小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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日本はどうして併合を求められたか2

投稿者: netuzouhanntaii 投稿日時: 2003/09/14 17:00 投稿番号: [86676 / 232612]
日本政府はその後の国交樹立交渉も不調に終わったため方針を転換した。アメリカの黒船が浦賀に来航して日本に開国を強要したのにならって、1875年軍艦雲揚号を江華島沖に送った。江華島の守備兵が発砲したため交戦し、江華島を占領した(江華島事件)。日本はこの機をとらえて、朝鮮に開国を強要した。衛正斥邪派の崔益鉉は、華夷思想に基づいた強硬な開国反対論を国王に上疏したが、翌1876年両国間に日朝修好条規(江華島条約)が締結されて朝鮮は鎖国を終了し開国した。この条約の第一条は、朝鮮を「自主ノ邦」と規定して、独立国として扱っているが、これはそれまでの中国を中心とした国際秩序を破るものであった。日本が朝鮮を独立国として扱ったのは、朝鮮を植民地化の危機にある中国の影響下から切り離して、親日政権をつくることを狙ったからであったが、この時点では、支配下に置くことは考えていなかった。19世紀末期は帝国主義の全盛期で、日本は朝鮮半島がその帝国主義勢力の前進基地となることを恐れた。朝鮮半島は日本にとって、大陸から日本列島の脇腹に突きつけられた短刀であったから、何よりも朝鮮半島の無害化をはかり、親日政権をつくる必要があった。そこで日本は、朝鮮が他国の支配下に入ることがないように、朝鮮の近代化を助けて、しっかりとした独立国として育てようと図った。閔氏政権に対し通商を拡大して近代的軍備を導入し、西洋の学問・技術を学んで殖産興業をはかる富国強兵の道を歩むことを勧め、視察団と留学生を受け入れた。まだ軍事力の脆弱な日本が独立を守るためにも隣国朝鮮が安定して独立していることが、どうしても必要であった。

開港後、日朝貿易は急速に拡大した。日本からは主に綿製品が輸出され、朝鮮からは主に米が輸出された。米の大量輸出は商人や地主・農民には利益をもたらしたが、国内における米の供給不足を引き起こして米価騰貴が深刻化した。飯米購買者である都市民衆の生活が圧迫されて日本に対する不満が高まり、衛正斥邪派からも開化政策に対して反発が広がった。閔氏政権は日本の協力のもと近代的軍隊である別技軍を新設し、日本人教官を招請して、教練を始めていたが、1882年7月、ソウルで旧式軍隊が反乱を起こした(壬午軍乱)。反乱に火をつけた直接の理由は、政府高官が旧式軍隊に給与として支払われていた米の一部を横取りしたのに対して、兵士の怒りが爆発したものだった。それに旧軍隊は、別技軍が装備と待遇の面で優遇されていたのに対しても憤っていた。旧式軍隊の軍卒は、官庁や閔氏一族の屋敷を襲撃するとともに、開化反対を叫ぶ漢城(ソウル)の民衆も日本公使館を襲撃するなどして多数の日本人を殺害した。また閔妃を攻撃の的にする一団も王宮に乱入して高官を殺害した。このときに閔妃は、変装して王宮から脱出した。壬午軍乱は、大院君が裏で煽動していたものだった。閔氏政権が倒れ、大院君が再び政権を握った。

日本は居留民保護のため軍艦4隻と兵士を朝鮮に派遣した。政権を奪われた閔氏一派は清国に反乱鎮圧を要請した。清国もただちに宗主国の責任として、軍艦6隻と3000人の兵を派遣した。壬午軍乱は、清国軍によって鎮圧された。大院君は閔妃の告発によって清国軍に捕らえられ、天津へ連行された。国王高宗が、実父の大院君が強制連行されるのを認めたことからも分るように、清の朝鮮に対する宗主権と冊封秩序は、いささかも揺らいではいなかったのだ。大院君一派はことごとく投獄され、閔氏政権が復活し、清国の庇護のもとにおかれた。清国は軍隊をそのままソウルに駐留させ、政府に顧問を送り込んで、韓国の内政に細部にわたって干渉した。8月日本は朝鮮との間に済物浦条約を結び、日本人被害者への見舞金支給と賠償支払い日本公使館への警備兵駐屯を取り決めた。同じ頃アメリカ、ロシア、ヨーロッパ諸国が、次々と朝鮮と修好通商条約を締結して進出をはかるようになった。朝鮮の宗主国清は、列強諸国や日本が朝鮮に積極的に進出をはかっていることに対して、警戒心を強めるようになった。
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