寺内初代朝鮮総督の国会演説(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/08/04 06:08 投稿番号: [281 / 1474]
国立国会図書館近代デジタルライブラリーの資料の一つです。
寺内正毅は、陸軍大臣、陸軍大将、韓国統監、初代朝鮮総督などを努め、後に首相にもなりました。彼は、併合直前の韓国統監として韓国併合の実際を主導し、併合後は初代の総督に就任しました。
併合の約半年後である明治44年(1911年)1月26日、彼は、国会(衆議院)において「韓国併合に関する演説」と題する演説を行い、併合前後の事情を国民に説明しました。以下、その全文を、現代口語に訳して書きます。(長い文なので、分割記載。なお、小見出しは私が適当に付したもの。)
韓国併合に関する演説(寺内正毅朝鮮総督 1911年1月26日)(1)
諸君、私は昨年7月に、不肖を顧みず韓国統監の任務を兼ねることになりました。そうなった事情は、御承知のように、前統監である曽根子爵が病気のために再起できないということにより、微力ながら陸軍大臣の職務を務めているところに、このような重大な任務を受けることは、いかにも身の程を知らないということでもありましたが、既に大命を下されたことですから、一身を捧げて大命を全うする決心をして、7月23日にソウルに赴任しました。そして、直ちに統監の職務を執りました。
よって、今ここに、韓国を我が帝国に併合することとなった経緯について、要点を諸君に御説明し、続いて、韓国の従来の政府と統監府とを併せて朝鮮総督府が置かれた経過、並びにその後の韓国の状況についてお話をしておきたい。
(併合前の朝鮮の状況)
最初、私が大命を受けるに当たり、韓国を適切な時期に併合するという任務を与えられましたが、これについては、多少の考慮をすべき点がありました。
まず、当時の韓国の現状について言いますと、一昨年の冬から韓国には種々の党派があり、韓国を日本に合併すべきと主張するグループもあり、これに反対する者もあり、学事上、政事上の関係から党派と見るべき団体は、十幾つありました。そして、在外の韓国人、すなわち近いところでは満州地方、遠くはアメリカなどにいる韓国人は、皆、母国の事情に対してそれぞれの意見を持っていたわけです。これらの関係が、先日、ハルピンに於ける悲しむべき伊藤公の遭難の一原因となりました。
また、内地においては、いくつかの団体は、政治上、学事上において、相争いつつあった有様です。韓国のソウルは、僅かに、内外人日本人を合わせて人口約20万人ですが、そこで何種類かの新聞雑誌、それらのものは勝手な論議を自由にし、政治上の見地から言うと、確かに政治は行われているか、いかにというくらいに乱擾を来していました。
そこに7月に赴任し、内外の情勢を考えて見ると、韓国の良民を助け、我が国威を発展させるために、速やかに韓国を合併するのが適当であるという考えを持ちました。それ故に、着任2週間余りで、それらのことについての意見を定め、本国政府の承認を求めました。そして大体同意を得たので、直ちに合併のことに取り掛かりました。
(併合の手続)
それで合併のことに移りまして、一つ説明しておきたいと思うのは、一体、合併をするということは、これは命ずる者の希望次第であって、合併の方法としては2つの手段があると考えました。一つは、宣告すること。もう一つは、協議的に条約を締結すること。この2通りの方法があると考えましたが、韓国の我が国との関係が今日に至った状態を十分に考慮し、また、将来において韓国を我が国の一部として指導・啓発するためには、宣言的に合併することは適当でないと考えました。寧ろ、今日、韓国の統治者、あるいはもう一つ進んで言えば韓国の主権者との間に、意思を疎通して条約を締結した方が、将来の韓国を指導・啓発するためにも、我が国民との融和・同化のためにも、良いだろうと考えました。
(続く)
寺内正毅は、陸軍大臣、陸軍大将、韓国統監、初代朝鮮総督などを努め、後に首相にもなりました。彼は、併合直前の韓国統監として韓国併合の実際を主導し、併合後は初代の総督に就任しました。
併合の約半年後である明治44年(1911年)1月26日、彼は、国会(衆議院)において「韓国併合に関する演説」と題する演説を行い、併合前後の事情を国民に説明しました。以下、その全文を、現代口語に訳して書きます。(長い文なので、分割記載。なお、小見出しは私が適当に付したもの。)
韓国併合に関する演説(寺内正毅朝鮮総督 1911年1月26日)(1)
諸君、私は昨年7月に、不肖を顧みず韓国統監の任務を兼ねることになりました。そうなった事情は、御承知のように、前統監である曽根子爵が病気のために再起できないということにより、微力ながら陸軍大臣の職務を務めているところに、このような重大な任務を受けることは、いかにも身の程を知らないということでもありましたが、既に大命を下されたことですから、一身を捧げて大命を全うする決心をして、7月23日にソウルに赴任しました。そして、直ちに統監の職務を執りました。
よって、今ここに、韓国を我が帝国に併合することとなった経緯について、要点を諸君に御説明し、続いて、韓国の従来の政府と統監府とを併せて朝鮮総督府が置かれた経過、並びにその後の韓国の状況についてお話をしておきたい。
(併合前の朝鮮の状況)
最初、私が大命を受けるに当たり、韓国を適切な時期に併合するという任務を与えられましたが、これについては、多少の考慮をすべき点がありました。
まず、当時の韓国の現状について言いますと、一昨年の冬から韓国には種々の党派があり、韓国を日本に合併すべきと主張するグループもあり、これに反対する者もあり、学事上、政事上の関係から党派と見るべき団体は、十幾つありました。そして、在外の韓国人、すなわち近いところでは満州地方、遠くはアメリカなどにいる韓国人は、皆、母国の事情に対してそれぞれの意見を持っていたわけです。これらの関係が、先日、ハルピンに於ける悲しむべき伊藤公の遭難の一原因となりました。
また、内地においては、いくつかの団体は、政治上、学事上において、相争いつつあった有様です。韓国のソウルは、僅かに、内外人日本人を合わせて人口約20万人ですが、そこで何種類かの新聞雑誌、それらのものは勝手な論議を自由にし、政治上の見地から言うと、確かに政治は行われているか、いかにというくらいに乱擾を来していました。
そこに7月に赴任し、内外の情勢を考えて見ると、韓国の良民を助け、我が国威を発展させるために、速やかに韓国を合併するのが適当であるという考えを持ちました。それ故に、着任2週間余りで、それらのことについての意見を定め、本国政府の承認を求めました。そして大体同意を得たので、直ちに合併のことに取り掛かりました。
(併合の手続)
それで合併のことに移りまして、一つ説明しておきたいと思うのは、一体、合併をするということは、これは命ずる者の希望次第であって、合併の方法としては2つの手段があると考えました。一つは、宣告すること。もう一つは、協議的に条約を締結すること。この2通りの方法があると考えましたが、韓国の我が国との関係が今日に至った状態を十分に考慮し、また、将来において韓国を我が国の一部として指導・啓発するためには、宣言的に合併することは適当でないと考えました。寧ろ、今日、韓国の統治者、あるいはもう一つ進んで言えば韓国の主権者との間に、意思を疎通して条約を締結した方が、将来の韓国を指導・啓発するためにも、我が国民との融和・同化のためにも、良いだろうと考えました。
(続く)
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/281.html