ハワイ王朝の落日 3
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/02/11 17:37 投稿番号: [59 / 402]
『その後アメリカ合衆国とハワイとの合併問題は、多くの屈折を見せた。1898年4月、合衆国は、キューバの問題からついにイスパニアと戦端を開くことになった。当時フィリッピン群島もまた同国の勢力下にあったので、香港で宣戦布告のほうを受け取った米国海軍は時を移さず艦隊でマニラ湾に進攻し、わずか数時間で占領してしまった。
以来アメリカ艦隊は、本土における太平洋沿岸の根拠地とマニラを往来して、その連絡を保たなければならなかった。
当時オアフ島の真珠湾は、すでにアメリカ海軍の一根拠地として使用されていたが、東洋への足がかりとして、ますますその重要性を増したのであった。」
「93年にハワイ王朝が倒されたとき日本政府はこれに対して何らの抗議も試みなかったが、98年合衆国大統領がハワイ合併案に署名し、いよいよ合併条約が成立するに及ぶや、強硬な抗議をアメリカ政府にした。
1984−5年は『日清戦役』の最中で、他を顧みるいとまがなく、その「勝利」の結果『アジアにおける先進国』の地位を得た『大日本帝国』は、『米布合併』におよぶのを見て、強硬態度に出たのである。
日本政府の抗議は次の2点であった。
一、 米布合併は、太平洋上の現状を失い、将来国際関係に困難を来たす恐れがある。
一、 米布合併は、米哇における日本臣民の権利に抵触する。
このときハワイ政府は移民法に抵触するとして約1,000人の日本人の上陸を拒絶するという事件が起こった。
日本政府は条約違反を盾に強硬に抗議をし、その損賠賠償を要求した。
ハワイ政府は日本政府の要求を容れ、75,000ドルを支払い、ようやく移民上陸拒絶問題にカタをつけた。いっぽうハワイが合衆国と合併しないでいれば、ついには日本の植民地になってしまうだろうという噂も流れ、これがアメリカを刺激して合併成立が早まったとする説もある。」
「いっぽう、「明治政府は『居留民保護』を名目の下に、軍艦浪速を派遣した。
2月8日横須賀を出向した軍艦浪速が、「帝国海軍」の象徴たる極日旗を翻しながらホノルル港外にその姿を現したのは、カメハメハ王朝滅亡の日から数えて1ヶ月と7日目の2月23日午前11時を少々まわった頃であった。その時ハワイ仮政府は、アメリカ合衆国の保護を受けていたので政庁屋上には合衆国国旗を掲げていたが、軍艦浪速は、あたかもそれに抗議するかのように2,3発空砲を放った。
軍艦からの威嚇砲に周章狼狽した仮政府は、急いで合衆国国旗に変えてハワイ国旗を掲揚すると、浪速艦は満足の意を示しつつ、礼砲21発を放ちながら、当時練習艦として入港していた軍艦金剛とアメリカ軍艦ボストン号との間に停泊した。
政庁屋上の国旗を合衆国からハワイ国に変えさせた軍艦浪速に対して、当時人口の9割を占めていたハワイ人は、自らの政権を取り戻すための来航と思い、群れをなして海岸に殺到した。また「在留邦人」はその『英姿』に熱狂し、『万歳!』を連呼した。
軍艦浪速の艦長は、当時47歳の東郷平八郎大佐であり、カラカウア王が縁談を申し入れたという山階宮も海軍少尉として乗り込んでいた。そのときの軍艦浪速は、強くハワイ人に印象づけられ、彼らのなかには、その年に生まれた子供にナニワとか、トーゴーと命名した者も多かった。」
しかし、日本政府にできることはここまでであった。
神話時代の漂着人を日本人に比定するなど、倭人にそこはかとなく好意を寄せ、日本皇室との婚姻を望み兄弟国になろうとしたカメハメハ・ハワイ統一王朝は、百年余の歴史を永遠に閉じることになった。
現在百数十万の人口のハワイ州に、『ハワイ人住宅寄託法』で定められた、キャプテン・クック以来50%以上の血を引き継ぐ純粋ハワイ人は10万人ほどで、漸減の一途を辿っている。
ハワイで見かけるポリネシア人は、アメリカによる合併後サモアなど西方の諸島から移住してきた人が多い。小錦、曙などもそうだ。
とは言っても、先住のハワイ人といえども元々西方諸島から移り住んだ人たちだ。われわれは見分けもつかないし、同一民族といってもいいのだろう。ただし、やはりサモアやトンガなど、人々は出身地ごとに群居するようだし、お互いに関わりあっているように見えない。これは、西洋人から見た日中韓の東アジア人と同一のものなのであろうか。
