誰による収奪だったのか?5
投稿者: bosintang 投稿日時: 2001/07/21 15:20 投稿番号: [162 / 3669]
(2)1920年代の経済状況
次に、日本の教科書をみてみよう。実教出版の日本史教科書247ページの内容だ。これは「寄生地主制の確立」という小項目の単元からの抜粋だ。
「政府の農業政策も地主の経済的利益を中心に執行され、日清戦争後、土地整備などのための金融機関として、政府によって日本勧業銀行や府県農工銀行などが設立され、耕地整理法も制定された。
このような流れのなかで、地主は農村においての支配勢力としての位置を固めると同時に、蓄積された利益を農業以外の工業、金融などに投資したり、自ら事業を興したりした。こうして1900年前後には寄生地主制が確立し、地主階級は新興資本家階級とともに国家の支配体制を支える重要な地位を占めるようになった。
寄生地主制のもとで、農業生産の大部分は、収穫の5割以上に達する小作料負担に苦労する小作農や、零細な土地を耕作する自作農など、貧しい農民たちによって担われた」
上の抜粋は、日本の農業政策についての概要説明の中から引いたものだ。つまり、小農小産から巨農多産政策へ日本の農業政策が転換されていく過程で、日本が近代において経験した農村経済の疲弊を説明した文章だ。なんかピンとこないか? 1999年4月発行の山川出版社「日本史研究」(日本の大学の日本史の講義で使われる教材)を見れば、1873年の日本の農村における小作農と自作農の比率は27.4対72.6で、自作農の比率がずっと高かった。しかし、この数値は1932年には47.5対52.5と、小作農の比率が急激に増加する。すなわち、日本政府は政策的に地主階級を育成したことがわかる。
日本の農業政策のあくどさは、次を見ればさらにはっきりする。次は、実教出版の「高校日本史」から抜粋した日本の「米騒動」の説明だ(283ページ)。
「1918年8月上旬、富山県魚津、西水橋、東水橋などで、数百名の主婦と娘たちが立ち上がった。北洋漁業で働く漁民の妻や娘だった。かれらは「食べ物を分けてくれ」と隣人たちといっしょに村長、地主、米商人の家に押し寄せ、米の買い占め売り惜しみをやめ、米の値段を下げるように要求した。このニュースは新聞に報道され、全国に広がり、騒動は全国に波及した。漁村の米騒ぎが工場労働者、鉱夫、非差別部落民、建設・港湾労働者を中心とする大規模騒動に発展した。
米騒動は4大工業地域を主な舞台に1都3府38県(ほぼ全国)に広がり、70万人以上が参加したと推定されている。このころ、労働者の増加と都市人口の増大、1917年の米収穫減と一部地主と米穀商人たちの買い占め売り惜しみなどが原因となり、米の価格が暴騰、庶民生活を苦しめていたのだった」
次に、日本の教科書をみてみよう。実教出版の日本史教科書247ページの内容だ。これは「寄生地主制の確立」という小項目の単元からの抜粋だ。
「政府の農業政策も地主の経済的利益を中心に執行され、日清戦争後、土地整備などのための金融機関として、政府によって日本勧業銀行や府県農工銀行などが設立され、耕地整理法も制定された。
このような流れのなかで、地主は農村においての支配勢力としての位置を固めると同時に、蓄積された利益を農業以外の工業、金融などに投資したり、自ら事業を興したりした。こうして1900年前後には寄生地主制が確立し、地主階級は新興資本家階級とともに国家の支配体制を支える重要な地位を占めるようになった。
寄生地主制のもとで、農業生産の大部分は、収穫の5割以上に達する小作料負担に苦労する小作農や、零細な土地を耕作する自作農など、貧しい農民たちによって担われた」
上の抜粋は、日本の農業政策についての概要説明の中から引いたものだ。つまり、小農小産から巨農多産政策へ日本の農業政策が転換されていく過程で、日本が近代において経験した農村経済の疲弊を説明した文章だ。なんかピンとこないか? 1999年4月発行の山川出版社「日本史研究」(日本の大学の日本史の講義で使われる教材)を見れば、1873年の日本の農村における小作農と自作農の比率は27.4対72.6で、自作農の比率がずっと高かった。しかし、この数値は1932年には47.5対52.5と、小作農の比率が急激に増加する。すなわち、日本政府は政策的に地主階級を育成したことがわかる。
日本の農業政策のあくどさは、次を見ればさらにはっきりする。次は、実教出版の「高校日本史」から抜粋した日本の「米騒動」の説明だ(283ページ)。
「1918年8月上旬、富山県魚津、西水橋、東水橋などで、数百名の主婦と娘たちが立ち上がった。北洋漁業で働く漁民の妻や娘だった。かれらは「食べ物を分けてくれ」と隣人たちといっしょに村長、地主、米商人の家に押し寄せ、米の買い占め売り惜しみをやめ、米の値段を下げるように要求した。このニュースは新聞に報道され、全国に広がり、騒動は全国に波及した。漁村の米騒ぎが工場労働者、鉱夫、非差別部落民、建設・港湾労働者を中心とする大規模騒動に発展した。
米騒動は4大工業地域を主な舞台に1都3府38県(ほぼ全国)に広がり、70万人以上が参加したと推定されている。このころ、労働者の増加と都市人口の増大、1917年の米収穫減と一部地主と米穀商人たちの買い占め売り惜しみなどが原因となり、米の価格が暴騰、庶民生活を苦しめていたのだった」
これは メッセージ 161 (bosintang さん)への返信です.
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