寺内初代朝鮮総督の国会演説(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/08/04 20:15 投稿番号: [283 / 1474]
韓国併合に関する演説(寺内正毅朝鮮総督
1911年1月26日)(2)
その手段としては、まず韓国皇帝、当時の韓国皇帝は、今日の情勢に鑑みられて、韓国の統治権を、挙げて我が陛下に譲与されることが宜しい、このことは、陛下自らが進んでこのことを宣言され、群臣に向かって詔勅を出されることが良いであろうという考えを持って、そのように事を進めました。
幸いにも、韓国皇帝陛下は、時勢を良く洞察されて、当時の統監の進言を許容されたのです。そして、閣僚並びに皇族及び元老の代表者を召集されてその意を伝えられたのが、8月22日です。私が韓国併合のことについて韓国の政府当局者と談判を始めたのは、8月16日が始めでした。22日にその運びをして、遂に午後1時に閣僚、臣下、皇族その他の代表者を召集されて、統治権譲渡の詔勅を韓国皇帝自ら下されたのです。そして、午後に、私、統監邸宅に、その詔勅を持って総理大臣が参りまして、自分との間に調印を終えたという次第です。ちょうど、当時、本国においてもこの条約について批准されていました。
この、条約という形式を取ったのは、前にお話したように大局的な観点から割り出したので、韓国政府においても、将来、韓国の人民が日本の人民と和衷同化していく手段としては、この方法が最も適当であろうということに同意して、こうなった次第です。
同時に、統監としては、将来、韓国民を天皇陛下の御懿旨によって統御するために、大体の施政方針を示す必要があると考えて、諭告を発して、それぞれ韓国民の準拠すべき点、天皇陛下が韓国民を撫育なさる御趣旨、将来の韓国を統治する政府が執るべき政治方針の概要を示した次第です。
これは、当時、詔勅その他と共に官報にも掲載されたので、諸君は大筋を御存知であると思うので、詳しくは述べません。併合は、このような順序によって出来たのです。
しかしながら、韓国の状況は、先に述べたとおりでありました。また、外国人に対しては治外法権が行われていた時であり、内地から韓国に来ている日本人に対しても、治外法権を行っていました。とにかく、そういう状態にあるときに韓国を併合して、一つの朝鮮総督府を置いたのです。それで、当時、財政その他諸般の措置を取るためにやむを得ず、憲法第8条、第70条の措置を執ることができました。
しかし、当時の状態は誠に静粛で、16日から22日まで談判をしたことは、ほとんど、二、三人の統監の属僚以外に知る者がいないほど静粛にできました。そして、29日に正式に両国の発表となりましたが、この間に於いて、韓国の治安上の関係がどうなったかということを遡って説明しておくのが良かろうと考えます。
(治安対策)
私が統監の任務を拝命したのは、5月30日であったと思います。その後、韓国の治安維持のことを考えて見ると、当時は、京畿道に警視庁があって全国の警察を掌握し、一方で憲兵が本部を設けているというような状況で、警察も統一して単純化されていませんでした。しかし、併合を実行するには、人心を統一し、不慮に備える措置を取ることは当然と考え、万一そのあたりの配慮を欠き、不幸にして血を見るような事態に至ったならば、仮に併合のことを両国間で締結できたとしても、その影響は世界にどのように響くであろうかということについて、私一身のためには敢えて考えませんが、帝国の威信に鑑み、かなりの考慮を尽くしたのです。
それで、まず韓国政府と協議して警察を統一しました。つまり、憲兵、巡査を全て合わせて一つの警視総監の下に統一し、警察が敏速に活動できるようにしました。当時僅か1000人であった憲兵を増加して8000人とし、13道にそれぞれ1000人前後の巡査、憲兵を配置しました。しかしながら、彼らは統一して用いられたので、従来よりも数倍の働きをしたのは明らかであると思います。
ソウルではどのような措置を取ったかというと、当時、ソウルには一大隊と一中隊の韓国の兵隊がありました。今もあります。他には、憲兵巡査の他には、武装した兵士は一人もソウルには入っておりません。龍山には我々の派遣隊の本部があり兵士がいますが、南大門内には、武装した兵士は、談判中も談判後も、総督府の門の護衛の他は一人も武装兵は入っていません。ただし、西大門の外にある監獄には若干の兵士を配置しましたが、そのほかには何も兵士を配置したことは無いのです。このように、ソウルには何ら武装兵を配置使用したことは、それ以後今日まで無いのです。
