Re: 現代の価値観で過去を考えることを回避
投稿者: parkavenuecanada 投稿日時: 2005/12/24 17:37 投稿番号: [93175 / 99628]
hidarino5 さんへ。
今回のテーマは「自己愛史観」ですね。
「歴史教科書は、基本的に事実に基づかなければならず、その上に育つ世代が賢明に次の時代を切り開けるよう知恵と教訓を与える内容でなくてはならない」
「こうした本筋には目を背け、「民族」や「民衆」の名前の下で特定理念を叩き込み、亡国に対するナルシズム的合理化を植え付けるとしたら、そんな歴史教育は、次の世代を「盲の国際人」にしてしまうに違いない」
という韓国の「オピニオン」の主張を引きながら、さらに
>こういう教育を「国定教科書」でしか受けていない韓国人の主張は「推して知るべし」というのが正常な判断だと思いますよ
と、韓国人の歴史観を批判したはずの hidarino5 さんが、なぜ、
我々の祖先はこんなに頑張った! 日本人って偉いんだ! もっと自分に誇りを持とう! それに比べて韓国朝鮮人なんてゴミ屑同然ね!(とまでは言ってないかもしれない)
と、「ナルシズム的合理化を植え付ける」ような「韓国国定教科書」そっくりな「自己愛史観」賛同者なのか? これはまたまた自家撞着ではないか? といった意地悪な疑問には寛容の精神で目をつぶり、ここでは「過去の価値観」と「現代の価値観」を真面目に考えます。
>「魂」を感じるんです。日本歴史に流れる熱い魂を感じるんですよ
と、冒頭で簡潔にまとめてますが、おっしゃりたいことはよく理解できます。だって藤岡先生諸氏のコピーだから、という「厭味」な付言は軽く受け流すだろうと勝手に想像し、そろそろ「価値観」の問題に話を移行させますね。
結論から言いますと、そのように歴史を読んだところで、「現代の価値観」から逃れることは出来ない、と私は考えます。
「現代の価値観」で歴史を解析し、批評する(この態度が「自虐史観」)、「現代の価値観」からは脱却して、「過去の価値観」に共振し、満足する、じゃなくて尊敬だっけ? (どっちにしろこれが「自己愛史観」)、こういう図式で良いでしょうが、なるほど、たしかに明々白々に前者は「現代の価値観」から過去を見てますね。しかし、後者は本当に「過去の価値観」で過去を見ているのでしょうか? 換言するなら、本当に「現代の価値観」で過去を見てないのでしょうか?
断定しますが、哲学的には、それはもちろん不可能なわけですね。「魂」の感じ方、それ自体が、本人は「現代の価値観」を捨て去ったつもりでも、じつは「現代の価値観」に裏打ちされているからです。
わかりやすく長い時間差を設けますが、例えば、1000年前、500年前、そして今、この三つを比べてみて下さい。これらの時代に生きた人間がそれぞれ同じ感性であるわけないのです。(色んな意味での)世界に対する概念が違いすぎますからね。今の人が1000年前の出来事を追体験して感じる「魂」と、500年前の人が同じことをして感じるそれは、いきおい異なります。なぜなら、それぞれ、「現代の価値観」(500年前の人なら500年前の価値観)に裏づけられた読み方をしているからです。つまり、「過去の価値観」で歴史を読んだつもりになっているだけなんですね。
これに対する「反論」は、ポストモダン以後の相対主義をいっさい無視して、19世紀的思考様式に戻るほかないのです。つまり、変動的な「価値観」から人間は逃れることが出来るのだ、相対的ないかなるものにも左右されない「大宰府の防人の魂」という実体が紛れもなく存在するのだ、と頑固に言い張る以外ないはずです。(それができるとは思えませんが)
ですから、もし hidarino5 さんが19世紀的思考を何も疑わない、というのであれば、ひとまず「自己愛史観」は「史観」として成立はしますね。ですが、私は相対主義を無視できないので、「自己愛史観」は、そもそも「史観」としての基盤を失っている、と考えてます。
(ちなみに、「自虐史観」はこの点を問題なくクリアできてるわけですね)
