ハワイ王朝の落日
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/02/06 19:49 投稿番号: [57 / 402]
ハワイ諸島に群居した部族を統一したのはカメハメハ一世だ。しかしその統一はアメリカ人の軍事的助勢があってのことである。したがって後のアメリカによるハワイ王国の併合は必然であったともいえる。植民地主義者は、現地の不平を持つ部族に肩入れし他方を撃つという手法を駆使した。アステカを滅ぼしたスペイン、インドを蹂躙したイギリス、フィリッピンを殺戮したアメリカ、みな一緒である。
日本の歴史上、外国の兵力を持って国内を統一しようと試みた者が一人だけいる。東北の雄伊達正宗だ。
この魅力的な戦国大名は遠くスペインに使いを出し、一緒に日本国を統治しようと懇願する。今で言う外患罪が成立する。意外に問題にされていないが、独眼竜の許されざる一面をきちっと抑えるべきだと思う。
「太平洋のナポレオンの異名を持ったカメハメハ一世(大王)が、ハワイ島の北端コハラから立ち、1796年に群雄割拠のハワイ統一の偉業を為してハワイ王朝を築いた後も、外国から幾度もその独立を脅かされた。カメハメハ一世もかって一度ハワイをイギリスの保護下に置くことを交渉し(そのような因縁からハワイ州旗は、ユニオンジャックに極似している)、下って1839年カメハメハ三世時代には、ハワイは一時フランス軍艦に占領されたことがある。
20年カメハメハ二世時代に、アメリカ人宣教師の一団が渡来してからアメリカ人の勢力は年を追って強くなった。ハワイ王朝の王権は漸次衰退に傾いて、ハワイ人の人口も漸減のカーブを描いた。」
白人が持ち込んだ疫病によって人口自体が激減し、主要産業の甘蔗栽培は米本土の農業主に牛耳られていたハワイ王朝は、この劣勢を一気に挽回しようと日本の天皇家との婚姻を画策する。
「戦前日本人が多数居留していた中国の上海を、在留邦人は『日本国上海県』などと呼んだが、ハワイの日系古老のなかには、日系人黄金時代を向かえた今日「ここは、日本国ハワイ県ですよ」などと冗談まじりに言う人がいる。
だが、第七代の王位を継承したディヴィット・カラカウアが意図した王姪カイウラニ王女と、日本皇族の山階宮定麿(のちの元帥・海軍大将東伏見宮依仁)との結婚が成立し、日本・ハワイ提携がなされていたならば、『日本国ハワイ県』があるいは成立し、『日の丸』とハワイ王朝旗「ハエ・ハワイ」がハワイの空に翻っていたかもしれない。
国王カラカウアは、随行員三名を従えて、1881年(明治14年)忍びの姿で、世界漫遊の途に出た。王の旅行目的は、日本もしくはロシアとむすび、アメリカによる併合を免れ、ハワイの独立を保とうということ、ハワイ民族の衰亡を防ぐために勤勉で生活力旺盛な他民族の血を移入し、移民をしたいこと、さらに世界一周をとげた最初の王になりたい・・・であった。
だが、なんと言っても王の最大目的は日本訪問にあった。81年、追う一行を乗せた米国郵船は、サンフランシスコから横浜港に入港した。(在ハワイ日本領事から連絡を受けた明治政府は)埠頭には、二品嘉彰親王以下接伴係が出迎え、陸軍軍楽隊はハワイ国歌『ハワイ・ポノイ』を奏楽し、忍びの一行を大いに驚かせた。
王は明治天皇と会い二つの提案をした。一つは、王姪カイウラニ成人後の配偶者として、山階宮定麿親王を皇婿として迎えたいこと、他の一つは、日本を中心とした東洋連盟を組織し、これによってアメリカへの合併吸収を免れたい・・・という提議である。
随員のアームストロングは次のように記録している。
『カラカウア王は、ポリネシア族としての特殊な考え方からして、日本皇室とハワイ王族との間に婚姻関係を成立しようと計画せられたのである。
王は、アメリカ合衆国が近い将来においてハワイ王国を征服するかもしれないという危惧感を抱いておられた。それゆえに王姪にして王嗣たるカイウラニ王女と、日本皇室との御婚戚を図り、その結果として日本政府の勢力を惹き入れ、アメリカ合衆国のハワイ合併運動を押えようとされたのである。(中略)日本皇帝は王の懇請をまじめに聴取されたが、事は重大であり、日本に慣例のないことであるから、熟考の上答えるだろうといわれた』
