硫黄島の戦闘の意味すること(3)-1
投稿者: komash0427 投稿日時: 2006/08/20 01:09 投稿番号: [229052 / 232612]
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昭和20年2月16日、米軍はこの島に総攻撃を開始した。戦艦6隻、重巡5隻、護衛空母10隻を主力とする大機動部隊が島を包囲した。午前9時、海上の軍艦からの艦砲射撃、空母艦載機による爆撃そして銃撃と、島はまったく緑色の見えぬほど焼けただれた。1日のべ1600機という空からの攻撃で、3日間で叩きこまれた爆弾120トン、ロケット弾2250発、海からの砲弾3万8500発、島にはもはや生物は生存し得ないと思われるほどの猛攻であった。
こうして3日後の2月19日朝、上陸用舟艇がいっせいに発進、海兵隊は島に向かった。いよいよ敵前上陸である。日本軍の兵力は3日にわたる砲爆撃でふっ飛び、おそらくたいした抵抗はないであろうと、海兵隊の将兵は意気盛んであった。
ところが、米軍は予想もしなかった。栗林中将の綿密にして周到な作戦計画のもと、硫黄島は完璧なくらい地下の要塞と化していたのである。中将は米軍の戦術、彼我の戦力、島の地形などをつぶさに検討した上で、大本営の作戦指導で正統視されてきた水際撃滅戦法を、おのれ一存の判断で後方防御、それも地下陣地による迎撃戦法へと転換させていたのである。すなわち地下15〜20メートルの深さに陣地を造り、それぞれの陣地のあいだを地下道でつなぎ、どんな砲爆撃にも耐えられる頑丈さと強固さとをもつ陣地を構築していた。その日が来るまで将兵は、器材不足も地下足袋をも溶かす地熱、それに噴出する硫黄ガスもものかは、昼夜兼行、必死の思いで作業に励んだ。記録によれば、島の中央の元山飛行場を中心に地下道28キロが計画されたが、米軍侵攻時には延長約18キロが完成していたという。日本軍の将兵はその地中に潜み、じっと息を詰めてアメリカ兵の上陸を待ち受けた。
水際における大きな反撃もなく、簡単に上陸した米海兵隊員たちは、足首までずるずると火山灰の中にめりこませて、一気に海岸線から内部に進もうとしたとき、どこからともわからない包囲射撃の的となり、ばたばたと倒れていった。樹木も遮蔽もないから、逃げ隠れようもない。砂に自分の体を潜りこませるしか防御の術がないのである。
戦況は一変した。地下陣地からの日本軍の大小の火器が地上のわずか7〜8センチのせまい穴から火を噴き、海兵隊員をつぎつぎになぎ倒した。上陸はしたものの、1メートル前進するのに米軍は想像できぬほど多くの血を流さねばならなかった。海兵隊員は上陸地点で一歩も動けずに、
「被害は甚大なり」
「戦車を揚げるな。燃料集積場が猛撃されている」
「何もいらない。衛生隊を大至急送れ」
などと悲痛な電報を打ちつづけた。
こうして最初の2日間で海兵隊は少なくとも3,600人以上の死傷者を出した。5日間で攻略完了の予定など、もう誰も口にしなくなった。米大統領のルーズベルトも、あまりの死傷者の多いことに息をのみ、統合参謀本部も世論を考慮して、この島の詳報を発表することをさしとめたほどであった。
"地上対地下の戦い"、何度でもいうが、それは栗林中将が最初から意図した戦法であった。地下陣地に立て籠もって、ひたすら持久戦にもちこむ。日本軍が他の戦場で敢行したような水際に兵をはりつけて敵撃退を図るとか、夜間斬り込みとか、バンザイ突撃とか、兵力の消耗をあえて試みないな華々しい作戦を、栗林中将は断固として拒否したのである。兵力を温存しつつ、粘って粘って粘りぬく。そのための堅固な地下陣地の構築であった。今その作戦が成功したのである。
従軍したアメリカの新聞記者が書き送っている。
「日本兵はなかなか死ななかった。地下要塞に立て籠もった兵を沈黙させるためには、何回も何回も壕を爆破しなければならなかった。重傷を受けながらも、日本兵は次から次に破壊されていく地下壕の中で頑強に抵抗をつづけた。ある海兵隊の軍曹は、一人の日本兵を殺すのに、21発も弾丸をうたなければならなかったのである」
米海兵隊はやむなく戦車や火炎放射器やバズーカ砲を先頭にして、じりじりと、1センチ2センチと、刻むようにして前進していった。前面に潜む地下陣地を一つでも見逃すことはできない。もし見逃すようなことがあれば、後ろから、あるいは横から、正確な射撃弾によって自分が死ななければならないからである。