『民族』という意義はどこまで拡大、もしくは縮小して捉えられるのか、考えさせられる問題ではある。
以来アメリカ艦隊は、本土における太平洋沿岸の根拠地とマニラを往来して、その連絡を保たなければならなかった。
当時オアフ島の真珠湾は、すでにアメリカ海軍の一根拠地として使用されていたが、東洋への足がかりとして、ますますその重要性を増したのであった。」
「93年にハワイ王朝が倒されたとき日本政府はこれに対して何らの抗議も試みなかったが、98年合衆国大統領がハワイ合併案に署名し、いよいよ合併条約が成立するに及ぶや、強硬な抗議をアメリカ政府にした。
1984−5年は『日清戦役』の最中で、他を顧みるいとまがなく、その「勝利」の結果『アジアにおける先進国』の地位を得た『大日本帝国』は、『米布合併』におよぶのを見て、強硬態度に出たのである。
日本政府の抗議は次の2点であった。
一、 米布合併は、太平洋上の現状を失い、将来国際関係に困難を来たす恐れがある。
一、 米布合併は、米哇における日本臣民の権利に抵触する。
このときハワイ政府は移民法に抵触するとして約1,000人の日本人の上陸を拒絶するという事件が起こった。
日本政府は条約違反を盾に強硬に抗議をし、その損賠賠償を要求した。
ハワイ政府は日本政府の要求を容れ、75,000ドルを支払い、ようやく移民上陸拒絶問題にカタをつけた。いっぽうハワイが合衆国と合併しないでいれば、ついには日本の植民地になってしまうだろうという噂も流れ、これがアメリカを刺激して合併成立が早まったとする説もある。」
「いっぽう、「明治政府は『居留民保護』を名目の下に、軍艦浪速を派遣した。
2月8日横須賀を出向した軍艦浪速が、「帝国海軍」の象徴たる極日旗を翻しながらホノルル港外にその姿を現したのは、カメハメハ王朝滅亡の日から数えて1ヶ月と7日目の2月23日午前11時を少々まわった頃であった。その時ハワイ仮政府は、アメリカ合衆国の保護を受けていたので政庁屋上には合衆国国旗を掲げていたが、軍艦浪速は、あたかもそれに抗議するかのように2,3発空砲を放った。
軍艦からの威嚇砲に周章狼狽した仮政府は、急いで合衆国国旗に変えてハワイ国旗を掲揚すると、浪速艦は満足の意を示しつつ、礼砲21発を放ちながら、当時練習艦として入港していた軍艦金剛とアメリカ軍艦ボストン号との間に停泊した。
政庁屋上の国旗を合衆国からハワイ国に変えさせた軍艦浪速に対して、当時人口の9割を占めていたハワイ人は、自らの政権を取り戻すための来航と思い、群れをなして海岸に殺到した。また「在留邦人」はその『英姿』に熱狂し、『万歳!』を連呼した。
軍艦浪速の艦長は、当時47歳の東郷平八郎大佐であり、カラカウア王が縁談を申し入れたという山階宮も海軍少尉として乗り込んでいた。そのときの軍艦浪速は、強くハワイ人に印象づけられ、彼らのなかには、その年に生まれた子供にナニワとか、トーゴーと命名した者も多かった。」
しかし、日本政府にできることはここまでであった。
神話時代の漂着人を日本人に比定するなど、倭人にそこはかとなく好意を寄せ、日本皇室との婚姻を望み兄弟国になろうとしたカメハメハ・ハワイ統一王朝は、百年余の歴史を永遠に閉じることになった。
現在百数十万の人口のハワイ州に、『ハワイ人住宅寄託法』で定められた、キャプテン・クック以来50%以上の血を引き継ぐ純粋ハワイ人は10万人ほどで、漸減の一途を辿っている。
ハワイで見かけるポリネシア人は、アメリカによる合併後サモアなど西方の諸島から移住してきた人が多い。小錦、曙などもそうだ。
とは言っても、先住のハワイ人といえども元々西方諸島から移り住んだ人たちだ。われわれは見分けもつかないし、同一民族といってもいいのだろう。ただし、やはりサモアやトンガなど、人々は出身地ごとに群居するようだし、お互いに関わりあっているように見えない。これは、西洋人から見た日中韓の東アジア人と同一のものなのであろうか。
『民族』という意義はどこまで拡大、もしくは縮小して捉えられるのか、考えさせられる問題ではある。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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