硫黄島の戦闘の意味すること(2)
投稿者: komash0427 投稿日時: 2006/08/19 23:49 投稿番号: [229048 / 232612]
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硫黄島の戦闘の意味をよく理解するために、少し戦史をふり返ってみる。
昭和16年(1941)12月8日、ハワイの真珠湾米軍港への日本海軍航空部隊の奇襲攻撃、同時にイギリス領マレー半島への日本陸軍部隊の敵前上陸と、2つの作戦で始まった対米英戦争は、緒戦の頃は日本軍の連戦連勝で推移していった。開戦半年にして日本軍は遠くオーストラリア沿海にまで進出し、東南アジア、南太平洋のほとんど全域を占領した。
しかし、戦いは昭和17年(1942)夏ごろから、米英を中心とする連合諸国が、十数倍もの生産力をフルに動かして戦闘力を整えて、反撃を開始してからは戦勢は完全に逆転した。防戦に回った日本陸海軍はその占領した地域をじりじりと奪いとられていくようになる。日本は持てる力のすべてを振り絞って連合軍の猛攻撃に耐えてきたが、昭和19年の春ごろには、もう戦争の勝利のないことが明らかになりつつあった。"鬼畜米英" "撃ちしてやまむ"と国民もまた死にもの狂いになっていた。そうした日本人の叫びをあざ嗤かのように、その年の春から、アメリカ軍は各所で猛攻につぐ猛攻をかけてきた。
そして7月には、太平洋のまん中のマリアナ諸島サイパン、8月にはテニアン、グアムの島々を守っていた日本軍が全滅、そこに米軍は長距離爆撃機B29の基地を造成する。マリアナから東京までは約2,100キロメートル。巨大な超空の要塞B29は日本本土のどこへなりとも飛来することができた。いまや日本本土そのものが戦場となったのである。
東京の上空に、B29がはじめて姿を見せたのは昭和19年11月1日である。硫黄島の日本軍守備隊はその飛来を早期に的確に補足して、本土防空作戦のための緊急の通報を送った。米軍にとってはまさしくこの小さな島は邪魔者以外のなにものでもなかった。いらい十数回の写真偵察ののちに、いよいよ24日から本格的な空からの攻撃を米軍は開始した。けれども、高速のB29であろうと、マリアナ基地と日本本土とのあいだを往復するのに16時間もかかった。燃料の余裕はきわめて少なかった。とくに天候が悪かったりすれば、帰投のための燃料が不足し、あるいはまた、日本上空では通報をうけて待ちうける日本戦闘機の果敢な体当たり攻撃もあり損傷して、この巨大な爆撃機はしばしば太平洋上に不時着せねばならなかった。そこで、日本本土・マリアナのちょうど中間にあって、しかも長い滑走路を持つ飛行場が3つもある硫黄島が、ますますクローズアップされてきたのである。
もし硫黄島を手に入れることができれば、島ははかり知れないほど貴重な役割を果たすことであろう。日本爆撃を終えて帰るB29にとっては、またとない燃料補給基地となる。またB29を敵戦闘機から援護するための戦闘機P51には申し分のない出撃基地となる。ならば、米軍としては万難を排して1日も早くこれを攻略せねばならないことになる。
日本軍もまた当然のことながら、先に触れたように、硫黄島のもつ重要性をしっかりと認識している。この島を奪われては日本本土防衛は困難、というよりは絶望的になる。それゆえに栗林中将指揮の第109師団を主力に、1万9千あまりの将兵を送り込み、鉄壁の防衛陣地を布かねばならなかった。(兵力数は復員局の調べでは1万9449名となっている。米軍の発表では1万8500名)
米軍の主攻撃目標となった硫黄島は、北東の橋から南西の端まで最長8.3キロメートル、面積20平方キロメートル、周囲22キロメートルという小島である。島の南部に高さ161メートルの摺鉢山がもり上がっているほかは、ほぼ平らに広がり、攻めやすくて守りにくい地形である。そこで戦力の数と質では圧倒的に優勢なアメリカ軍は、はじめから呑んでかかっていた。上陸作戦の開始前に、米上陸部隊司令官ホーランド・スミス海軍中将は、「作戦は5日間で完了する」と豪語した。占領は簡単に達しうることであろう、と米将兵の誰もが思った。
