金容淳死亡と金正日体制の未来⑥
投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2004/01/19 06:44 投稿番号: [102128 / 232612]
呉振宇除去のために何度も圧迫
金正日は父のイメージを尊重しなければならないため、革命第一世代を殺すことも生かすこともできずに悩んだ。1976年5月、呉振宇が人民武力部長に昇進すると、金正日は李用茂を押したてて呉振宇圧迫工作を急いた。
李用茂は総政治局長の権限で、全軍の幕舎と事務室で金日成の写真のすぐそばに金正日の写真をかけさせて、金正日関係の出版物を大々的に普及し、全軍に学習させた。その功労により李用茂は1974年6月、党政治局委員となった。得意になった李用茂の軍部内での越権行動が目立つようになると、呉振宇の進言で金日成は彼を解職した。まさに後に金正日はまた朴チュングクを人民武力部副部長に投入した。朴チュングクは金正日と張成沢の飲み友達であった。朴チュングクは呉振宇の執務室に盗聴装置を仕掛けたが発覚し解職されたが、にもかかわらずキューバ特命全権大使となった。
呉振宇との戦いは手強かった。1976年6月、党政治委員会で革命第一世代らが金正日の政策を公開批判し、党の秩序と規律を破壊して、自分たちを第一線から退陣させようという彼の攻略を批判した。このとき批判を主導した金ドンギュは結局、政治犯収容所行きとなり、金正日は自らの権力基盤の構築作業を続けたのである。
彼は自分を追従する若い世代から、60万名を新たに入党させた。彼は1979年、呉振宇の同意なしに48才の若き呉克烈を人民軍総参謀長の席に座らせた。呉克烈は金正日の萬景台万景台革命遺児学院の同期であり、革命第2世代を代表する軍人である。彼は空軍出身で、ソ連空軍大学を優等生として卒業し、英語・ロシア語・中国語に長けており卓越した軍事理論家でもある。彼はあらゆることを上官である呉振宇よりも、金正日にまず報告した。そのため金正日と呉振宇との間の葛藤は、日を追うごとに激しくなっていった。
これは メッセージ 102126 (sofiansky2003 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143583/beaec0tbcsaja4nkacdaba4h2ddbja4ka4da4a4a4fa1ya1ya1ya1ya1y_1/102128.html