ハワイがアメリカに吸収合併されたのち作家のジャクソン・ロンドンも、コスモポリタン誌にこの物語を発表して、全米にちょっとしたセンセイションを巻き起こした。
日本の歴史上、外国の兵力を持って国内を統一しようと試みた者が一人だけいる。東北の雄伊達正宗だ。
この魅力的な戦国大名は遠くスペインに使いを出し、一緒に日本国を統治しようと懇願する。今で言う外患罪が成立する。意外に問題にされていないが、独眼竜の許されざる一面をきちっと抑えるべきだと思う。
「太平洋のナポレオンの異名を持ったカメハメハ一世(大王)が、ハワイ島の北端コハラから立ち、1796年に群雄割拠のハワイ統一の偉業を為してハワイ王朝を築いた後も、外国から幾度もその独立を脅かされた。カメハメハ一世もかって一度ハワイをイギリスの保護下に置くことを交渉し(そのような因縁からハワイ州旗は、ユニオンジャックに極似している)、下って1839年カメハメハ三世時代には、ハワイは一時フランス軍艦に占領されたことがある。
20年カメハメハ二世時代に、アメリカ人宣教師の一団が渡来してからアメリカ人の勢力は年を追って強くなった。ハワイ王朝の王権は漸次衰退に傾いて、ハワイ人の人口も漸減のカーブを描いた。」
白人が持ち込んだ疫病によって人口自体が激減し、主要産業の甘蔗栽培は米本土の農業主に牛耳られていたハワイ王朝は、この劣勢を一気に挽回しようと日本の天皇家との婚姻を画策する。
「戦前日本人が多数居留していた中国の上海を、在留邦人は『日本国上海県』などと呼んだが、ハワイの日系古老のなかには、日系人黄金時代を向かえた今日「ここは、日本国ハワイ県ですよ」などと冗談まじりに言う人がいる。
だが、第七代の王位を継承したディヴィット・カラカウアが意図した王姪カイウラニ王女と、日本皇族の山階宮定麿(のちの元帥・海軍大将東伏見宮依仁)との結婚が成立し、日本・ハワイ提携がなされていたならば、『日本国ハワイ県』があるいは成立し、『日の丸』とハワイ王朝旗「ハエ・ハワイ」がハワイの空に翻っていたかもしれない。
国王カラカウアは、随行員三名を従えて、1881年(明治14年)忍びの姿で、世界漫遊の途に出た。王の旅行目的は、日本もしくはロシアとむすび、アメリカによる併合を免れ、ハワイの独立を保とうということ、ハワイ民族の衰亡を防ぐために勤勉で生活力旺盛な他民族の血を移入し、移民をしたいこと、さらに世界一周をとげた最初の王になりたい・・・であった。
だが、なんと言っても王の最大目的は日本訪問にあった。81年、追う一行を乗せた米国郵船は、サンフランシスコから横浜港に入港した。(在ハワイ日本領事から連絡を受けた明治政府は)埠頭には、二品嘉彰親王以下接伴係が出迎え、陸軍軍楽隊はハワイ国歌『ハワイ・ポノイ』を奏楽し、忍びの一行を大いに驚かせた。
王は明治天皇と会い二つの提案をした。一つは、王姪カイウラニ成人後の配偶者として、山階宮定麿親王を皇婿として迎えたいこと、他の一つは、日本を中心とした東洋連盟を組織し、これによってアメリカへの合併吸収を免れたい・・・という提議である。
随員のアームストロングは次のように記録している。
『カラカウア王は、ポリネシア族としての特殊な考え方からして、日本皇室とハワイ王族との間に婚姻関係を成立しようと計画せられたのである。
王は、アメリカ合衆国が近い将来においてハワイ王国を征服するかもしれないという危惧感を抱いておられた。それゆえに王姪にして王嗣たるカイウラニ王女と、日本皇室との御婚戚を図り、その結果として日本政府の勢力を惹き入れ、アメリカ合衆国のハワイ合併運動を押えようとされたのである。(中略)日本皇帝は王の懇請をまじめに聴取されたが、事は重大であり、日本に慣例のないことであるから、熟考の上答えるだろうといわれた』
ハワイがアメリカに吸収合併されたのち作家のジャクソン・ロンドンも、コスモポリタン誌にこの物語を発表して、全米にちょっとしたセンセイションを巻き起こした。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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