朝鮮2
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/24 16:50 投稿番号: [59491 / 99628]
V 朝鮮王朝(李氏朝鮮) 明の成立(1368)以降、元の勢力が北方へ駆逐されると、高麗は元に加担し、明に対抗すべく1388年に出兵を準備した。その将軍となった李成桂は、いったん出発した派遣軍をひきいて都にもどり、実権を掌握して親明派の意にそった改革をおこない、92年には、朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国した。
朝鮮王朝は、その後、日本による侵略(壬辰・丁酉倭乱、日本では文禄・慶長の役:1592、97〜98)という危機をのりこえ、20世紀初めまで存続した。今日の朝鮮社会・文化の骨格は、この朝鮮王朝時代に形成された部分が大きい。
李氏朝鮮時代の文化面での大きな特徴は、それまでの支配思想であった仏教にかわり、儒教が国教となったことである。朝鮮における儒教は道学中心の朱子学であり、初期においては仏教に対抗するものとして清新さをもっていたが、科挙にとりいれられ、各地に学校がたてられるようになると、名分論や徳義論にもとづく倫理が強く主張されるようになり、家父長制や血族重視の社会を形づくることにもなった。ヤンバン(両班)を頂点とする身分制が力をもったのもこの時期であった。
一方、中国の圧倒的な影響のもとにありながらも、ハングル(訓民正音)の制定にみられるように、固有の文化がつくりだされたのも李氏朝鮮の時代であった。
VI 韓国併合
1897年に朝鮮王朝は、清との宗属関係をたちきった近代国家として、大韓帝国の国号を採用した。しかし、1875年の江華島事件以降、朝鮮を大陸進出の足がかりとすべく強引な干渉をつづけていた日本は、日露戦争でロシアの介入を排除すると、まず1905年に大韓帝国を「保護国」とし、統監府をおいて実質的な植民地化をすすめた。そして、10年の韓国併合によって朝鮮は完全に日本の植民地となり、統治機関として朝鮮総督府がもうけられた。
植民地時代には、日本の支配に抵抗し、朝鮮の独立をもとめる運動が、さまざまに展開された。とりわけ、1919年の三・一独立運動は、広範囲に影響をあたえた。しかし、日本はその後も、日本語の強制、創氏改名、皇民化教育など、朝鮮の民族性を否定した同化政策をすすめる一方、大陸侵略への動員態勢をきずき、朝鮮人の民族独立運動を徹底的に弾圧した。
VII 分断国家 1945年、日本の降伏とともに朝鮮半島は植民地状態から解放された。半島には、北緯38度を便宜的な境界として、ソ連軍とアメリカ軍が進駐した。戦後の朝鮮半島の処遇については、当初、連合国外相会議で、一つの独立国家をつくるための米・英・ソ・中4カ国による信託統治がきめられた。
ところが、その実施方法をめぐって米・ソの対立が深まると、1947年のアメリカ主導による国連決議によって、半島全域で総選挙を実施して国会を構成し、統一独立政府を樹立させることがきめられた。しかし、国連の介入に反対するソ連と北朝鮮が国連監視団の立ち入りを拒否すると、アメリカは南半部だけの選挙の実施を国連で決議させ、南北の分断は決定的になった。
1948年5月の選挙には統一選挙を主張する人々がほとんど出馬しなかったため、李承晩(イ・スンマン)派が圧勝、8月には大韓民国の樹立が宣言された。これに対して北でも9月に金日成(キム・イルソン)を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が樹立された。
朝鮮王朝は、その後、日本による侵略(壬辰・丁酉倭乱、日本では文禄・慶長の役:1592、97〜98)という危機をのりこえ、20世紀初めまで存続した。今日の朝鮮社会・文化の骨格は、この朝鮮王朝時代に形成された部分が大きい。
李氏朝鮮時代の文化面での大きな特徴は、それまでの支配思想であった仏教にかわり、儒教が国教となったことである。朝鮮における儒教は道学中心の朱子学であり、初期においては仏教に対抗するものとして清新さをもっていたが、科挙にとりいれられ、各地に学校がたてられるようになると、名分論や徳義論にもとづく倫理が強く主張されるようになり、家父長制や血族重視の社会を形づくることにもなった。ヤンバン(両班)を頂点とする身分制が力をもったのもこの時期であった。
一方、中国の圧倒的な影響のもとにありながらも、ハングル(訓民正音)の制定にみられるように、固有の文化がつくりだされたのも李氏朝鮮の時代であった。
VI 韓国併合
1897年に朝鮮王朝は、清との宗属関係をたちきった近代国家として、大韓帝国の国号を採用した。しかし、1875年の江華島事件以降、朝鮮を大陸進出の足がかりとすべく強引な干渉をつづけていた日本は、日露戦争でロシアの介入を排除すると、まず1905年に大韓帝国を「保護国」とし、統監府をおいて実質的な植民地化をすすめた。そして、10年の韓国併合によって朝鮮は完全に日本の植民地となり、統治機関として朝鮮総督府がもうけられた。
植民地時代には、日本の支配に抵抗し、朝鮮の独立をもとめる運動が、さまざまに展開された。とりわけ、1919年の三・一独立運動は、広範囲に影響をあたえた。しかし、日本はその後も、日本語の強制、創氏改名、皇民化教育など、朝鮮の民族性を否定した同化政策をすすめる一方、大陸侵略への動員態勢をきずき、朝鮮人の民族独立運動を徹底的に弾圧した。
VII 分断国家 1945年、日本の降伏とともに朝鮮半島は植民地状態から解放された。半島には、北緯38度を便宜的な境界として、ソ連軍とアメリカ軍が進駐した。戦後の朝鮮半島の処遇については、当初、連合国外相会議で、一つの独立国家をつくるための米・英・ソ・中4カ国による信託統治がきめられた。
ところが、その実施方法をめぐって米・ソの対立が深まると、1947年のアメリカ主導による国連決議によって、半島全域で総選挙を実施して国会を構成し、統一独立政府を樹立させることがきめられた。しかし、国連の介入に反対するソ連と北朝鮮が国連監視団の立ち入りを拒否すると、アメリカは南半部だけの選挙の実施を国連で決議させ、南北の分断は決定的になった。
1948年5月の選挙には統一選挙を主張する人々がほとんど出馬しなかったため、李承晩(イ・スンマン)派が圧勝、8月には大韓民国の樹立が宣言された。これに対して北でも9月に金日成(キム・イルソン)を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が樹立された。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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