小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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日本はどうして併合を求められたか3

投稿者: netuzouhanntaii 投稿日時: 2003/09/14 17:03 投稿番号: [86677 / 232612]
閔氏政権は、開化政策を進めるのにあたって日本式を採用していたが、日本が清国に対して有効に対抗できないでいるのを見ると、日本はたのむに足らずとみなして、清国に依存するようになった。閔氏一派は清国に依存したから、事大党と呼ぱれるようになった。清国は顧問を送り込んで、朝鮮との朝貢体制と華夷秩序の強化に努め、西洋列強の進出から自らの威信と権益を守ろうとした。しかしそれは、朝鮮を清国から独立させて富国強兵の国とし、西洋列強の極東進出を阻止させる、という日本の政策とは合いいれないものであった。朝鮮内部からも清が事大党を操縦して軍事も政治も左右する状態に反発して自主独立を主張し、近代化のモデルとして日本に学び、日本の協力を得ようとする開化党が行動をおこした。それにはまず清国との封建的従属関係を断つことであり、そのためには朝鮮国内の事大党を排除することが必要であった。1884年12月、福沢諭吉の後押しを受けた開化党の金玉均らがクーデターを起こし王宮を占領した。閔妃を中心とする事大党政権を打倒して、開化党を中心とする新政府を組織した(甲申政変)。しかし閔氏政権の生き残りが清国軍に鎮圧を要請した結果、袁世凱の指揮する清軍に破れクーデターは三日天下に終わって失敗した。この時多数の日本人が殺され、掠奪暴行の惨劇がひき起こされた。開化党リーダ―の金玉均は日本へ亡命した。開化独立推進勢力が清国と朝鮮守旧派によって無残に踏みにじられたことに福沢は失望し、時事新報紙上に「脱亜論」を公表し「我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と隣国に決別宣言をした。福沢の従来の構想は「アジアの隣邦を誘掖(手を取って指導する)して近代文明国家たらしめ、共に独立を全うして西力東漸(西洋の侵略)を防がねばならぬ」というものであった。日本は近代化で先んじていたが、まだ西洋勢力に単独で対抗するだけの国力がなかったのである。

翌1885年1月、日朝間で甲申政変での日本側の被害の賠償などを取り決めた漢城条約を結んだ。次いで4月、日清間でも甲申政変後の朝鮮問題に関する取り決め(天津条約)を結んだ。伊藤博文と李鴻章が会談し、朝鮮からの両国軍の撤退と、重大事変などが発生した場合に、朝鮮に出兵する際の相互事前通告などを取り決めた。同年1月、朝露秘密協定事件が起こった。閔氏政権が、中国の宗主権強化政策が目にあまるようになったのに反発して、ロシア勢力を朝鮮に引き入れてバランスをとろうと秘かに折衝していたものであったが、清が途中で知るところになり、交渉が打ち切られた(6月)。密約問題は朝鮮を英露の国際対立の中に巻き込んだ。4月イギリスが、南下政策を見せ始めたロシアに対抗するため、東洋艦隊を用いて日本の対馬に近い巨文島を占領し(〜1887年2月)、ロシア極東艦隊の航路を牽制するため、守備隊を常駐させて砲台を設置した。6月にはベトナムがフランスの保護領となり、加速度的な西洋列強の進出は日本に深刻な衝撃を与えた。
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