天皇問題③ Re: 東京裁判とはですね①
投稿者: parkavenuecanada 投稿日時: 2008/03/31 03:24 投稿番号: [97771 / 99628]
いわゆる「倭寇」には、日本人だけでなく朝鮮半島出身者や中国人も含まれていた
『和解のために』朴裕河
のは最近の歴史研究では明らかなようですが、そういう無国籍な人々もやがて国民国家の支配下へと組み込まれていきます。網野善彦のいう“日本人は日本国の「国制」のもとにいる人という意味以上でも以下でもありません”という指摘は当たり前なことですが、単一民族国家神話を解体できない人々には重要です。
この「天皇」議論から繋いで現代的な問題へと発展させると、網野の言に従えば、「日本国」とは多民族で形成する国家としての集合体にすぎないわけで、「日本人」とはその国制下にある人たちを意味します。「日本民族」はもちろん、「日本人」という単一な実体など、ポストモダン的に振る舞う以前に、歴史学的に認定できない。であれば、歴史的にも被征服者としての沖縄やアイヌ民族、あるいは帰化した朝鮮人、さらにはグローバルな時代をみすえて、つまり増大する“マルチチュード”の存在も視野に入れると、現憲法にもあるように、天皇が日本人を統合するものとして、あるいは象徴として“普遍性”を本当に持ち得るか? と問いたいわけです。
四方田犬彦の映画評を引いたように、天皇とは、ときにサミュエル・ベケットの劇中人物にあるような「内気で孤独で、周囲から理解されずにいる中年男」にすぎなかったりします。神でもなければ、思想家ですらなく、どこにでも見出せる平凡な人間です。特別な「血」が流れているわけでもありません。親や祖先がなんであろうと、自分(=その時の天皇)とは、サルトル的にいえば、何者にも還元されがたいたった一人の“実存”以上の存在ではありません。にもかかわらず、もし特別な「血」だと頑固におっしゃるなら、それは優生学的発想にほかならず、そこにおいてナチとの親近性が指摘されます。それはつまり、個々の人間(天皇は人間です!)を、先験的に優劣へと分離する露骨なレイシズムの根本概念です。
すなわち、そういう世界60億(だったっけ?)の中のわずか一人にすぎない、それ以上でも以下でもない生身の人間を、国民の求心的存在とする、そのアイデンティティとする、日本人全体で尊敬できるというのは、近代的理性的な人間からみると、敢えて差別的な言葉を引けば、浅田彰のいう「土人」的な世界観の中においてのみ可能だと思われます。
まして、日本人とは、日本国という脈々と続く“帝国”の中に、あるときは侵略的に、あるときは偶然に、あるときは国家性(諸君のいう「神の国」、それがあるとして)など無意識に個人的事情から、組み込まれたり入り込んだり迷い込んだ多様な人々の集合体にすぎないわけです。
冷戦が崩壊し、世界がナショナリズムの激動を目撃する中、一方においては欧州のような共同体へと指向する流れもあった。そういう時代、1990年6月、サンフランシスコの文学者の世界会議に柄谷行人は出席します。
フランス代表の一人、クリステーヴァのいった言葉も印象的でした。彼女は、われわれは、個人よりもフランス人を、フランス人よりもヨーロッパ人を、ヨーロッパ人よりも人類を上位においたモンテスキューの精神に帰るべきだといったのです。いうまでもなく、彼女は、「ヨーロッパ統合」に代表されるような理念、たかだか近代の産物にすぎないネーション・ステートを越えるべきだという理念に立ってます 『<戦前>の思考』柄谷行人
>事後法って法理論上タブーではないのですか
「侵略に対する罪」を事後法だという観点から法的に認めない、というのはそれ自体間違いではないと思います。
>もともと法律的前提がおかしいんだから無駄では?
天皇は「侵略に対する罪」として起訴されるはずなので、そういう意味では「おかしい」んじゃないですか。
現実の論理(戦勝国が敗戦国を一方的に裁くこと)は無視して、法律論に徹するなら、米国の戦争犯罪は、事後法ではなく当時の国際条約違反として裁けるんじゃありません?
