小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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皇族の維持は難しい

投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2005/12/01 00:12 投稿番号: [223821 / 232612]
時代が下って、12世紀(平安末期)ころになると、天皇の配偶者は「三婦人、九嬪、二十七世婦、八十一女御」(保元物語)まで許されるようになったといわれる。

そういう時代には、天皇は血統を絶やさぬことが神聖な義務とばかりに多数の配偶者相手に子作りにはげみ、桓武天皇(在位781〜806)は16人の女性との間に36人の子供をもうけ、嵯峨天皇(在位809〜823)は28人の女性との間に58人の子供をもうけた。その他、10人単位の女性に10人単位の子供を産ませた天皇はゴロゴロいる。

そのような多産系の側室によって、万世一系といわれる天皇の血統は守られてきたのである。万世一系とはいっても、いたるところで、子供を産んだ配偶者の家系から遺伝子が天皇の血筋に流れこんできていたのである。
明治、大正時代も皇族が断絶する危機に

側室当たり前(庶子相続当たり前)が天皇家の伝統であったから、明治維新で、皇室が京都から東京に移るとき、女官の女性たちも東京に移転して(明治 2年)、皇居にはすぐ「お局(つぼね)」が作られた。しかし、明治天皇は、このとき17歳だったので、まだ側室はいなかった。なにしろ、明治天皇はこのとき新婚ホヤホヤだったのである。

明治天皇は、16歳で即位するとすぐに18歳の美子(はるこ)を皇后に迎え、東京へ移転するに際しても、もちろん彼女をともなってきた。しかし、3年たっても美子皇后に子供ができなかったので、19歳の天皇に18歳と14歳の2人の側室が与えられることになった。

その選定に当たったのは、なんと皇后自身だった。2人の側室は、それからほどなくして、それぞれ男子と女子を産んだが、2人とも間もなく母子ともに亡くなった。

その後明治天皇には次々に側室が与えられ、最終的には合計9人の側室を持った。彼女らによって、計15人の子供を持ったが、多くが夭折し、成人するまで育ったのは、女子が4人、男子がただ1人であった。その一人残った男子が大正天皇になった。大正天皇の生母は、側室の柳原愛子だったから、大正天皇は庶出である。

9人の側室と15人の庶子まで枠を広げても、男系男子の相続にこだわると、成人するまでに育った男の子供はただ1人になってしまったわけである。明治天皇も、父孝明天皇の側室の子供で、庶出子だった(ちなみに、父の孝明天皇も庶出子だった)。明治天皇の場合も、生き残ったただ一人の直系男子だった。

側室がなかったら皇族が断絶する危機は明治天皇のときも、大正天皇のときもあったわけである。
天皇家は女系家族の典型

大正天皇は病弱だったが、妃の節子は健康で多産系であったため、次々に子供を産み、4人が壮健な男子として育った。それが昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮である。

天皇家の正室が産んだ子供によって、大正から昭和へ、天皇の位が相続されたわけだが、これは実に150年ぶりのことだった。嫡出子の男子のみに皇族を限定したら、どれほど皇族の維持が難しいかを、この「150年ぶり」という事実が、何よりもよく物語っている。
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