主体思想って3
投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2004/11/08 05:39 投稿番号: [157482 / 232612]
⑬1970年代に入って人間中心の新しい哲学理論に基づいて主体思想を理論的に体系化する活動が始まった。
人間中心哲学は、社会的運動の本質をどう見るかといった問題において、マルクス主義の唯物史観と見解を異にする。
マルクス主義は、精神的なものは物質的なものの反映であるいう唯物論的反映論から出発する。
マルクス主義は、すべての社会的現象を物質的なものと精神的なものに分け、物質的なものが精神的なものを規定するという原則から社会的運動の合法則性を究明しようとした。
マルクス主義は、社会的運動も物質の運動と共通性をもつものと見て、自然の運動が必然的な法則に基づいて行われるように、社会的運動も必然的な法則にのっとって行われると考えた。
ただし、社会的運動はでは、自然の運動におけるように必然的な法則がはっきりしないように見えるが、精神的なものは物質的なものの反映であるため、それは独自的で必然的な運動法則をもちえず、たんに必然的な法則によって運動する物質的な社会運動に一定の反作用をするにすぎないと見た。
では 社会運動に物質的なもの、すなわち物質的な社会的運動とは何か?
それは、人間が自然を改造し、食べて、着て、使う生活手段をととのえるための生産活動だと見た。
このような生産活動なしに人間の社会生活は成立せず、社会生活の変化発展について考えることはできない。
社会的運動は本質上、物質的富を創造し、分配し、消費する経済活動であり、政治や文化などの他の社会的現象はみな経済活動から派生したものと見た。
では社会の物質的運動である経済活動を規定する必然的な法則とは何か?
それは生産力の発展水準に生産関係が相応するということである。
そうすると物質生活と精神生活の相互関係はどのように見るべきか。
それは人間の社会的存在が人間の社会的意識を規定するということである。
人間の社会的存在において基本は何か?
それは生産力と生産関係の統一である生産方式なのである。
人間の社会的存在を反映したものが社会的意識であり、社会的意識を具現した社会的施設が社会の上部構造であるというのである。
簡単に述べると、このような論理に従って生産力の発展水準に生産関係が相応し、生産関係を土台としてそれを反映したさまざまな思想意識形態が形成され、それを具現した政治的法律的、あるいは文化的施設が当該社会の上部構造を構成することになる。
上部構造は土台によって規定されるが、同時に土台に反作用する。
これがマルクス主義の唯物史観の公式である。
⑭マルクス主義は社会的運動を物質的なものと精神的なものに分けたが、物質的な運動と精神的な運動を行う主体が何であるかという問題を提起しなかった。
すなわち社会的運動の底辺に置かれている経済的運動がすなわち社会的運動の本質になり、この経済的運動の発展法則が社会的運動の客観的法則であると主張したが、その運動が誰が起こし、誰のために、誰がこの運動を推し進めていくかという問題を提起できなかった。
社会的運動の主体に関する問題が、自然の運動と区別される社会的運動の本質を解明するうえでいっそう根本的な意義を持つ問題だということについて当然の注目を払うことができなかった。
運動は運動する性質の表現である。
無生命物質の運動と生命物質の運動との根本的な差はどこにあるのか。
無生命物質は盲目的に相互作用するが、生命物質は固体保存と種の保存の本能に従って合目的的な運動をするところにある。
ここから物理、化学、天文学などの科学と質的に区別される生物化学が成立しうる。
生物学的存在である動物の運動と社会的存在である人間の運動の根本的差はどこにあるのか?
