>北との対話、柔軟に対応(2/2)
投稿者: komash0427 投稿日時: 2005/05/21 23:20 投稿番号: [204132 / 232612]
(中略)北朝鮮側はまたも得意の撹乱戦法に出る。2000年9月、ニューヨークでの国連総会は"ミレニアム・サミット"と呼ばれ、世界各国の要人が一斉に集まった。北朝鮮は序列2位の金永南最高会議委員長を送り込む方針を示していた。
だが、その前段階で北朝鮮外交団の米国への入国手続きを巡るトラブルが発覚し、金永南の国連総会出席は、"米国の無礼"を理由に急遽、中止となる。あわせて、白南淳外相も訪米をキャンセルし、オルブライトと交わした再会の約束も果たせずに終わった(2000年7月バンコクで史上初の米朝外相トップ会談をした仲)。
突然のキャンセル劇のあらましはこうだった。
ドイツのフランクフルト経由でアメリカン航空に乗り換え、ニューヨーク入を目指していた金永南らの一行は、登場の際「服や靴を脱がされ、体の隅々まで調べられた」と非難。この時、米航空会社の安全担当者らが、「北朝鮮は(クリントン政権が定めた)"ならず者国家"であるから所持品を検査する必要があると要求した」と北朝鮮側は指摘し、「国家代表に対するこうした措置は主権国家の自主権への侵害にあたる」と主張した。
北朝鮮側は「米国側は謝罪し、あらゆる責任を取るべきだ」と表明した上で、一方的に訪米を中止した。
だが、一連の動きは北朝鮮が米国との交渉を避けるためのものではなく、その下準備を進めるためのものだった可能性が高い。
北朝鮮側が去り際に残した「今回の事態により、米国がわれわれの対外関係拡大を快く思っていないことがわかった」などとする言葉について、米側は駐比米国大使から帰任したトーマス・ハバード筆頭国務副次官補(東アジア・太平洋担当)を中心に「派遣した特使に敬意は払われるか」と何度も問いただした北朝鮮当局者の言葉を踏まえ、即座に善後策を検討した。その結果、北朝鮮側に高官名義の書簡を送り、遺憾の意を表明した。書簡には「事件が米朝関係発展に悪影響をおよぼさないことを願う」などとする言葉を盛り込んでいた。
米側の迅速な対処に北朝鮮も機敏に反応した。バンコクでの米朝外相会談からおよそ2ヶ月後、北朝鮮はいつものように唐突に動き始めたのである。
2000年9月27日、ニューヨーク。国連本部ビル前に位置する米代表部で、カートマン朝鮮半島問題担当大使(多分現在はKEDO事務局長)は北朝鮮の金桂官外務次官との高官協議を控え、脇に多くの資料を抱えながら、議場となっていた大会議室へと足を踏み入れた。
すると突然、テーブルの向かい側にいた金桂官が席を立ち、カートマンらに向かって詰め寄ると、そのままカートマンを会議室の一角へと導いた。
この時までにカートマンと金桂官は、すでに何度か会議で米朝双方を代表する存在として顔を合わせ、「相互に理解する時間」を共有する関係にはなっていた。
金桂官は1943年1月に平安北道・雲山で生まれた。英語とフランス語に堪能で、早くから北朝鮮の外交エリートとしてその存在を知られていた。92年1月、ニューヨークで開催した初の米朝高官協議(ブッシュシニア政権時代のこと)には、奇しくもカートマン同様、北朝鮮側の随員として出席している。それ以降、米朝枠組み合意の交渉や、カーター元大統領による訪朝時の受けいれ責任者などをつとめるなど、文字通り北朝鮮の"アメリカ・スペシャリスト"として米側には知られていた。
そのスペシャリストが明らかに高揚している。普段はあまり表情を顔に出さないポーカー・フェイスもこの時ばかりはそうではなかった。
一体、何事だろうか。突然の出来事に困惑を隠しきれず、内心いぶかるカートマンの心境などお構いなしに金桂官はカートマンの顔を一度正面から凝視すると、おもむろにこう切り出した。
「我が国の金正日将軍が米国に個人的な特使を派遣しミサイル問題について重大な提案を行ないたいとおっしゃっている」
