Re: 当たり前の通念を見直す
投稿者: gurit_gogo 投稿日時: 2005/12/01 19:01 投稿番号: [223851 / 232612]
なぜ「代々続いた血統を維持した」功績があったのか?これは一説には天武天皇の血統が存命当時から怪しい出自だからと指摘されていたからとも言われています。
そうした観点からすると、天武の血統を抑え、より正当な天智天皇の血統を持統天皇は後の代に引くつぐことができたから、「持統」という諡になったと。
事実、皇室の菩提寺である京都の泉涌寺には、天武天皇をはじめ天武系とされる数代の天皇は、この菩提寺には弔われていませんでした。
女性である持統天皇が即位した背景には、当時ならではの血統を継続するための、狙いがあったわけです。あくまでもワンポイントリリーフ的なものであります。
持統天皇を引き合いに女系天皇の論理的正当性の根拠とするには無理があります。
一方、rachi_yameroさんが指摘するように、天皇という存在の宣言は中華秩序からの独立という意味合いがあります。
表面的には、天皇という存在によって一つの王朝が古代から今日まで継続しているという事実は、他国とくに中国と比べても非常に際立っています。
中国では王朝交替が何度もおきています。交替のたびに政敵をそれこそ九族まで探し当てて皆殺しをして、政敵を徹底的に葬ります。
それまで正統とされた王朝が変わるということは天によって下された現世の政権(地上の支配)を実力によって替えるということです。すなわち天の意思に反することをするわけです。
天の意思に反することを正当化するために湯武放伐論という理論を生み出して王朝交替をし、天下の人々に受け入れさせる必要が中国ではありました。
革命という言葉があります。ヨーロッパ近代にみられた産業革命、市民革命、さらには共産革命と、近代を想起させる言葉ですが、もともとは、古代から「天命を以って革める」という言葉から生まれています。
日本の場合は藤原家や平家が朝廷を支配したり、源氏をはじめ武家政権が武力により実権を獲得していますが、誰もこれを「革命」とか王朝交替とは呼びません。
事実王朝交替もありません。そのため九族皆殺しというような徹底した弾圧は武士をのぞいてはありませんでした。
ここが武士の武士たる所以です。
平安時代武士は貴族に差別、蔑まされる対象でした。しかし軍事力という実力を持っていました。その実力者が貴族から実権を奪い、武家政権を打ち立てます。
平清盛は、政敵を根絶やしにしなかったがために、のちに源義経、頼朝兄弟に滅ぼされることになります。
相手を徹底的に滅ぼした典型的な例は徳川家康による豊臣家滅亡です。
徳川家康は徹底的に源頼朝の時代を描写した吾妻物語を研究していたそうです。そこに平家の失敗と源治の成功の秘訣を学んだようです。
・平家の失敗を繰り返さないためには、政敵は徹底的に滅ぼさなければならない
一方で頼朝にならい、幕府を開きます。
・幕府とは、朝廷に逆らうものたち(夷=えみし)を征服するために将軍が戦いの前線で指揮をとるために陣地を築いた場所に張った幕という意味です。
ですから形上は、征夷大将軍に任命されるわけです。頼朝が幕府制度を発明し、以後武士はみなこれを倣います。
徹底的に豊臣家を押さえ込んだ家康でさえ、また逆らうものは徹底的に根絶やしにした兄貴分の織田信長も天皇家を牽制しますが、天皇家を乗っ取ろうとしたわけではありません。
あくまでも天皇の命によって、律令の地位、すなわち天皇を中心とする制度の一役職である征夷大将軍という職に就任させてもらうわけです。
(信長は将軍になる前に死にました)
天皇家の地位を簒奪しようとする実力者は歴史的にはみな失敗し戦いに敗れるか、暗殺されています(関八州の神皇になると宣言した平将門。日本国王になろうとした足利義満や帝王になろうとした足利義教など)。
もちろん天皇家は軍事力を有していたわけではないので、武士に実権を奪われ、形骸化されました。江戸時代の公家社会はかなり経済的に苦労したそうです。しかしあくまでも建前としては「律令」も維持され、「官位任命権」は奪われませんでした。すなわち権威としての天皇家は存続しています。
武士は権力を握りましたが、権威は天皇家がもったままです。
この点が他国と大きく異なります。
唯一、戦前の一時期、権威を嵩にする軍部が権力を振るいました。
これにより日本の政治は、かつて経験したことのない事態となり、バランスを大きく崩したことは指摘するまでもありません。
