Re: セミ鯨枯渇原因1986年大村論文
投稿者: aplzsia 投稿日時: 2009/08/29 07:40 投稿番号: [37567 / 62227]
見晴らしの良い丘の上の小屋から、見張り役が海面の鯨の潮吹きを
探索していた。範囲内で鯨が見つかると、見張り人は旗か狼煙
で鯨種、位置、鯨が泳いでゆく方向を知らせた。指令者が命令を
出すと船は整然と行動を開始した。
勢子船は鯨を一方向から囲み、適切な位置へ動いて網を張って
いる網舟の方向へ追い立てた。網にかかった鯨は勢子船から銛で
突かれた。何種類かの銛が使われた。どの鯨もはじめは重さ
200g、長さ55cmの銛先に3.8mの木製の柄の突いた軽い銛で
突かれた。銛の重さは次第に増やされ、最後には3kgの銛が
投げられた(Taiji, 1937)。
多数の銛で鯨が十分に弱ると、水夫が水に飛び込んで鯨の
頭に這い上がり、小刀で噴気穴の隔膜に穴をあけてこれに綱を
通した。尾に近い背中の脂肪層にも似たような方法で穴が
穿たれた。どちらの場合にも水夫は突き刺さった銛の柄を
つかんで滑りやすい鯨体の表面に乗り続けた。銛は網が滑って
外れることを妨げるのにも役立った。しかるのち、鯨は二隻の
タグボート(持双船)の間に結ばれて長い劔で心臓を突かれた。
網取り法の発明は日本の漁村経済にとって重要な出来事だった。
捕鯨は何百人もの生活を支えた。これには鯨体を処理する
作業者、網造り、その他さまざまな関連業種や水夫を支えた。
捕鯨はその準備にも操業にも多額の資金を要した。従って
網取り式捕鯨は和田家のような有力な一族によって取り仕切られた。
網取り捕鯨はすぐに太地の近くの古座のほか、熊野地方の
他の場所にも導入された(現在の三重県、和歌山県の一部)。
1683年にはこの方法は土佐(現在の高知県)にももたらされた。
ここではすでに浮津および津呂という鯨組が操業していた。
続く年には西九州の大村から深沢義太夫という名の捕鯨親方
が太地を訪れ、頼治から網取り法を学んだ(Hashiura, 1969)。
深沢が九州に帰ると間もなく、網取り捕鯨は九州西岸と山口
県北岸に広がった。
捕鯨は日本の他のところでも行われていた。最も有名なものは
勝浦(現在、千葉県)で醍醐一族によって営まれていたもの
だった(Yoshihara, 1976a)。ここの捕鯨は遅くとも明暦年間
(1655−57)にはじまっており江戸あるいは徳川時代末期
(1867)まで続いた。ツチクジラその他の小型歯鯨類が
手投げ銛で捕獲されていた。この捕鯨では網取りは行われず、
ヒゲクジラ類が獲られたこともなかった。
<地図の説明>
Fig. 1. Chart showing migration routes of right whales around Japan and places where they were taken by net-whaling (shaded). Place names appearing
in the text are indicated by numerals as follows: 1. Katsuyama, Chiba prefecture; 2. Morosakl, Alchl pref; 3. Taijil, Wakayama pref; 4. Tsuro,
Kochi pref; 5. Ukitsu, Kochi pref; 6. Ine, Kyoto pref; 7. Mishima, Yamaguchi pref; 8. Kayoi, Yamaguchi pref; 9. Kawajiri, Yamaguchi pref;
10. Ogawajima, Saga pref; II. Iki. Nagasaki pref; 12. Yobuko, Saga pref; 13. Ikitsuki, Nagasaki pref; 14. Hirado, Nagasaki pref; 15. Goto, Nagasaki pref.
以上、地図上に15カ所の捕鯨地点が描かれ、セミクジラが列島沿岸の
両側直近を南北に移動するという経路が示されている。
探索していた。範囲内で鯨が見つかると、見張り人は旗か狼煙
で鯨種、位置、鯨が泳いでゆく方向を知らせた。指令者が命令を
出すと船は整然と行動を開始した。
勢子船は鯨を一方向から囲み、適切な位置へ動いて網を張って
いる網舟の方向へ追い立てた。網にかかった鯨は勢子船から銛で
突かれた。何種類かの銛が使われた。どの鯨もはじめは重さ
200g、長さ55cmの銛先に3.8mの木製の柄の突いた軽い銛で
突かれた。銛の重さは次第に増やされ、最後には3kgの銛が
投げられた(Taiji, 1937)。
多数の銛で鯨が十分に弱ると、水夫が水に飛び込んで鯨の
頭に這い上がり、小刀で噴気穴の隔膜に穴をあけてこれに綱を
通した。尾に近い背中の脂肪層にも似たような方法で穴が
穿たれた。どちらの場合にも水夫は突き刺さった銛の柄を
つかんで滑りやすい鯨体の表面に乗り続けた。銛は網が滑って
外れることを妨げるのにも役立った。しかるのち、鯨は二隻の
タグボート(持双船)の間に結ばれて長い劔で心臓を突かれた。
網取り法の発明は日本の漁村経済にとって重要な出来事だった。
捕鯨は何百人もの生活を支えた。これには鯨体を処理する
作業者、網造り、その他さまざまな関連業種や水夫を支えた。
捕鯨はその準備にも操業にも多額の資金を要した。従って
網取り式捕鯨は和田家のような有力な一族によって取り仕切られた。
網取り捕鯨はすぐに太地の近くの古座のほか、熊野地方の
他の場所にも導入された(現在の三重県、和歌山県の一部)。
1683年にはこの方法は土佐(現在の高知県)にももたらされた。
ここではすでに浮津および津呂という鯨組が操業していた。
続く年には西九州の大村から深沢義太夫という名の捕鯨親方
が太地を訪れ、頼治から網取り法を学んだ(Hashiura, 1969)。
深沢が九州に帰ると間もなく、網取り捕鯨は九州西岸と山口
県北岸に広がった。
捕鯨は日本の他のところでも行われていた。最も有名なものは
勝浦(現在、千葉県)で醍醐一族によって営まれていたもの
だった(Yoshihara, 1976a)。ここの捕鯨は遅くとも明暦年間
(1655−57)にはじまっており江戸あるいは徳川時代末期
(1867)まで続いた。ツチクジラその他の小型歯鯨類が
手投げ銛で捕獲されていた。この捕鯨では網取りは行われず、
ヒゲクジラ類が獲られたこともなかった。
<地図の説明>
Fig. 1. Chart showing migration routes of right whales around Japan and places where they were taken by net-whaling (shaded). Place names appearing
in the text are indicated by numerals as follows: 1. Katsuyama, Chiba prefecture; 2. Morosakl, Alchl pref; 3. Taijil, Wakayama pref; 4. Tsuro,
Kochi pref; 5. Ukitsu, Kochi pref; 6. Ine, Kyoto pref; 7. Mishima, Yamaguchi pref; 8. Kayoi, Yamaguchi pref; 9. Kawajiri, Yamaguchi pref;
10. Ogawajima, Saga pref; II. Iki. Nagasaki pref; 12. Yobuko, Saga pref; 13. Ikitsuki, Nagasaki pref; 14. Hirado, Nagasaki pref; 15. Goto, Nagasaki pref.
以上、地図上に15カ所の捕鯨地点が描かれ、セミクジラが列島沿岸の
両側直近を南北に移動するという経路が示されている。
これは メッセージ 37566 (aplzsia さん)への返信です.
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