日本はどうして併合を求められたか1
投稿者: netuzouhanntaii 投稿日時: 2003/09/14 16:58 投稿番号: [86675 / 232612]
日本から見た韓国併合に至る歴史
19世紀の世界は弱肉強食の帝国主義時代で、国家がその時代の競争に負ければ、亡国か植民地に転落していったのは、近現代史の厳然たる史実である。(⇒資料1)19世紀中葉には東アジア諸国にも、強力な軍事力を背景にした欧米列強諸国が進出を始めており、大国の清でさえアヘン戦争(1840年)以後、分割や植民地化の危機にさらされていた。日本はこの危機に直面して、いかに独立を保つかが国家目標となり、明治維新(1868年)を成し遂げて、富国強兵の近代国家造りに邁進していた。しかし李氏朝鮮は世界の大勢を見誤り、鎖国を守り清の属国であり続ければ国家の存続を保てると考えていた。そのため国王高宗の摂政として政権を担当した大院君は、衛正斥邪(儒教を守り攘夷を行う)を唱えてキリスト教を邪教として弾圧し、8000人の信徒を虐殺(1865年〜)して西洋列強を刺激したうえ、来航してきた外国船に攻撃を仕掛ては緊張状態を高めていた(1866年〜)。しかしそれは本格的な戦争に進展すると、敗北して植民地に転落しかねない危険なものだった。また大院君の鎖国政策に伴って、両班支配層内部に朱子学の名分論を固守する攘夷主義者が台頭し衛正斥邪派が形成された。
1868年日本は明治新政府樹立を告げる使節を朝鮮に送るが、国書の文面に天皇の皇という中国皇帝と同格の称号が使われているのは許されない、という理由で(⇒資料2)国書の受け取りを拒絶された(書契問題)。朝鮮は中国の属国という立場に忠実に従っていたのだ。その後も国交と通商を求める交渉を続けたが、頑なに国を開こうとしない朝鮮に、日本は大きな危機感をもった。早急に開国して近代化と富国強兵を推し進めなくては、遠からず欧米列強の支配下におかれることになってしまうからである。そうなれば日本は脇腹に刃物を付きつけられたようなもので、隣国の日本は窮地に立たされることになるというのが、当時の共通認識であった。そうした緊迫した世界認識の中で、武力をもってでも強引に朝鮮を開国させるべき、という考えがおきた。1873年西郷隆盛らが征韓論を主張するが、この時は大久保利通らの内治優先論者によって退けられた。大院君は対外的危機に対処するため王権の強化をはかったが、両班の特権に一部規制を加えたことから両班層の強い反発を受けることになった。また、多額の費用がかかる景福宮再建の財源を捻出するため、多額の増税を行ったため経済が疲弊し、大院君の施政に対する民衆の不満が高まってきた。王妃閔氏一族はこの機会をとらえて大院君を政権から追放した。この政変によって大院君直系の官僚は政権から追われ、代わって閔氏一族の勢道政治が始まった(1873年)。閔氏政権の下では大院君以来の宮殿の造営が続けられており、高宗国王と閔妃の浪費もあいまって財政は悪化の一途をたどり、数年のうちに兵士の俸給の支給にも困窮する事態に陥った。また官職や科挙の及第を売買するなどして権力の腐敗が進んだ。
19世紀の世界は弱肉強食の帝国主義時代で、国家がその時代の競争に負ければ、亡国か植民地に転落していったのは、近現代史の厳然たる史実である。(⇒資料1)19世紀中葉には東アジア諸国にも、強力な軍事力を背景にした欧米列強諸国が進出を始めており、大国の清でさえアヘン戦争(1840年)以後、分割や植民地化の危機にさらされていた。日本はこの危機に直面して、いかに独立を保つかが国家目標となり、明治維新(1868年)を成し遂げて、富国強兵の近代国家造りに邁進していた。しかし李氏朝鮮は世界の大勢を見誤り、鎖国を守り清の属国であり続ければ国家の存続を保てると考えていた。そのため国王高宗の摂政として政権を担当した大院君は、衛正斥邪(儒教を守り攘夷を行う)を唱えてキリスト教を邪教として弾圧し、8000人の信徒を虐殺(1865年〜)して西洋列強を刺激したうえ、来航してきた外国船に攻撃を仕掛ては緊張状態を高めていた(1866年〜)。しかしそれは本格的な戦争に進展すると、敗北して植民地に転落しかねない危険なものだった。また大院君の鎖国政策に伴って、両班支配層内部に朱子学の名分論を固守する攘夷主義者が台頭し衛正斥邪派が形成された。
1868年日本は明治新政府樹立を告げる使節を朝鮮に送るが、国書の文面に天皇の皇という中国皇帝と同格の称号が使われているのは許されない、という理由で(⇒資料2)国書の受け取りを拒絶された(書契問題)。朝鮮は中国の属国という立場に忠実に従っていたのだ。その後も国交と通商を求める交渉を続けたが、頑なに国を開こうとしない朝鮮に、日本は大きな危機感をもった。早急に開国して近代化と富国強兵を推し進めなくては、遠からず欧米列強の支配下におかれることになってしまうからである。そうなれば日本は脇腹に刃物を付きつけられたようなもので、隣国の日本は窮地に立たされることになるというのが、当時の共通認識であった。そうした緊迫した世界認識の中で、武力をもってでも強引に朝鮮を開国させるべき、という考えがおきた。1873年西郷隆盛らが征韓論を主張するが、この時は大久保利通らの内治優先論者によって退けられた。大院君は対外的危機に対処するため王権の強化をはかったが、両班の特権に一部規制を加えたことから両班層の強い反発を受けることになった。また、多額の費用がかかる景福宮再建の財源を捻出するため、多額の増税を行ったため経済が疲弊し、大院君の施政に対する民衆の不満が高まってきた。王妃閔氏一族はこの機会をとらえて大院君を政権から追放した。この政変によって大院君直系の官僚は政権から追われ、代わって閔氏一族の勢道政治が始まった(1873年)。閔氏政権の下では大院君以来の宮殿の造営が続けられており、高宗国王と閔妃の浪費もあいまって財政は悪化の一途をたどり、数年のうちに兵士の俸給の支給にも困窮する事態に陥った。また官職や科挙の及第を売買するなどして権力の腐敗が進んだ。
これは メッセージ 86651 (toi_et_moi_is さん)への返信です.