いや天皇家の権威や地位を奪うことはやってはならない、というのが古来からの日本人共通の認識です。
権威と権力を分離することが日本の知恵であったわけです。
そうした観点からすると、天武の血統を抑え、より正当な天智天皇の血統を持統天皇は後の代に引くつぐことができたから、「持統」という諡になったと。
事実、皇室の菩提寺である京都の泉涌寺には、天武天皇をはじめ天武系とされる数代の天皇は、この菩提寺には弔われていませんでした。
女性である持統天皇が即位した背景には、当時ならではの血統を継続するための、狙いがあったわけです。あくまでもワンポイントリリーフ的なものであります。
持統天皇を引き合いに女系天皇の論理的正当性の根拠とするには無理があります。
一方、rachi_yameroさんが指摘するように、天皇という存在の宣言は中華秩序からの独立という意味合いがあります。
表面的には、天皇という存在によって一つの王朝が古代から今日まで継続しているという事実は、他国とくに中国と比べても非常に際立っています。
中国では王朝交替が何度もおきています。交替のたびに政敵をそれこそ九族まで探し当てて皆殺しをして、政敵を徹底的に葬ります。
それまで正統とされた王朝が変わるということは天によって下された現世の政権(地上の支配)を実力によって替えるということです。すなわち天の意思に反することをするわけです。
天の意思に反することを正当化するために湯武放伐論という理論を生み出して王朝交替をし、天下の人々に受け入れさせる必要が中国ではありました。
革命という言葉があります。ヨーロッパ近代にみられた産業革命、市民革命、さらには共産革命と、近代を想起させる言葉ですが、もともとは、古代から「天命を以って革める」という言葉から生まれています。
日本の場合は藤原家や平家が朝廷を支配したり、源氏をはじめ武家政権が武力により実権を獲得していますが、誰もこれを「革命」とか王朝交替とは呼びません。
事実王朝交替もありません。そのため九族皆殺しというような徹底した弾圧は武士をのぞいてはありませんでした。
ここが武士の武士たる所以です。
平安時代武士は貴族に差別、蔑まされる対象でした。しかし軍事力という実力を持っていました。その実力者が貴族から実権を奪い、武家政権を打ち立てます。
平清盛は、政敵を根絶やしにしなかったがために、のちに源義経、頼朝兄弟に滅ぼされることになります。
相手を徹底的に滅ぼした典型的な例は徳川家康による豊臣家滅亡です。
徳川家康は徹底的に源頼朝の時代を描写した吾妻物語を研究していたそうです。そこに平家の失敗と源治の成功の秘訣を学んだようです。
・平家の失敗を繰り返さないためには、政敵は徹底的に滅ぼさなければならない
一方で頼朝にならい、幕府を開きます。
・幕府とは、朝廷に逆らうものたち(夷=えみし)を征服するために将軍が戦いの前線で指揮をとるために陣地を築いた場所に張った幕という意味です。
ですから形上は、征夷大将軍に任命されるわけです。頼朝が幕府制度を発明し、以後武士はみなこれを倣います。
徹底的に豊臣家を押さえ込んだ家康でさえ、また逆らうものは徹底的に根絶やしにした兄貴分の織田信長も天皇家を牽制しますが、天皇家を乗っ取ろうとしたわけではありません。
あくまでも天皇の命によって、律令の地位、すなわち天皇を中心とする制度の一役職である征夷大将軍という職に就任させてもらうわけです。
(信長は将軍になる前に死にました)
天皇家の地位を簒奪しようとする実力者は歴史的にはみな失敗し戦いに敗れるか、暗殺されています(関八州の神皇になると宣言した平将門。日本国王になろうとした足利義満や帝王になろうとした足利義教など)。
もちろん天皇家は軍事力を有していたわけではないので、武士に実権を奪われ、形骸化されました。江戸時代の公家社会はかなり経済的に苦労したそうです。しかしあくまでも建前としては「律令」も維持され、「官位任命権」は奪われませんでした。すなわち権威としての天皇家は存続しています。
武士は権力を握りましたが、権威は天皇家がもったままです。
この点が他国と大きく異なります。
唯一、戦前の一時期、権威を嵩にする軍部が権力を振るいました。
これにより日本の政治は、かつて経験したことのない事態となり、バランスを大きく崩したことは指摘するまでもありません。
いや天皇家の権威や地位を奪うことはやってはならない、というのが古来からの日本人共通の認識です。
権威と権力を分離することが日本の知恵であったわけです。
これは メッセージ 223850 (gurit_gogo さん)への返信です.