ハワイ王朝の落日 2
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/02/09 19:42 投稿番号: [58 / 402]
「カラカウア王の申し出に対する日本側の回答は、日本の皇族は、外国王族との婚儀の前例がないという理由で辞退した。また、東洋連盟の件も、西南戦争の余韻がまだくすぶっており、当時の日本の国際的地位から言っても、考慮の余地がないとして拒絶した。
山階宮とカイウラニ王女との婚姻話は、資料によっては、『太平洋のロマンス』などと持ち上げたのもあるが、当時皇女はまだ6歳の幼女であり、御互い同士もまったく合間見えることもなく、相思相愛ということではもちろんなかった。それだけではなく、話を聞かされたカイウラニ王女自身は、この政略結婚にはまったく反対だったのである。彼女がイギリス留学中に、リリウオカラニ女王からのたびたびの問い合わせの手紙に対する返事には『御申越しの、日本のある皇子と私の結婚については熟慮いたしましたが、それが絶対的に必要であるというのでない限り、私は受け入れ得ません。(中略)愛していない方と結婚することは間違ったことで、私は決して幸福にはなれませず、二人は融和できないだろうと信じます』と明確に述べている。(ちなみに彼女の父親はスコットランド系)
「カラカウア王は日本訪問を果たして、天皇の現人神ぶりと国民の天皇信仰と『国家』ぶりを見て、帰国後は自分は神の子孫である・・とさかんに言い始めた。その裏づけとして神の子の王としての威厳を確立するために、大金を投じた戴冠式を全島をあげて挙行した。
その後カラカウア王はサモアを従属させ、ハワイ帝国建設を夢見たが実現せず、91年、失意のうちに亡くなった。享年55歳。
兄王カラカウアの後を継いだリリウオカラニ女王は、齢すでに50歳を越していた。彼女の政治思想は、兄上よりさらに強硬な君主絶対権の保持者だった。
個人的には文学に造詣が深く、詩歌を詠み、とくに音楽好きで、その手になったと伝えられる楽譜は100以上に及び、なかでも名曲アロハオエは歌詞、楽譜ともに女王作と言われる。
外来の諸勢力を抑え、ハワイ王国の独立を強化するには、何よりも王権を拡張し、決断実行のほかなしと決意した女王は、即位当初から、アメリカ色の濃い現行憲法を廃してカメハメハ三世の憲法に則るべきであると政変の機をうかがっていた。」
王国の存亡の秋、その復元を目指す英雄がやっと顕れたかに見え、女王を支持する現地民中心の王党派は大い意気が上がるが、所詮落陽を押し止められる者など居ようか、ハワイ王朝は長い影を引きずりながら南海に没することになる。
「アメリカ人支配の人民党は女王の専制的政策とその態度に激昂し、女王を廃して臨時政府を樹立することを画策した。
王党派も善後策を協議し、政庁は女王の軍隊によって固められたが、群集は潮のように殺到し、街も騒然として来た。
折も折りホノルル港には、アメリカ艦隊司令長官のスカーレット少将指揮の旗艦ボストン号とモヒカン、アリアンスの三艦が停泊中だったが、アメリカ居留民保護の名の下に、ボストン号から武装した水兵162名を上陸させた。彼ら陸戦隊は、王宮と議場の周辺を示威行進し、背後のアメリカ艦隊の三艦もまた砲門を一斉に王宮に向けて威嚇したので、人民党の意気はますます上がった。
1893年1月17日、人民党は無血で議会を占拠して宣誓書を朗読、ハワイ王朝の終わりを宣言した。
そしてアメリカ合衆国の保護による臨時政府成立と、合衆国と交渉して合併条約の締結されるまで(その保護を)継続するものであることを発表した。
いっぽう王党は武力で臨時政府を転覆する手段に出た。
94年暮れ、ひそかにサンフランシスコから多量の武器弾薬を輸入して戦闘準備を整え、翌年1月6日ダイヤモンドヘッドの麓に集合した。
計画では、まず深夜に乗じて政府本拠を襲撃し、市中に散在する同士はこれを合図に電灯電話会社の本部を破壊して、一挙に政府を占領する・・。
だが、この計画は当局の知るところとなり、ダイヤモンドヘッド麓の本部は警官隊に襲撃されて焼き払われ、市中は厳重な守備隊が蟻の這い出る隙間もないほどに固められた。当夜あちこちで小競り合いがあり数名の犠牲者を出しただけで、王党派の計画はまったくの水泡に帰した。
女王は囚われの身となり王宮に幽閉された。王政復古の夢を断たれた女王は、無念をかこちつつ、王権放棄と臨時協和政府に対して服従の誓いをした。
