高麗
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/24 18:43 投稿番号: [59519 / 99628]
高麗
こうらい
918〜1392年に朝鮮半島を支配した王朝。英語のKoreaは高麗の朝鮮語音コリョがなまったものである。10世紀初めの朝鮮半島は、新羅の支配が弱まり、後百済(ごくだら)、後高句麗(ごこうくり)がたてられ、いわゆる後三国の動乱の中にあった。後高句麗はその後、泰封(たいふう)と改称したが、その部将だった王建が国王をたおして高麗王朝をたて、他の豪族を次々に征服、935年には新羅を降伏させ、翌年に後百済をほろぼして朝鮮半島を統一した。
統一後は王権の強化と支配体制の整備がすすめられ、11世紀後半の第11代文宗のころまでには、郡県制や科挙など各種の中国の制度をとりいれ、国王を中心とする中央集権的官僚国家が確立した。しかし、高官の子弟には科挙とは別に官吏登用される道があるなど、門閥貴族が支配階級として特権をもった。
12世紀にはいると、高麗は官僚国家としての行き詰まりをみせるようになった。高麗の官僚は、文班と武班の、いわゆるヤンバン(両班)にわかれていたが、1170年に、文班より低くあつかわれていた武班がクーデタをおこして政権を掌握した。この武人政権はすぐにたおされたが、73年に再度クーデタがおき、その後1世紀にわたって武人政権が支配することになった。
しかし、やがて重税にくるしめられていた民衆の反乱や、13世紀にはモンゴル軍の侵入があいつぎ、ついに1270年に武人政権はたおれ、高麗はモンゴル(元)に服属することとなった。このとき、三別抄という軍隊が江華島から珍島、済州島へと拠点をうつしてはげしく抵抗し、そのために元の日本遠征がおくれることになった。
さらに14世紀中ごろからは倭寇の被害になやまされて国力はいっそう衰退、1368年に中国で明朝が成立すると、国内は親元派と親明派が対立するにいたり、その中から部将の李成桂が力をのばし、1392年に高麗をほろぼして王位につき、李氏朝鮮をたてた。
高麗では禅宗を中心に仏教がさかえ、モンゴル退散をねがってつくられた「高麗大蔵経」は有名である。また、科挙の導入もあって儒学、なかでも朱子学がさかえ、各地に学校がたてられた。工芸面では陶磁器、とくに高麗青磁は独自の発展をとげ、現在でも愛好家が多い。
統一後は王権の強化と支配体制の整備がすすめられ、11世紀後半の第11代文宗のころまでには、郡県制や科挙など各種の中国の制度をとりいれ、国王を中心とする中央集権的官僚国家が確立した。しかし、高官の子弟には科挙とは別に官吏登用される道があるなど、門閥貴族が支配階級として特権をもった。
12世紀にはいると、高麗は官僚国家としての行き詰まりをみせるようになった。高麗の官僚は、文班と武班の、いわゆるヤンバン(両班)にわかれていたが、1170年に、文班より低くあつかわれていた武班がクーデタをおこして政権を掌握した。この武人政権はすぐにたおされたが、73年に再度クーデタがおき、その後1世紀にわたって武人政権が支配することになった。
しかし、やがて重税にくるしめられていた民衆の反乱や、13世紀にはモンゴル軍の侵入があいつぎ、ついに1270年に武人政権はたおれ、高麗はモンゴル(元)に服属することとなった。このとき、三別抄という軍隊が江華島から珍島、済州島へと拠点をうつしてはげしく抵抗し、そのために元の日本遠征がおくれることになった。
さらに14世紀中ごろからは倭寇の被害になやまされて国力はいっそう衰退、1368年に中国で明朝が成立すると、国内は親元派と親明派が対立するにいたり、その中から部将の李成桂が力をのばし、1392年に高麗をほろぼして王位につき、李氏朝鮮をたてた。
高麗では禅宗を中心に仏教がさかえ、モンゴル退散をねがってつくられた「高麗大蔵経」は有名である。また、科挙の導入もあって儒学、なかでも朱子学がさかえ、各地に学校がたてられた。工芸面では陶磁器、とくに高麗青磁は独自の発展をとげ、現在でも愛好家が多い。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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