金容淳死亡と金正日体制の未来⑦
投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2004/01/19 06:46 投稿番号: [102129 / 232612]
呉振宇、交通事故で長期間、外国で療養
金正日は呉振宇との戦いで戦略を変えた。『遠からず呉克烈が呉振宇を押し出し、人民武力部長になるだろう』という風聞を軍部内に流布させ、呉振宇が極度に焦燥するよう仕向けたのである。ところがある日、彼が退勤し家に帰ってくると、夫人が嬉しそうに迎え出て、庭に以前になかった二台の車を見せた。光沢がぴかぴかするアメリカ製フォードとドイツ製のベンツ450であった。
「親愛する指導者同志が、昼夜を問わず苦労される貴方を慰労するために贈られたプレゼントです」
あまりにも驚くべきことであった。その後、金正日は呉振宇に豪華住宅を建ててやり、喜び組の秘密パーティーにもきちんと招待した。こうして呉振宇は「幼い牧童が手綱を引く、痩せた一匹の老いた牛」となったのである。喜び組のパーティーでは呉振宇が最も高齢の参加者であり、さまざまな人が薦める酒に常に満酔して家に帰った。
1987年春、夜遅くまで秘密パーティーで酒を飲み泥酔した呉振宇は直接、車を運転して家に帰ったのだが、街路灯に衝突し重傷を負った。彼は夜明けに発見されて病院に移されたのだが、昏睡状態から意識を回復せず、頭蓋骨は割れて数本の肋骨が折れていた。国内で治療が可能かどうかの可否を問わず、金日成は自分の専用機で呉振宇を麻酔状態のままモスクワに送った。モスクワでは彼を東ドイツに移送し、数カ月間の治療の末に彼を回復させた。
泥酔した71才の老人に車を直接運転させ、夜道に警護員もないまま家に帰したというのは理解できないことだ。この交通事故の奥底に、彼を害するための故意性があったのかどうかは確かめる方法がないのだが、そのときの事情をさらに説明すれば次の通りである。
1986年から金正日は、自分の側近たちに別途にベンツ280型一台ずつを支給した。車のナンバープレートは一律に同じだった。自分の誕生日を意味する216-9999、後に216-5555も変わった。しかし必ず守るべき二つの条件があった。金正日が私的に集まるよう呼ぶときには、必ずこの車を利用すること、そしてこの車は必ず本人が直接運転しなければならず、他の人は何人も乗ることができない、ということだ。恐らく彼らの乱雑かつわがままな私生活の秘密を守るために、そうしていたようである。
呉振宇が不在の間、金正日は呉克烈に人民武力部長と総政治局長の職務を代行させた。この短い期間に、呉克烈のリーダーシップが人民軍内で大きな人気を博し、作戦指揮官等の士気が上がったため、誰もが引き続き彼が人民武力部長となることを願った。彼の主張は、軍隊は戦闘指揮官が指揮するべきであり、政治軍官が自分の思い通りに動かしてはならない、ということであった。
再起不能と信じられていた呉振宇が松葉杖をついて平壌に帰ってきたとき、人民軍内部の状況が大きく変えられていることを見つけ、呉克烈の失策を金日成に報告した。彼は党の権威と政策を無視して、政治軍官たちの活動を制限したということである。そこで金正日の意図に反して、呉振宇は再び人民武力部長の席に復帰し、呉克烈は閑職である民防衛司令官へと左遷されたのである。
金正日は呉振宇との戦いで戦略を変えた。『遠からず呉克烈が呉振宇を押し出し、人民武力部長になるだろう』という風聞を軍部内に流布させ、呉振宇が極度に焦燥するよう仕向けたのである。ところがある日、彼が退勤し家に帰ってくると、夫人が嬉しそうに迎え出て、庭に以前になかった二台の車を見せた。光沢がぴかぴかするアメリカ製フォードとドイツ製のベンツ450であった。
「親愛する指導者同志が、昼夜を問わず苦労される貴方を慰労するために贈られたプレゼントです」
あまりにも驚くべきことであった。その後、金正日は呉振宇に豪華住宅を建ててやり、喜び組の秘密パーティーにもきちんと招待した。こうして呉振宇は「幼い牧童が手綱を引く、痩せた一匹の老いた牛」となったのである。喜び組のパーティーでは呉振宇が最も高齢の参加者であり、さまざまな人が薦める酒に常に満酔して家に帰った。
1987年春、夜遅くまで秘密パーティーで酒を飲み泥酔した呉振宇は直接、車を運転して家に帰ったのだが、街路灯に衝突し重傷を負った。彼は夜明けに発見されて病院に移されたのだが、昏睡状態から意識を回復せず、頭蓋骨は割れて数本の肋骨が折れていた。国内で治療が可能かどうかの可否を問わず、金日成は自分の専用機で呉振宇を麻酔状態のままモスクワに送った。モスクワでは彼を東ドイツに移送し、数カ月間の治療の末に彼を回復させた。
泥酔した71才の老人に車を直接運転させ、夜道に警護員もないまま家に帰したというのは理解できないことだ。この交通事故の奥底に、彼を害するための故意性があったのかどうかは確かめる方法がないのだが、そのときの事情をさらに説明すれば次の通りである。
1986年から金正日は、自分の側近たちに別途にベンツ280型一台ずつを支給した。車のナンバープレートは一律に同じだった。自分の誕生日を意味する216-9999、後に216-5555も変わった。しかし必ず守るべき二つの条件があった。金正日が私的に集まるよう呼ぶときには、必ずこの車を利用すること、そしてこの車は必ず本人が直接運転しなければならず、他の人は何人も乗ることができない、ということだ。恐らく彼らの乱雑かつわがままな私生活の秘密を守るために、そうしていたようである。
呉振宇が不在の間、金正日は呉克烈に人民武力部長と総政治局長の職務を代行させた。この短い期間に、呉克烈のリーダーシップが人民軍内で大きな人気を博し、作戦指揮官等の士気が上がったため、誰もが引き続き彼が人民武力部長となることを願った。彼の主張は、軍隊は戦闘指揮官が指揮するべきであり、政治軍官が自分の思い通りに動かしてはならない、ということであった。
再起不能と信じられていた呉振宇が松葉杖をついて平壌に帰ってきたとき、人民軍内部の状況が大きく変えられていることを見つけ、呉克烈の失策を金日成に報告した。彼は党の権威と政策を無視して、政治軍官たちの活動を制限したということである。そこで金正日の意図に反して、呉振宇は再び人民武力部長の席に復帰し、呉克烈は閑職である民防衛司令官へと左遷されたのである。
これは メッセージ 102128 (sofiansky2003 さん)への返信です.