「それは誰なのですか」
圧倒され気味のカートマンに対し、金桂官は"特使"が北朝鮮軍ナンバー2の趙明禄であることをあっさりと伝えた。(以下略)
だが、その前段階で北朝鮮外交団の米国への入国手続きを巡るトラブルが発覚し、金永南の国連総会出席は、"米国の無礼"を理由に急遽、中止となる。あわせて、白南淳外相も訪米をキャンセルし、オルブライトと交わした再会の約束も果たせずに終わった(2000年7月バンコクで史上初の米朝外相トップ会談をした仲)。
突然のキャンセル劇のあらましはこうだった。
ドイツのフランクフルト経由でアメリカン航空に乗り換え、ニューヨーク入を目指していた金永南らの一行は、登場の際「服や靴を脱がされ、体の隅々まで調べられた」と非難。この時、米航空会社の安全担当者らが、「北朝鮮は(クリントン政権が定めた)"ならず者国家"であるから所持品を検査する必要があると要求した」と北朝鮮側は指摘し、「国家代表に対するこうした措置は主権国家の自主権への侵害にあたる」と主張した。
北朝鮮側は「米国側は謝罪し、あらゆる責任を取るべきだ」と表明した上で、一方的に訪米を中止した。
だが、一連の動きは北朝鮮が米国との交渉を避けるためのものではなく、その下準備を進めるためのものだった可能性が高い。
北朝鮮側が去り際に残した「今回の事態により、米国がわれわれの対外関係拡大を快く思っていないことがわかった」などとする言葉について、米側は駐比米国大使から帰任したトーマス・ハバード筆頭国務副次官補(東アジア・太平洋担当)を中心に「派遣した特使に敬意は払われるか」と何度も問いただした北朝鮮当局者の言葉を踏まえ、即座に善後策を検討した。その結果、北朝鮮側に高官名義の書簡を送り、遺憾の意を表明した。書簡には「事件が米朝関係発展に悪影響をおよぼさないことを願う」などとする言葉を盛り込んでいた。
米側の迅速な対処に北朝鮮も機敏に反応した。バンコクでの米朝外相会談からおよそ2ヶ月後、北朝鮮はいつものように唐突に動き始めたのである。
2000年9月27日、ニューヨーク。国連本部ビル前に位置する米代表部で、カートマン朝鮮半島問題担当大使(多分現在はKEDO事務局長)は北朝鮮の金桂官外務次官との高官協議を控え、脇に多くの資料を抱えながら、議場となっていた大会議室へと足を踏み入れた。
すると突然、テーブルの向かい側にいた金桂官が席を立ち、カートマンらに向かって詰め寄ると、そのままカートマンを会議室の一角へと導いた。
この時までにカートマンと金桂官は、すでに何度か会議で米朝双方を代表する存在として顔を合わせ、「相互に理解する時間」を共有する関係にはなっていた。
金桂官は1943年1月に平安北道・雲山で生まれた。英語とフランス語に堪能で、早くから北朝鮮の外交エリートとしてその存在を知られていた。92年1月、ニューヨークで開催した初の米朝高官協議(ブッシュシニア政権時代のこと)には、奇しくもカートマン同様、北朝鮮側の随員として出席している。それ以降、米朝枠組み合意の交渉や、カーター元大統領による訪朝時の受けいれ責任者などをつとめるなど、文字通り北朝鮮の"アメリカ・スペシャリスト"として米側には知られていた。
そのスペシャリストが明らかに高揚している。普段はあまり表情を顔に出さないポーカー・フェイスもこの時ばかりはそうではなかった。
一体、何事だろうか。突然の出来事に困惑を隠しきれず、内心いぶかるカートマンの心境などお構いなしに金桂官はカートマンの顔を一度正面から凝視すると、おもむろにこう切り出した。
「我が国の金正日将軍が米国に個人的な特使を派遣しミサイル問題について重大な提案を行ないたいとおっしゃっている」
「それは誰なのですか」
圧倒され気味のカートマンに対し、金桂官は"特使"が北朝鮮軍ナンバー2の趙明禄であることをあっさりと伝えた。(以下略)
これは メッセージ 204131 (komash0427 さん)への返信です.