織づけられたのが儒教である。『文公家礼』の作者については、支那の本国で既に議論があり、四庫全書にも収められていない。それだのに半島にては、冠婚葬祭即ち四礼の様式は、一つでも『家礼』の形式に背馳することはならぬとしている。支那本国にて輓近孔子教に反対する学徒の多いことは、ここには影響せないとはいわれぬけれども、今の朝鮮青年で、儒教解放を叫ばぬものはない。
今一つとの差異とは、儒教は五六百年の久しき、両班の護符であり、それ以外の階級には、適用されていないのである。両班たちの考えでは、孔子教は、仕大夫の礼で、士分以外には及ぼすべきものでないとする、ゆえに三年の喪のごとき長期の忌服は、ひとり両班のみ採用すべく、一般人民はそれにあずかるを得ないことになっていた。かかる歴史のもとに発達して来た儒教をもって、なお溌溂たる生命ありと思惟するならば、それは錯誤である。日本は、儒学を、復興するの意図があるそうだが、儒教は着古した衣類であるではないか、ほり出さなければならぬ運命のもとにある、古着をひろい上げて、再びわれ等にかぶせようとするなど、迷惑至極であると、一朝鮮の学者は述べている。半島に居住してから、僅に一年有余にしかならない、それに職業の性質上、古書堆裡に没頭しているから、外界のことは日々に疎遠になりがちだけれども、ささやかなる書意をすかしても時々さしこんでくる光りがないではない。今はただそれらの一二をかいつまんだまでである。(完)
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そこには、宗孫と称して、一門中の宗家がある、家廟もある、他姓のものは、殆ど雑居せない。しかし、日本内地に見る如き村落共同の祭りを受ける村社とか郷社とかいったものは見あたらない。もしあるとしたら、それは、特定したある一姓の祀廟であるのであるから、あたかも、日本の中古時代に繁昌した氏神や氏寺のごとき性質を示している。姓氏を異にした人々が、共同に奉祀しようとするものは、寺院以外には見あたらぬ。支那の古典に、『神は非類を喜ばず』ということがあるが、非類は異姓をいうのである。同一血族が共同して祖先を祀るというのが、本旨であり、他姓はこれに加わることは出来ない。朝鮮の社会が、如何にして、こうした旧態を支持しているかは、別に研究を要することではあるが、かかる世相が、今日の政治文化の上に効益あるものとは、聊かも思われない。朝鮮人でも、識者は、『これら家族主義の支持は、いつまでたっても、民族の統一を促成するの障碍である』と気付いている。
家族主義に密接なる儒教について一言しようと思う。日本も半島もかつて儒教を以て道徳の基礎としたから、儒教提唱は、一般人民に受けがよかろうと解釈するのが普通であるが、これらは、半島の儒教と内地のそれとに、著大の差別あることに気づかぬという嫌いがある。日本の儒教には、礼が伴っていない。家族倫理は、ただ理論のみであるから、生活の様式には格別影響せないが、半島では、朱子の『文公家礼』によりて組織づけられたのが儒教である。『文公家礼』の作者については、支那の本国で既に議論があり、四庫全書にも収められていない。それだのに半島にては、冠婚葬祭即ち四礼の様式は、一つでも『家礼』の形式に背馳することはならぬとしている。支那本国にて輓近孔子教に反対する学徒の多いことは、ここには影響せないとはいわれぬけれども、今の朝鮮青年で、儒教解放を叫ばぬものはない。
今一つとの差異とは、儒教は五六百年の久しき、両班の護符であり、それ以外の階級には、適用されていないのである。両班たちの考えでは、孔子教は、仕大夫の礼で、士分以外には及ぼすべきものでないとする、ゆえに三年の喪のごとき長期の忌服は、ひとり両班のみ採用すべく、一般人民はそれにあずかるを得ないことになっていた。かかる歴史のもとに発達して来た儒教をもって、なお溌溂たる生命ありと思惟するならば、それは錯誤である。日本は、儒学を、復興するの意図があるそうだが、儒教は着古した衣類であるではないか、ほり出さなければならぬ運命のもとにある、古着をひろい上げて、再びわれ等にかぶせようとするなど、迷惑至極であると、一朝鮮の学者は述べている。半島に居住してから、僅に一年有余にしかならない、それに職業の性質上、古書堆裡に没頭しているから、外界のことは日々に疎遠になりがちだけれども、ささやかなる書意をすかしても時々さしこんでくる光りがないではない。今はただそれらの一二をかいつまんだまでである。(完)
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これは メッセージ 3175 (monju_jz さん)への返信です.
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