Re: 19世紀北太平洋ヤンキー捕鯨セミ鯨漁
投稿者: aplzsia 投稿日時: 2009/08/27 01:35 投稿番号: [37519 / 62227]
(つづき、ハワイのザ・ポリネシアン紙1845年10月2日号のところから)
|「しばしば疑問に付されてきたのは、この漁業がどれくらい持続する
|だろうかということである。この漁場をこれまですでに枯渇して
|しまった漁場と比較し、われわれが理性的に到達しうる結論は
|ただ一つである。
|決して消し去ることのできない事実の指標は、ここに漁業を共有する
|すべての国々の船が集まってきており、その数は5年間で2倍になった
|のに対し、セミクジラはその昔、それぞれ好みの場所に配置された
|だけだということである。ブラジル、南大西洋、ニュージーランド、
|ニューホランド、チリなどの生息地である。
|これらすべての漁場が10年か12年ほどの期間、捕鯨者たちに
|良好な励みを与えていた。ブラジルと南大西洋がもっとも長続きし、
|ニュージーランドと(より狭い)チリは最短期で終わった。
|今この北西漁場は大海規模を擁しており、これまでのすべてを
|合わせたものより大きい。少なくとも操業開始後半世紀は、
|良好な漁獲がここでは続くだろうと、われわれは確信をもって
|言えると私は考える。
|ここには「湾内捕鯨」のようなものは無く、これからも存在しない
|だろう。鯨が恒常的に捕獲されるということはなく、ほとんどの
|子クジラは自立する年齢になり、老いたクジラががその不倶戴天の
|敵、人間に遭遇するという時まで生き延びる。
|冬期にも沿岸の湾部で捕鯨を続けようという試みがあるが、 Scrag
|クジラ(#)以外はこれらの湾部を訪れることはない。現在一般的に
|考えられているのは、母クジラがベーリング海峡やカムチャツカ海
|の深い湾曲部に寄り集まり、繁殖シーズンにはここで妨害されずに
|過ごすということである。冬の気候の厳しさはヤンキー捕鯨漁師の
|情熱も冷やすのに十分だろう。」
ーーー
(# Scrag Whales:コククジラのこととする説が最有力)
1840年以前には北太平洋で、クジラを求めて北緯40°を越える
冒険をしようという捕鯨船は片手に満たない数であった。
1840年以後、北太平洋を取り巻く環に沿って航行する船が
増え、既に発見されていたいわゆる北西岸のセミクジラ漁場と、
新しく拓かれた千島列島、「カムチャツカ」で漁獲するのみ
ならず、1845年にははじめてオホーツク海へ入る冒険が
なされた。
1848年には北へ向かう拡張が、ロイズ(Roys)によるベーリング
海峡への侵入でクライマックスを迎えた。オホーツクの船団は
ホッキョククジラを求めて上方の海、55°以北へシフトした。
ロイズの発見に続いて北極圏への突然の殺到がはじまり、
それまでアメリカ、アジアの環北太平洋部で活動していた
ほとんどの船が去っていった。
1951年と1952年には膨大な北極船群(1851年に170隻、
1852年に220隻)がしかし貧しい成果におわり、多くの
船長はもとの漁場、特にオホーツクに戻ることを選んだ。
たとえば1854年には、ベーリング海峡に固執する船が45隻
だったのに対し、オホーツク海へは160隻が向かった。
1854年から1875年にかけて、オホーツクは北太平洋捕鯨
活動の中心でありつづけた。
北極からの一時撤退の間、1854年から1857年にかけて
北西岸の捕鯨がかつての規模を回復することはなかった。
おそらくコディアック、アラスカ湾等の漁場がすでに乱獲に
より大幅に枯渇しているという、当時広く信じられていた
説を反映したものだろう。
|「しばしば疑問に付されてきたのは、この漁業がどれくらい持続する
|だろうかということである。この漁場をこれまですでに枯渇して
|しまった漁場と比較し、われわれが理性的に到達しうる結論は
|ただ一つである。
|決して消し去ることのできない事実の指標は、ここに漁業を共有する
|すべての国々の船が集まってきており、その数は5年間で2倍になった
|のに対し、セミクジラはその昔、それぞれ好みの場所に配置された
|だけだということである。ブラジル、南大西洋、ニュージーランド、
|ニューホランド、チリなどの生息地である。
|これらすべての漁場が10年か12年ほどの期間、捕鯨者たちに
|良好な励みを与えていた。ブラジルと南大西洋がもっとも長続きし、
|ニュージーランドと(より狭い)チリは最短期で終わった。
|今この北西漁場は大海規模を擁しており、これまでのすべてを
|合わせたものより大きい。少なくとも操業開始後半世紀は、
|良好な漁獲がここでは続くだろうと、われわれは確信をもって
|言えると私は考える。
|ここには「湾内捕鯨」のようなものは無く、これからも存在しない
|だろう。鯨が恒常的に捕獲されるということはなく、ほとんどの
|子クジラは自立する年齢になり、老いたクジラががその不倶戴天の
|敵、人間に遭遇するという時まで生き延びる。
|冬期にも沿岸の湾部で捕鯨を続けようという試みがあるが、 Scrag
|クジラ(#)以外はこれらの湾部を訪れることはない。現在一般的に
|考えられているのは、母クジラがベーリング海峡やカムチャツカ海
|の深い湾曲部に寄り集まり、繁殖シーズンにはここで妨害されずに
|過ごすということである。冬の気候の厳しさはヤンキー捕鯨漁師の
|情熱も冷やすのに十分だろう。」
ーーー
(# Scrag Whales:コククジラのこととする説が最有力)
1840年以前には北太平洋で、クジラを求めて北緯40°を越える
冒険をしようという捕鯨船は片手に満たない数であった。
1840年以後、北太平洋を取り巻く環に沿って航行する船が
増え、既に発見されていたいわゆる北西岸のセミクジラ漁場と、
新しく拓かれた千島列島、「カムチャツカ」で漁獲するのみ
ならず、1845年にははじめてオホーツク海へ入る冒険が
なされた。
1848年には北へ向かう拡張が、ロイズ(Roys)によるベーリング
海峡への侵入でクライマックスを迎えた。オホーツクの船団は
ホッキョククジラを求めて上方の海、55°以北へシフトした。
ロイズの発見に続いて北極圏への突然の殺到がはじまり、
それまでアメリカ、アジアの環北太平洋部で活動していた
ほとんどの船が去っていった。
1951年と1952年には膨大な北極船群(1851年に170隻、
1852年に220隻)がしかし貧しい成果におわり、多くの
船長はもとの漁場、特にオホーツクに戻ることを選んだ。
たとえば1854年には、ベーリング海峡に固執する船が45隻
だったのに対し、オホーツク海へは160隻が向かった。
1854年から1875年にかけて、オホーツクは北太平洋捕鯨
活動の中心でありつづけた。
北極からの一時撤退の間、1854年から1857年にかけて
北西岸の捕鯨がかつての規模を回復することはなかった。
おそらくコディアック、アラスカ湾等の漁場がすでに乱獲に
より大幅に枯渇しているという、当時広く信じられていた
説を反映したものだろう。
これは メッセージ 37518 (aplzsia さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1834578/a45a4a2a1aabdt7afa1aaja7dfldbja4c0a1aa_1/37519.html