ここにおいて、ハワイ王朝は完全に滅亡する。
山階宮とカイウラニ王女との婚姻話は、資料によっては、『太平洋のロマンス』などと持ち上げたのもあるが、当時皇女はまだ6歳の幼女であり、御互い同士もまったく合間見えることもなく、相思相愛ということではもちろんなかった。それだけではなく、話を聞かされたカイウラニ王女自身は、この政略結婚にはまったく反対だったのである。彼女がイギリス留学中に、リリウオカラニ女王からのたびたびの問い合わせの手紙に対する返事には『御申越しの、日本のある皇子と私の結婚については熟慮いたしましたが、それが絶対的に必要であるというのでない限り、私は受け入れ得ません。(中略)愛していない方と結婚することは間違ったことで、私は決して幸福にはなれませず、二人は融和できないだろうと信じます』と明確に述べている。(ちなみに彼女の父親はスコットランド系)
「カラカウア王は日本訪問を果たして、天皇の現人神ぶりと国民の天皇信仰と『国家』ぶりを見て、帰国後は自分は神の子孫である・・とさかんに言い始めた。その裏づけとして神の子の王としての威厳を確立するために、大金を投じた戴冠式を全島をあげて挙行した。
その後カラカウア王はサモアを従属させ、ハワイ帝国建設を夢見たが実現せず、91年、失意のうちに亡くなった。享年55歳。
兄王カラカウアの後を継いだリリウオカラニ女王は、齢すでに50歳を越していた。彼女の政治思想は、兄上よりさらに強硬な君主絶対権の保持者だった。
個人的には文学に造詣が深く、詩歌を詠み、とくに音楽好きで、その手になったと伝えられる楽譜は100以上に及び、なかでも名曲アロハオエは歌詞、楽譜ともに女王作と言われる。
外来の諸勢力を抑え、ハワイ王国の独立を強化するには、何よりも王権を拡張し、決断実行のほかなしと決意した女王は、即位当初から、アメリカ色の濃い現行憲法を廃してカメハメハ三世の憲法に則るべきであると政変の機をうかがっていた。」
王国の存亡の秋、その復元を目指す英雄がやっと顕れたかに見え、女王を支持する現地民中心の王党派は大い意気が上がるが、所詮落陽を押し止められる者など居ようか、ハワイ王朝は長い影を引きずりながら南海に没することになる。
「アメリカ人支配の人民党は女王の専制的政策とその態度に激昂し、女王を廃して臨時政府を樹立することを画策した。
王党派も善後策を協議し、政庁は女王の軍隊によって固められたが、群集は潮のように殺到し、街も騒然として来た。
折も折りホノルル港には、アメリカ艦隊司令長官のスカーレット少将指揮の旗艦ボストン号とモヒカン、アリアンスの三艦が停泊中だったが、アメリカ居留民保護の名の下に、ボストン号から武装した水兵162名を上陸させた。彼ら陸戦隊は、王宮と議場の周辺を示威行進し、背後のアメリカ艦隊の三艦もまた砲門を一斉に王宮に向けて威嚇したので、人民党の意気はますます上がった。
1893年1月17日、人民党は無血で議会を占拠して宣誓書を朗読、ハワイ王朝の終わりを宣言した。
そしてアメリカ合衆国の保護による臨時政府成立と、合衆国と交渉して合併条約の締結されるまで(その保護を)継続するものであることを発表した。
いっぽう王党は武力で臨時政府を転覆する手段に出た。
94年暮れ、ひそかにサンフランシスコから多量の武器弾薬を輸入して戦闘準備を整え、翌年1月6日ダイヤモンドヘッドの麓に集合した。
計画では、まず深夜に乗じて政府本拠を襲撃し、市中に散在する同士はこれを合図に電灯電話会社の本部を破壊して、一挙に政府を占領する・・。
だが、この計画は当局の知るところとなり、ダイヤモンドヘッド麓の本部は警官隊に襲撃されて焼き払われ、市中は厳重な守備隊が蟻の這い出る隙間もないほどに固められた。当夜あちこちで小競り合いがあり数名の犠牲者を出しただけで、王党派の計画はまったくの水泡に帰した。
女王は囚われの身となり王宮に幽閉された。王政復古の夢を断たれた女王は、無念をかこちつつ、王権放棄と臨時協和政府に対して服従の誓いをした。
ここにおいて、ハワイ王朝は完全に滅亡する。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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