のは最近の歴史研究では明らかなようですが、そういう無国籍な人々もやがて国民国家の支配下へと組み込まれていきます。網野善彦のいう“日本人は日本国の「国制」のもとにいる人という意味以上でも以下でもありません”という指摘は当たり前なことですが、単一民族国家神話を解体できない人々には重要です。
この「天皇」議論から繋いで現代的な問題へと発展させると、網野の言に従えば、「日本国」とは多民族で形成する国家としての集合体にすぎないわけで、「日本人」とはその国制下にある人たちを意味します。「日本民族」はもちろん、「日本人」という単一な実体など、ポストモダン的に振る舞う以前に、歴史学的に認定できない。であれば、歴史的にも被征服者としての沖縄やアイヌ民族、あるいは帰化した朝鮮人、さらにはグローバルな時代をみすえて、つまり増大する“マルチチュード”の存在も視野に入れると、現憲法にもあるように、天皇が日本人を統合するものとして、あるいは象徴として“普遍性”を本当に持ち得るか? と問いたいわけです。
四方田犬彦の映画評を引いたように、天皇とは、ときにサミュエル・ベケットの劇中人物にあるような「内気で孤独で、周囲から理解されずにいる中年男」にすぎなかったりします。神でもなければ、思想家ですらなく、どこにでも見出せる平凡な人間です。特別な「血」が流れているわけでもありません。親や祖先がなんであろうと、自分(=その時の天皇)とは、サルトル的にいえば、何者にも還元されがたいたった一人の“実存”以上の存在ではありません。にもかかわらず、もし特別な「血」だと頑固におっしゃるなら、それは優生学的発想にほかならず、そこにおいてナチとの親近性が指摘されます。それはつまり、個々の人間(天皇は人間です!)を、先験的に優劣へと分離する露骨なレイシズムの根本概念です。
すなわち、そういう世界60億(だったっけ?)の中のわずか一人にすぎない、それ以上でも以下でもない生身の人間を、国民の求心的存在とする、そのアイデンティティとする、日本人全体で尊敬できるというのは、近代的理性的な人間からみると、敢えて差別的な言葉を引けば、浅田彰のいう「土人」的な世界観の中においてのみ可能だと思われます。
まして、日本人とは、日本国という脈々と続く“帝国”の中に、あるときは侵略的に、あるときは偶然に、あるときは国家性(諸君のいう「神の国」、それがあるとして)など無意識に個人的事情から、組み込まれたり入り込んだり迷い込んだ多様な人々の集合体にすぎないわけです。
冷戦が崩壊し、世界がナショナリズムの激動を目撃する中、一方においては欧州のような共同体へと指向する流れもあった。そういう時代、1990年6月、サンフランシスコの文学者の世界会議に柄谷行人は出席します。
フランス代表の一人、クリステーヴァのいった言葉も印象的でした。彼女は、われわれは、個人よりもフランス人を、フランス人よりもヨーロッパ人を、ヨーロッパ人よりも人類を上位においたモンテスキューの精神に帰るべきだといったのです。いうまでもなく、彼女は、「ヨーロッパ統合」に代表されるような理念、たかだか近代の産物にすぎないネーション・ステートを越えるべきだという理念に立ってます 『<戦前>の思考』柄谷行人
>事後法って法理論上タブーではないのですか
「侵略に対する罪」を事後法だという観点から法的に認めない、というのはそれ自体間違いではないと思います。
>もともと法律的前提がおかしいんだから無駄では?
天皇は「侵略に対する罪」として起訴されるはずなので、そういう意味では「おかしい」んじゃないですか。
現実の論理(戦勝国が敗戦国を一方的に裁くこと)は無視して、法律論に徹するなら、米国の戦争犯罪は、事後法ではなく当時の国際条約違反として裁けるんじゃありません?
これは メッセージ 97736 (chironokainushi さん)への返信です.
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