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李氏朝鮮1

投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/24 18:43 投稿番号: [59520 / 99628]
I プロローグ 李氏朝鮮   りしちょうせん   朝鮮半島で、高麗をほろぼして1392年にたてられた王朝。1910年に日本に併合されるまでつづいた。李成桂が創始したので李氏朝鮮、あるいは李朝と通称されるが、正式な国名は朝鮮である。

II 政治

14世紀後半、元の支配下にあった高麗王朝では、保守派と新進の官僚層との対立がはげしくなり、親元の保守派が反元の国王を殺害するという事件もおきた。中国では1368年に明朝がたてられて元の勢力をモンゴリアにおいやったが、このとき高麗は保守派の指導で、明を攻撃することになった。しかし厭戦(えんせん)気分が強い高麗軍をひきいて88年に遼陽へ出陣した李成桂は、途中で軍勢をひるがえして首都開京(現、開城)に入り、親元派を追放して政権をにぎった。

李成桂は新進官僚の支持を背景に、1391年に科田法を制定し、高麗貴族がもっていた荘園を公田にくみいれた。翌92年におされて王位につき、国号を朝鮮とあらため、94年には漢陽を改称した漢城(現ソウル)に首都をうつした。

初めは王族の内紛などで不安定だった王権も第3代太宗のころにはおちつき、中央集権体制がととのえられていった。対外的には明の冊封体制に入ったが、独自の社会・文化をきずく余裕も生まれ、15世紀の第4代世宗から第9代成宗のころには内政・外交ともに安定した。そうした中で、1446年に独自のハングル(訓民正音)が創作され、60年ごろ以降、基本法典である「経国大典」の編纂などがおこなわれた。

しかし、ヤンバン(両班)の荘園経営がみとめられて、しだいに地主制が拡大、また官僚同士の争いもはげしくなっていった。この争いは16世紀になると、朱子学の解釈をめぐる学問的、政治的な党派の争い(党争)という形をとるようになり、李朝末期までつづくことになった。

外政面では明を宗主国とし、日本とは対等な関係にあったが、1592年以降、豊臣秀吉が派遣した日本軍の侵略(壬辰・丁酉倭乱、日本では文禄・慶長の役)によって、大きな被害をうけた。農民や官吏、僧侶までが参加した義兵部隊や水軍をひきいた李舜臣らの活躍によって日本軍を撃退したが、その痛手からたちなおるまもなく、1627年と36年には清軍が侵入して首都を占領、服属を余儀なくされた。一方、日本とは徳川政権になってから国交を回復し、将軍がかわるたびに日本へ使節を派遣した(→ 朝鮮通信使)。

17世紀以降、重い税負担をしいられていた下層民の抵抗が強まり、また、18世紀になると、清朝をとおしてヨーロッパの文化が流入しキリスト教が広まったが、政府はこれをきびしく弾圧した。こうした状況の中で政府は党争を緩和し(蕩平策:とうへいさく)、中央集権的な支配体制を構築するためにさまざまな施策を講じた。しかし、19世紀に入ると民衆があいついで反乱をおこすようになり、なかでも1862年の壬戌民乱(じんじゅつみんらん)は全国的な広がりをみせ、身分社会は大きくゆらぎはじめた。
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