(続く)
その手段としては、まず韓国皇帝、当時の韓国皇帝は、今日の情勢に鑑みられて、韓国の統治権を、挙げて我が陛下に譲与されることが宜しい、このことは、陛下自らが進んでこのことを宣言され、群臣に向かって詔勅を出されることが良いであろうという考えを持って、そのように事を進めました。
幸いにも、韓国皇帝陛下は、時勢を良く洞察されて、当時の統監の進言を許容されたのです。そして、閣僚並びに皇族及び元老の代表者を召集されてその意を伝えられたのが、8月22日です。私が韓国併合のことについて韓国の政府当局者と談判を始めたのは、8月16日が始めでした。22日にその運びをして、遂に午後1時に閣僚、臣下、皇族その他の代表者を召集されて、統治権譲渡の詔勅を韓国皇帝自ら下されたのです。そして、午後に、私、統監邸宅に、その詔勅を持って総理大臣が参りまして、自分との間に調印を終えたという次第です。ちょうど、当時、本国においてもこの条約について批准されていました。
この、条約という形式を取ったのは、前にお話したように大局的な観点から割り出したので、韓国政府においても、将来、韓国の人民が日本の人民と和衷同化していく手段としては、この方法が最も適当であろうということに同意して、こうなった次第です。
同時に、統監としては、将来、韓国民を天皇陛下の御懿旨によって統御するために、大体の施政方針を示す必要があると考えて、諭告を発して、それぞれ韓国民の準拠すべき点、天皇陛下が韓国民を撫育なさる御趣旨、将来の韓国を統治する政府が執るべき政治方針の概要を示した次第です。
これは、当時、詔勅その他と共に官報にも掲載されたので、諸君は大筋を御存知であると思うので、詳しくは述べません。併合は、このような順序によって出来たのです。
しかしながら、韓国の状況は、先に述べたとおりでありました。また、外国人に対しては治外法権が行われていた時であり、内地から韓国に来ている日本人に対しても、治外法権を行っていました。とにかく、そういう状態にあるときに韓国を併合して、一つの朝鮮総督府を置いたのです。それで、当時、財政その他諸般の措置を取るためにやむを得ず、憲法第8条、第70条の措置を執ることができました。
しかし、当時の状態は誠に静粛で、16日から22日まで談判をしたことは、ほとんど、二、三人の統監の属僚以外に知る者がいないほど静粛にできました。そして、29日に正式に両国の発表となりましたが、この間に於いて、韓国の治安上の関係がどうなったかということを遡って説明しておくのが良かろうと考えます。
(治安対策)
私が統監の任務を拝命したのは、5月30日であったと思います。その後、韓国の治安維持のことを考えて見ると、当時は、京畿道に警視庁があって全国の警察を掌握し、一方で憲兵が本部を設けているというような状況で、警察も統一して単純化されていませんでした。しかし、併合を実行するには、人心を統一し、不慮に備える措置を取ることは当然と考え、万一そのあたりの配慮を欠き、不幸にして血を見るような事態に至ったならば、仮に併合のことを両国間で締結できたとしても、その影響は世界にどのように響くであろうかということについて、私一身のためには敢えて考えませんが、帝国の威信に鑑み、かなりの考慮を尽くしたのです。
それで、まず韓国政府と協議して警察を統一しました。つまり、憲兵、巡査を全て合わせて一つの警視総監の下に統一し、警察が敏速に活動できるようにしました。当時僅か1000人であった憲兵を増加して8000人とし、13道にそれぞれ1000人前後の巡査、憲兵を配置しました。しかしながら、彼らは統一して用いられたので、従来よりも数倍の働きをしたのは明らかであると思います。
ソウルではどのような措置を取ったかというと、当時、ソウルには一大隊と一中隊の韓国の兵隊がありました。今もあります。他には、憲兵巡査の他には、武装した兵士は一人もソウルには入っておりません。龍山には我々の派遣隊の本部があり兵士がいますが、南大門内には、武装した兵士は、談判中も談判後も、総督府の門の護衛の他は一人も武装兵は入っていません。ただし、西大門の外にある監獄には若干の兵士を配置しましたが、そのほかには何も兵士を配置したことは無いのです。このように、ソウルには何ら武装兵を配置使用したことは、それ以後今日まで無いのです。
(続く)
これは メッセージ 281 (chaamiey さん)への返信です.
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