しかし、戦いはそんな容易なものではなかったのである。
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硫黄島の戦闘の意味をよく理解するために、少し戦史をふり返ってみる。
昭和16年(1941)12月8日、ハワイの真珠湾米軍港への日本海軍航空部隊の奇襲攻撃、同時にイギリス領マレー半島への日本陸軍部隊の敵前上陸と、2つの作戦で始まった対米英戦争は、緒戦の頃は日本軍の連戦連勝で推移していった。開戦半年にして日本軍は遠くオーストラリア沿海にまで進出し、東南アジア、南太平洋のほとんど全域を占領した。
しかし、戦いは昭和17年(1942)夏ごろから、米英を中心とする連合諸国が、十数倍もの生産力をフルに動かして戦闘力を整えて、反撃を開始してからは戦勢は完全に逆転した。防戦に回った日本陸海軍はその占領した地域をじりじりと奪いとられていくようになる。日本は持てる力のすべてを振り絞って連合軍の猛攻撃に耐えてきたが、昭和19年の春ごろには、もう戦争の勝利のないことが明らかになりつつあった。"鬼畜米英" "撃ちしてやまむ"と国民もまた死にもの狂いになっていた。そうした日本人の叫びをあざ嗤かのように、その年の春から、アメリカ軍は各所で猛攻につぐ猛攻をかけてきた。
そして7月には、太平洋のまん中のマリアナ諸島サイパン、8月にはテニアン、グアムの島々を守っていた日本軍が全滅、そこに米軍は長距離爆撃機B29の基地を造成する。マリアナから東京までは約2,100キロメートル。巨大な超空の要塞B29は日本本土のどこへなりとも飛来することができた。いまや日本本土そのものが戦場となったのである。
東京の上空に、B29がはじめて姿を見せたのは昭和19年11月1日である。硫黄島の日本軍守備隊はその飛来を早期に的確に補足して、本土防空作戦のための緊急の通報を送った。米軍にとってはまさしくこの小さな島は邪魔者以外のなにものでもなかった。いらい十数回の写真偵察ののちに、いよいよ24日から本格的な空からの攻撃を米軍は開始した。けれども、高速のB29であろうと、マリアナ基地と日本本土とのあいだを往復するのに16時間もかかった。燃料の余裕はきわめて少なかった。とくに天候が悪かったりすれば、帰投のための燃料が不足し、あるいはまた、日本上空では通報をうけて待ちうける日本戦闘機の果敢な体当たり攻撃もあり損傷して、この巨大な爆撃機はしばしば太平洋上に不時着せねばならなかった。そこで、日本本土・マリアナのちょうど中間にあって、しかも長い滑走路を持つ飛行場が3つもある硫黄島が、ますますクローズアップされてきたのである。
もし硫黄島を手に入れることができれば、島ははかり知れないほど貴重な役割を果たすことであろう。日本爆撃を終えて帰るB29にとっては、またとない燃料補給基地となる。またB29を敵戦闘機から援護するための戦闘機P51には申し分のない出撃基地となる。ならば、米軍としては万難を排して1日も早くこれを攻略せねばならないことになる。
日本軍もまた当然のことながら、先に触れたように、硫黄島のもつ重要性をしっかりと認識している。この島を奪われては日本本土防衛は困難、というよりは絶望的になる。それゆえに栗林中将指揮の第109師団を主力に、1万9千あまりの将兵を送り込み、鉄壁の防衛陣地を布かねばならなかった。(兵力数は復員局の調べでは1万9449名となっている。米軍の発表では1万8500名)
米軍の主攻撃目標となった硫黄島は、北東の橋から南西の端まで最長8.3キロメートル、面積20平方キロメートル、周囲22キロメートルという小島である。島の南部に高さ161メートルの摺鉢山がもり上がっているほかは、ほぼ平らに広がり、攻めやすくて守りにくい地形である。そこで戦力の数と質では圧倒的に優勢なアメリカ軍は、はじめから呑んでかかっていた。上陸作戦の開始前に、米上陸部隊司令官ホーランド・スミス海軍中将は、「作戦は5日間で完了する」と豪語した。占領は簡単に達しうることであろう、と米将兵の誰もが思った。
しかし、戦いはそんな容易なものではなかったのである。
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