動物は本能に従って周囲の環境に順応し、自己の生の要求をそれに従属させる運動をするが、人間は自主的な思想意識と創造的能力をもって客観的世界を自己の要求に合わせて改造することにより、自己の生の要求を自主的に、創造的に実現していくところにある。
ここから自然科学(生物学を含む。)と区別される社会科学が成立する。
人間が行う社会的運動の本質的特徴は、まさに人間がそなえている社会的存在としての本質的特徴によって規定される。
人間はもって生れた本能的欲望と肉体的な力だけをもつ存在ではない。
人間は社会的生活の過程で蓄積された精神的な力(社会的意識の諸形態である思想文化的財富)と物質的な力(社会的に生産した物質的財富)をもっている。
(→next)
人間中心哲学は、社会的運動の本質をどう見るかといった問題において、マルクス主義の唯物史観と見解を異にする。
マルクス主義は、精神的なものは物質的なものの反映であるいう唯物論的反映論から出発する。
マルクス主義は、すべての社会的現象を物質的なものと精神的なものに分け、物質的なものが精神的なものを規定するという原則から社会的運動の合法則性を究明しようとした。
マルクス主義は、社会的運動も物質の運動と共通性をもつものと見て、自然の運動が必然的な法則に基づいて行われるように、社会的運動も必然的な法則にのっとって行われると考えた。
ただし、社会的運動はでは、自然の運動におけるように必然的な法則がはっきりしないように見えるが、精神的なものは物質的なものの反映であるため、それは独自的で必然的な運動法則をもちえず、たんに必然的な法則によって運動する物質的な社会運動に一定の反作用をするにすぎないと見た。
では 社会運動に物質的なもの、すなわち物質的な社会的運動とは何か?
それは、人間が自然を改造し、食べて、着て、使う生活手段をととのえるための生産活動だと見た。
このような生産活動なしに人間の社会生活は成立せず、社会生活の変化発展について考えることはできない。
社会的運動は本質上、物質的富を創造し、分配し、消費する経済活動であり、政治や文化などの他の社会的現象はみな経済活動から派生したものと見た。
では社会の物質的運動である経済活動を規定する必然的な法則とは何か?
それは生産力の発展水準に生産関係が相応するということである。
そうすると物質生活と精神生活の相互関係はどのように見るべきか。
それは人間の社会的存在が人間の社会的意識を規定するということである。
人間の社会的存在において基本は何か?
それは生産力と生産関係の統一である生産方式なのである。
人間の社会的存在を反映したものが社会的意識であり、社会的意識を具現した社会的施設が社会の上部構造であるというのである。
簡単に述べると、このような論理に従って生産力の発展水準に生産関係が相応し、生産関係を土台としてそれを反映したさまざまな思想意識形態が形成され、それを具現した政治的法律的、あるいは文化的施設が当該社会の上部構造を構成することになる。
上部構造は土台によって規定されるが、同時に土台に反作用する。
これがマルクス主義の唯物史観の公式である。
⑭マルクス主義は社会的運動を物質的なものと精神的なものに分けたが、物質的な運動と精神的な運動を行う主体が何であるかという問題を提起しなかった。
すなわち社会的運動の底辺に置かれている経済的運動がすなわち社会的運動の本質になり、この経済的運動の発展法則が社会的運動の客観的法則であると主張したが、その運動が誰が起こし、誰のために、誰がこの運動を推し進めていくかという問題を提起できなかった。
社会的運動の主体に関する問題が、自然の運動と区別される社会的運動の本質を解明するうえでいっそう根本的な意義を持つ問題だということについて当然の注目を払うことができなかった。
運動は運動する性質の表現である。
無生命物質の運動と生命物質の運動との根本的な差はどこにあるのか。
無生命物質は盲目的に相互作用するが、生命物質は固体保存と種の保存の本能に従って合目的的な運動をするところにある。
ここから物理、化学、天文学などの科学と質的に区別される生物化学が成立しうる。
生物学的存在である動物の運動と社会的存在である人間の運動の根本的差はどこにあるのか?
動物は本能に従って周囲の環境に順応し、自己の生の要求をそれに従属させる運動をするが、人間は自主的な思想意識と創造的能力をもって客観的世界を自己の要求に合わせて改造することにより、自己の生の要求を自主的に、創造的に実現していくところにある。
ここから自然科学(生物学を含む。)と区別される社会科学が成立する。
人間が行う社会的運動の本質的特徴は、まさに人間がそなえている社会的存在としての本質的特徴によって規定される。
人間はもって生れた本能的欲望と肉体的な力だけをもつ存在ではない。
人間は社会的生活の過程で蓄積された精神的な力(社会的意識の諸形態である思想文化的財富)と物質的な力(社会的に生産した物質的財富)をもっている。
(→next)
これは メッセージ 157481 (sofiansky2003 さん)への返信です.