昭和20年2月16日、米軍はこの島に総攻撃を開始した。戦艦6隻、重巡5隻、護衛空母10隻を主力とする大機動部隊が島を包囲した。午前9時、海上の軍艦からの艦砲射撃、空母艦載機による爆撃そして銃撃と、島はまったく緑色の見えぬほど焼けただれた。1日のべ1600機という空からの攻撃で、3日間で叩きこまれた爆弾120トン、ロケット弾2250発、海からの砲弾3万8500発、島にはもはや生物は生存し得ないと思われるほどの猛攻であった。
こうして3日後の2月19日朝、上陸用舟艇がいっせいに発進、海兵隊は島に向かった。いよいよ敵前上陸である。日本軍の兵力は3日にわたる砲爆撃でふっ飛び、おそらくたいした抵抗はないであろうと、海兵隊の将兵は意気盛んであった。
ところが、米軍は予想もしなかった。栗林中将の綿密にして周到な作戦計画のもと、硫黄島は完璧なくらい地下の要塞と化していたのである。中将は米軍の戦術、彼我の戦力、島の地形などをつぶさに検討した上で、大本営の作戦指導で正統視されてきた水際撃滅戦法を、おのれ一存の判断で後方防御、それも地下陣地による迎撃戦法へと転換させていたのである。すなわち地下15〜20メートルの深さに陣地を造り、それぞれの陣地のあいだを地下道でつなぎ、どんな砲爆撃にも耐えられる頑丈さと強固さとをもつ陣地を構築していた。その日が来るまで将兵は、器材不足も地下足袋をも溶かす地熱、それに噴出する硫黄ガスもものかは、昼夜兼行、必死の思いで作業に励んだ。記録によれば、島の中央の元山飛行場を中心に地下道28キロが計画されたが、米軍侵攻時には延長約18キロが完成していたという。日本軍の将兵はその地中に潜み、じっと息を詰めてアメリカ兵の上陸を待ち受けた。
水際における大きな反撃もなく、簡単に上陸した米海兵隊員たちは、足首までずるずると火山灰の中にめりこませて、一気に海岸線から内部に進もうとしたとき、どこからともわからない包囲射撃の的となり、ばたばたと倒れていった。樹木も遮蔽もないから、逃げ隠れようもない。砂に自分の体を潜りこませるしか防御の術がないのである。
戦況は一変した。地下陣地からの日本軍の大小の火器が地上のわずか7〜8センチのせまい穴から火を噴き、海兵隊員をつぎつぎになぎ倒した。上陸はしたものの、1メートル前進するのに米軍は想像できぬほど多くの血を流さねばならなかった。海兵隊員は上陸地点で一歩も動けずに、
「被害は甚大なり」
「戦車を揚げるな。燃料集積場が猛撃されている」
「何もいらない。衛生隊を大至急送れ」
などと悲痛な電報を打ちつづけた。
こうして最初の2日間で海兵隊は少なくとも3,600人以上の死傷者を出した。5日間で攻略完了の予定など、もう誰も口にしなくなった。米大統領のルーズベルトも、あまりの死傷者の多いことに息をのみ、統合参謀本部も世論を考慮して、この島の詳報を発表することをさしとめたほどであった。
"地上対地下の戦い"、何度でもいうが、それは栗林中将が最初から意図した戦法であった。地下陣地に立て籠もって、ひたすら持久戦にもちこむ。日本軍が他の戦場で敢行したような水際に兵をはりつけて敵撃退を図るとか、夜間斬り込みとか、バンザイ突撃とか、兵力の消耗をあえて試みないな華々しい作戦を、栗林中将は断固として拒否したのである。兵力を温存しつつ、粘って粘って粘りぬく。そのための堅固な地下陣地の構築であった。今その作戦が成功したのである。
従軍したアメリカの新聞記者が書き送っている。
「日本兵はなかなか死ななかった。地下要塞に立て籠もった兵を沈黙させるためには、何回も何回も壕を爆破しなければならなかった。重傷を受けながらも、日本兵は次から次に破壊されていく地下壕の中で頑強に抵抗をつづけた。ある海兵隊の軍曹は、一人の日本兵を殺すのに、21発も弾丸をうたなければならなかったのである」
米海兵隊はやむなく戦車や火炎放射器やバズーカ砲を先頭にして、じりじりと、1センチ2センチと、刻むようにして前進していった。前面に潜む地下陣地を一つでも見逃すことはできない。もし見逃すようなことがあれば、後ろから、あるいは横から、正確な射撃弾によって自分が死ななければならないからである。
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