セミ鯨枯渇原因1986年大村論文
投稿者: aplzsia 投稿日時: 2009/08/29 07:38 投稿番号: [37566 / 62227]
REP. INT. WHAL. COMMN (SPECIAL ISSUE 10) 35
<1986年/著作権の主張無し>
History of Right Whale Catches in the Waters around Japan
HIDEO OMURA
Whales Research Institute, 3-32- 11, Ojima, Koto-Ku, 136, Japan
[SHORT HISTORY OF WHALING IN JAPAN
日本の捕鯨史概略]
日本周辺海域での捕鯨は長い歴史をもっている。小舟と初歩的な
漁具を使った捕鯨は10世紀よりも前まで遡ることができる。
セミクジラ(Eubalaena glacialis)の髭板で作られたいくつ
かの道具が奈良の正倉院宝物殿に保存されている。ここは
奈良の宮廷で使用されていた物品、装飾品が1200年間に
わたって保存されてきたところである (Shindo, 1978)。
このことはすくなくとも奈良時代(A.D.710-784)にはセミクジラ
の体が人々によって使用されていたこと、皇室においてさえ
利用されていたことを示している。しかし積極的な捕鯨が
行われていたのか、あるいは座礁、漂着した鯨が利用されて
いたのかは定かではない。
元亀(1570−73)年間には伊勢湾に面する三河と尾張(現在の
愛知県)の村落で捕鯨が営まれていた。これは7−8隻の船で
チームを作り、手投げ銛(hand harpoons)を使う漁法である(Otsuki, 1808)。
この捕鯨の中心地は知多半島南端の村、師崎(もろさき)だった。
これが、知られる限り日本史上最古の捕鯨である。
獲られていた鯨種は知られていないが、コククジラ(Eschrichtius
robustus)がもっとも普通の捕獲種であったろうと推定される。
手銛による捕鯨は伊勢、熊野地方へと海岸沿いに広がった
(現在の三重県、和歌山県)。更に四国、九州を含む西日本
への拡大があった。慶長11年(1606)、当時強力だった
和田一族の総帥、頼元が熊野、太地に五つの鯨組を成立させた。
頼元が師崎の伝次という人物の補佐をうけて全体を指揮したが、
伝次は熟練した銛手であったと思われる(Hashiura, 1969)。
1675年には頼元の孫で後に角右衛門と改名する頼治が、網を
利用する新方法を発明した。何重にも巡らされた網にひっかかった
鯨は容易に銛で突くことができた。はじめは藁でつくった網が
用いられたが弱すぎたので、のちに麻の網に変えられた。
網の使用は日本の捕鯨史にとって革命的なことだった。
ザトウクジラ(Megaptera novaeangliae)その他、ナガスクジラ科
の鯨が捕獲可能になり、セミクジラも以前より容易に獲る
ことができるようになった。
しかし網捕り法はより多くの船と人力、多くの漁師の共同作業を
必要とした。太地では五つの鯨組が一つに統合され、和田頼治が
指揮を執った。
操業グループは鯨を追い立て、殺傷する15から20隻の勢子船
(beater boats)、6隻の網船(netting boats)4隻の持双舟
( tug boats)等全部で25−30隻から構成され、約400人の
人員を擁していた。
<1986年/著作権の主張無し>
History of Right Whale Catches in the Waters around Japan
HIDEO OMURA
Whales Research Institute, 3-32- 11, Ojima, Koto-Ku, 136, Japan
[SHORT HISTORY OF WHALING IN JAPAN
日本の捕鯨史概略]
日本周辺海域での捕鯨は長い歴史をもっている。小舟と初歩的な
漁具を使った捕鯨は10世紀よりも前まで遡ることができる。
セミクジラ(Eubalaena glacialis)の髭板で作られたいくつ
かの道具が奈良の正倉院宝物殿に保存されている。ここは
奈良の宮廷で使用されていた物品、装飾品が1200年間に
わたって保存されてきたところである (Shindo, 1978)。
このことはすくなくとも奈良時代(A.D.710-784)にはセミクジラ
の体が人々によって使用されていたこと、皇室においてさえ
利用されていたことを示している。しかし積極的な捕鯨が
行われていたのか、あるいは座礁、漂着した鯨が利用されて
いたのかは定かではない。
元亀(1570−73)年間には伊勢湾に面する三河と尾張(現在の
愛知県)の村落で捕鯨が営まれていた。これは7−8隻の船で
チームを作り、手投げ銛(hand harpoons)を使う漁法である(Otsuki, 1808)。
この捕鯨の中心地は知多半島南端の村、師崎(もろさき)だった。
これが、知られる限り日本史上最古の捕鯨である。
獲られていた鯨種は知られていないが、コククジラ(Eschrichtius
robustus)がもっとも普通の捕獲種であったろうと推定される。
手銛による捕鯨は伊勢、熊野地方へと海岸沿いに広がった
(現在の三重県、和歌山県)。更に四国、九州を含む西日本
への拡大があった。慶長11年(1606)、当時強力だった
和田一族の総帥、頼元が熊野、太地に五つの鯨組を成立させた。
頼元が師崎の伝次という人物の補佐をうけて全体を指揮したが、
伝次は熟練した銛手であったと思われる(Hashiura, 1969)。
1675年には頼元の孫で後に角右衛門と改名する頼治が、網を
利用する新方法を発明した。何重にも巡らされた網にひっかかった
鯨は容易に銛で突くことができた。はじめは藁でつくった網が
用いられたが弱すぎたので、のちに麻の網に変えられた。
網の使用は日本の捕鯨史にとって革命的なことだった。
ザトウクジラ(Megaptera novaeangliae)その他、ナガスクジラ科
の鯨が捕獲可能になり、セミクジラも以前より容易に獲る
ことができるようになった。
しかし網捕り法はより多くの船と人力、多くの漁師の共同作業を
必要とした。太地では五つの鯨組が一つに統合され、和田頼治が
指揮を執った。
操業グループは鯨を追い立て、殺傷する15から20隻の勢子船
(beater boats)、6隻の網船(netting boats)4隻の持双舟
( tug boats)等全部で25−30隻から構成され、約400人の
人員を擁していた。
これは メッセージ 37565 (aplzsia さん)への返信です.
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