小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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金容淳死亡と金正日体制の未来⑤

投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2004/01/19 06:16 投稿番号: [102126 / 232612]
金正日、交通事故で南一副総理を暗殺

1954年生まれである異母兄弟の金平日は、父に似てハンサムで性格も円満、叔父の金英柱をはじめとする革命第一世代元老たちの好感を得て、権力後継者にしてはどうかとさかんに議論された。彼らは金平日を見れば、金日成の若い頃を見ているようだ、と大変喜んだのである。

金平日が平壌の南山高級中学校(高等学校)に通う頃、彼の成績は同校出身である兄の金正日より道徳、一般学科、芸術、体育などあらゆる面ではるかに優れていた。そのため、この学校の卒業生たちと教師たちはいつも、金平日を金正日より高く評価し、金日成の後継者であると信じていた。

この事実を察知した金正日は、南山学校のあらゆる学士記録を消滅するために下手人を向かわせて、その学校を爆破したことはあまりにも有名な話である。金正日が後継者として党の公認を得た以後にも、継母の金聖愛と異母兄弟の金平日、金英一、金敬珍を「小枝」と呼んでは徹底的に孤立させ、国内での権力基盤構築の機会を遮断するために常時、海外に追い出していた。

金平日は現在、駐ポーランド大使でありながら、息を殺して姿の見えない多くの眼に監視されて生活している。金正日の「殺生リスト」の最初のページには、南一と呉振宇も載っていた。南一は金日成より2歳年下の1914年生で、タシュケント師範大を卒業後、ソ連軍将校として任官され、1942年には陸軍大尉となった。

1945年にスターリンの密命を受け、金日成を助けるために平壌にやってきた。建国当初に外相を経て、1953年の休戦協定から人民軍大将となり、北朝鮮側を代表して休戦協定に調印した。彼はその後、党政治局委員、副首相など要職を辿り、1972年には副総理兼軽工業委員会委員長となった。彼も金正日の権力継承を強く反対した人々のひとりであったが、彼がソ連の市民権をもつ二重国籍者であったためモスクワを意識し、むやみに扱うことができなかった。

1976年3月はじめ、南一副総理が平南・安州にある石油化学工場建設へ視察のために向かったとき、その田舎の未舗装の狭い道に、工場建設とは何の関係もない大型トラックが突然現れ、南一が乗った乗用車と衝突して南一が即死、1976年3月7日の労働新聞に「南一副総理は思いがけない交通事故で死亡した」という短い記事を残し、金正日の「殺生リスト」から彼の名前が消されたのである。

この事件のまさに直後、金正日は当時の絶対追従者のひとりである人民軍総政治局長・李用茂大将に指示し、人民武力部総参謀長・呉振宇を監視し、不正を摘発して「南一と同じ運命を迎えるようにしよう」とした。金正日が呉振宇を特別に警戒した理由は、彼が父、金日成の信任を得た革命第一世代のうち、最も影響力のある人物であり、自分をいつも子ども扱いしたため、常に自分の前にある「巨大な障害物」と見なしたのである。

より一層彼を不安にしたのは、呉振宇が金聖愛と彼女の弟、金ソンガプと親しくしていたため、彼を金平日の強力な背景と考えたためである。
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