朝鮮
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/24 16:50 投稿番号: [59490 / 99628]
プロローグ
朝鮮 ちょうせん 朝鮮に関して、確実な歴史的記述がのこっている最古の事件は、前108年の中国、漢の武帝による衛氏朝鮮の平定と、楽浪郡など4郡の設置である(楽浪郡以外の3郡はまもなく廃止)。これ以前に朝鮮に存在したとされる諸王朝には、神話的につたえられる檀君朝鮮(だんくんちょうせん)や、伝説的な箕子朝鮮(きしちょうせん)などがあるが、実在が確実な最古の王朝は、朝鮮半島北部を前2世紀に支配した衛氏朝鮮とされている。
ただ朝鮮の歴史学界では最近、檀君朝鮮と箕子朝鮮の実在をみとめる説が有力となっている。檀君朝鮮は遼寧地方を中心に成長し、朝鮮半島まで勢力をのばした。その範囲は琵琶形銅剣の出土地とだいたい一致している。また、箕子朝鮮は檀君朝鮮の発展過程で内部から新しく登場した勢力によってたてられたとみられている。
II 朝鮮三国時代
北部が漢の直接支配下に入ったころ、半島の南部は小国が群立しており、後3世紀中ごろには三韓とよばれる小国の連合体がつくられた。4世紀に入ると、その中から、百済、新羅が独立した国家として、勢力を伸張させ、三韓のうちのこる弁辰(べんしん)の地は加羅諸国の分立状態がつづいていた。
一方、楽浪郡は4世紀初めまでつづくが、最終的には中国東北部に前1世紀後半におこった高句麗によってほろぼされた。以後の、高句麗、新羅、百済が半島を三分した4世紀後半から7世紀にかけての時代を三国時代という。
III 統一新羅
三国時代は、6世紀半ばに加羅を征服した新羅が、唐とむすんで660年に百済を、668年には高句麗をほろぼして半島を統一し、終わりをつげた。これ以降を統一新羅時代、あるいは南北国時代という。南北国というのは、高句麗滅亡後の698年に建国し、朝鮮北部から中国東北部、沿海州にかけての地域を、高句麗を継承する形で支配した渤海国が、10世紀初めまで統一新羅と対峙したことをさしている。
統一新羅は、唐にならって郡県制をしくなど中央集権国家としての体裁をととのえ、唐文化の輸入にもつとめて、仏国寺の諸建築や仏像にみられるごとく、仏教文化が高度に発達した。日本との交流も貿易を中心に盛んにおこなわれた。
IV 高麗王朝
9世紀末から10世紀初めにかけて、半島では各地で反乱をおこした勢力が対抗しあう、後三国時代といわれる混乱期に入った。その混乱の中で、918年に建国し、翌年開城に都をおいた高麗は、926年に契丹によってほろぼされた渤海国の遺民や、935年に帰順した新羅の勢力をあわせ、翌936年に後百済を討伐して半島の統一をはたした。高麗王朝は、その後14世紀末まで半島を支配する統一王朝として存続したが、13世紀半ば以降はモンゴル人が中国にうちたてた元の干渉をうけ、その支配下に入った。
高麗では禅宗を中心に仏教がさかえ、モンゴル退散をねがってつくられた「高麗大蔵経」はよく知られている。また陶磁器生産が発展し、高麗青磁は独自の発展をとげた。
朝鮮 ちょうせん 朝鮮に関して、確実な歴史的記述がのこっている最古の事件は、前108年の中国、漢の武帝による衛氏朝鮮の平定と、楽浪郡など4郡の設置である(楽浪郡以外の3郡はまもなく廃止)。これ以前に朝鮮に存在したとされる諸王朝には、神話的につたえられる檀君朝鮮(だんくんちょうせん)や、伝説的な箕子朝鮮(きしちょうせん)などがあるが、実在が確実な最古の王朝は、朝鮮半島北部を前2世紀に支配した衛氏朝鮮とされている。
ただ朝鮮の歴史学界では最近、檀君朝鮮と箕子朝鮮の実在をみとめる説が有力となっている。檀君朝鮮は遼寧地方を中心に成長し、朝鮮半島まで勢力をのばした。その範囲は琵琶形銅剣の出土地とだいたい一致している。また、箕子朝鮮は檀君朝鮮の発展過程で内部から新しく登場した勢力によってたてられたとみられている。
II 朝鮮三国時代
北部が漢の直接支配下に入ったころ、半島の南部は小国が群立しており、後3世紀中ごろには三韓とよばれる小国の連合体がつくられた。4世紀に入ると、その中から、百済、新羅が独立した国家として、勢力を伸張させ、三韓のうちのこる弁辰(べんしん)の地は加羅諸国の分立状態がつづいていた。
一方、楽浪郡は4世紀初めまでつづくが、最終的には中国東北部に前1世紀後半におこった高句麗によってほろぼされた。以後の、高句麗、新羅、百済が半島を三分した4世紀後半から7世紀にかけての時代を三国時代という。
III 統一新羅
三国時代は、6世紀半ばに加羅を征服した新羅が、唐とむすんで660年に百済を、668年には高句麗をほろぼして半島を統一し、終わりをつげた。これ以降を統一新羅時代、あるいは南北国時代という。南北国というのは、高句麗滅亡後の698年に建国し、朝鮮北部から中国東北部、沿海州にかけての地域を、高句麗を継承する形で支配した渤海国が、10世紀初めまで統一新羅と対峙したことをさしている。
統一新羅は、唐にならって郡県制をしくなど中央集権国家としての体裁をととのえ、唐文化の輸入にもつとめて、仏国寺の諸建築や仏像にみられるごとく、仏教文化が高度に発達した。日本との交流も貿易を中心に盛んにおこなわれた。
IV 高麗王朝
9世紀末から10世紀初めにかけて、半島では各地で反乱をおこした勢力が対抗しあう、後三国時代といわれる混乱期に入った。その混乱の中で、918年に建国し、翌年開城に都をおいた高麗は、926年に契丹によってほろぼされた渤海国の遺民や、935年に帰順した新羅の勢力をあわせ、翌936年に後百済を討伐して半島の統一をはたした。高麗王朝は、その後14世紀末まで半島を支配する統一王朝として存続したが、13世紀半ば以降はモンゴル人が中国にうちたてた元の干渉をうけ、その支配下に入った。
高麗では禅宗を中心に仏教がさかえ、モンゴル退散をねがってつくられた「高麗大蔵経」はよく知られている。また陶磁器生産が発展し、高麗青磁は独自の発展をとげた。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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