(続く)
今回のテーマは「自己愛史観」ですね。
「歴史教科書は、基本的に事実に基づかなければならず、その上に育つ世代が賢明に次の時代を切り開けるよう知恵と教訓を与える内容でなくてはならない」
「こうした本筋には目を背け、「民族」や「民衆」の名前の下で特定理念を叩き込み、亡国に対するナルシズム的合理化を植え付けるとしたら、そんな歴史教育は、次の世代を「盲の国際人」にしてしまうに違いない」
という韓国の「オピニオン」の主張を引きながら、さらに
>こういう教育を「国定教科書」でしか受けていない韓国人の主張は「推して知るべし」というのが正常な判断だと思いますよ
と、韓国人の歴史観を批判したはずの hidarino5 さんが、なぜ、
我々の祖先はこんなに頑張った! 日本人って偉いんだ! もっと自分に誇りを持とう! それに比べて韓国朝鮮人なんてゴミ屑同然ね!(とまでは言ってないかもしれない)
と、「ナルシズム的合理化を植え付ける」ような「韓国国定教科書」そっくりな「自己愛史観」賛同者なのか? これはまたまた自家撞着ではないか? といった意地悪な疑問には寛容の精神で目をつぶり、ここでは「過去の価値観」と「現代の価値観」を真面目に考えます。
>「魂」を感じるんです。日本歴史に流れる熱い魂を感じるんですよ
と、冒頭で簡潔にまとめてますが、おっしゃりたいことはよく理解できます。だって藤岡先生諸氏のコピーだから、という「厭味」な付言は軽く受け流すだろうと勝手に想像し、そろそろ「価値観」の問題に話を移行させますね。
結論から言いますと、そのように歴史を読んだところで、「現代の価値観」から逃れることは出来ない、と私は考えます。
「現代の価値観」で歴史を解析し、批評する(この態度が「自虐史観」)、「現代の価値観」からは脱却して、「過去の価値観」に共振し、満足する、じゃなくて尊敬だっけ? (どっちにしろこれが「自己愛史観」)、こういう図式で良いでしょうが、なるほど、たしかに明々白々に前者は「現代の価値観」から過去を見てますね。しかし、後者は本当に「過去の価値観」で過去を見ているのでしょうか? 換言するなら、本当に「現代の価値観」で過去を見てないのでしょうか?
断定しますが、哲学的には、それはもちろん不可能なわけですね。「魂」の感じ方、それ自体が、本人は「現代の価値観」を捨て去ったつもりでも、じつは「現代の価値観」に裏打ちされているからです。
わかりやすく長い時間差を設けますが、例えば、1000年前、500年前、そして今、この三つを比べてみて下さい。これらの時代に生きた人間がそれぞれ同じ感性であるわけないのです。(色んな意味での)世界に対する概念が違いすぎますからね。今の人が1000年前の出来事を追体験して感じる「魂」と、500年前の人が同じことをして感じるそれは、いきおい異なります。なぜなら、それぞれ、「現代の価値観」(500年前の人なら500年前の価値観)に裏づけられた読み方をしているからです。つまり、「過去の価値観」で歴史を読んだつもりになっているだけなんですね。
これに対する「反論」は、ポストモダン以後の相対主義をいっさい無視して、19世紀的思考様式に戻るほかないのです。つまり、変動的な「価値観」から人間は逃れることが出来るのだ、相対的ないかなるものにも左右されない「大宰府の防人の魂」という実体が紛れもなく存在するのだ、と頑固に言い張る以外ないはずです。(それができるとは思えませんが)
ですから、もし hidarino5 さんが19世紀的思考を何も疑わない、というのであれば、ひとまず「自己愛史観」は「史観」として成立はしますね。ですが、私は相対主義を無視できないので、「自己愛史観」は、そもそも「史観」としての基盤を失っている、と考えてます。
(ちなみに、「自虐史観」はこの点を問題なくクリアできてるわけですね)
(続く)
これは メッセージ 93127 (hidarino5 さん)への返信です.
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