南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実
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wadatumi_voice21の珍論の奥にあるもの
投稿者: newdendenmaru2 投稿日時: 2012/12/27 18:10 投稿番号: [28903 / 29399]
相も変わらずお馬鹿投稿を繰り返す wadatumi_voice21なる反日バカサヨが以前、こんな珍論を披歴していた。
↓
『他国を
武力を用いて
攻撃・占領するためには、
少なくとも
「軍事力の脅威を排除する」という口実が必要だ。
軍事力を持たない日本には
「脅威」は
存在し得ない。』
by wadatumi_voice21
日本には軍事力がないんだそうなww
笑いを止めるのに苦労するが、笑ってばかりもいられない。
なにせこのバカは「本気で言っている」のだから・・・・
なぜこのようなバカげた珍論を大真面目に語るのか?
それは、wadatumi_voice21をはじめとする頭空っぽのバカサヨが「念仏平和主義者」であるからに他ならない。
例えば日本がどこかの国に攻められる。そして占領される。そして「日本国憲法」が停止されるということは、世界の歴史を見れば、充分に考えられることである。するとそういうことがないようにはどうすればいいかというと、当たり前の話だが、そのための軍隊を持っておく。つまり憲法を護るための軍隊を持っておくということである。これはバカ以外は当然そう考えるから、どこの国でもちゃんと憲法に規定された軍隊がある。永世中立国といわれるスイスにもある。いや、むしろ自前のしっかりした軍隊があるからこそ、永世中立を掲げることが出来るのである。ところがバカだけは、軍隊があると戦争を呼ぶんじゃないか。だからないほうがいい。しかしまったくないのも不安だから、軍隊とは呼ばずに「自衛隊」といおうと。内容でも変わっているのかというと、全然変わっていない。ただ、言葉で誤魔化しているだけである。
自衛隊は常識的に見れば、どこの国の誰が見ても、軍隊でる。しかし、軍隊といわずに自衛隊といおうと。日本には軍隊はないんだと安心する。だけど自衛隊はある。それで安心する。こういう奇妙な言葉の上での誤魔化しの二重構造の上にバカの論理(「日本に軍事力は無い」)は成り立っているのである。
「雨が降ると言えば雨が降るという世界」では、日本に軍隊はありませんといえば、無いんです。実際にはあっても、それはどう見ても軍隊じゃないかというものがあっても、言葉の上だけで打ち消しておけば、無いんです。そして、そのことによって安心する。
全くもって呆れ果てて屁も出ないとはこのことである。
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Re: 南京への道の兵站5
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/12/27 17:08 投稿番号: [28901 / 29399]
>↑十二月十二〜十三日頃食糧も弾薬も十分にあったんだね、師団(第十三師団)には。
「弾薬に乏しい日本軍が捕虜の処刑で弾薬を無駄にしたはずがない」というのが
馬鹿ウヨのよく言うセリフだがな(藁
これは メッセージ 28897 (nya**otyan*dam*n さん)への返信です.
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Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい
投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/27 15:38 投稿番号: [28900 / 29399]
>したがってキリスト教の根底にあるものは反人種差別。
で、キリスト教やユダヤ教、イスラームなどアブラハム系の宗教における「人」の区分基準は自分の宗教または宗派を信仰しているかどうか。
つまり、他宗教はもちろん他宗派である場合ですらも人としてみなされません。
教科書でも載っている十字軍や魔女狩り、宗教戦争などを少しでも理解していればわかりそうなものですけどね。
これは メッセージ 28896 (仁多 さん)への返信です.
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Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい
投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/27 15:32 投稿番号: [28899 / 29399]
>食糧は行軍しながらでも購入なり略奪なりして調達可能だろう。
日本軍が来る前に中国軍が南京周辺を焼き討ちしておりましたので現地調達は物理的に不可能ですが。
あと仮に原材料を購入なり略奪なりしたとしてもそれなりに調理なり加工なりされていないと食べれません。下手に食べれば食中毒なり起こして全滅ですし。
それとも購入ならまだしも略奪されたかたがたはわざわざ日本兵向けに調理なり加工なりしてくれたのですかねぇ。ご親切にも。
>しかしいくら食糧のない日本軍とはいえ、最低、武器弾薬くらいは持って南京まで進軍したんじゃないのか。
で、南京郊外で餓死なり野垂れ死にでもしたのかね?
これは メッセージ 28895 (仁多 さん)への返信です.
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Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい
投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/27 15:25 投稿番号: [28898 / 29399]
>治安を回復するために、とにかく誰彼かまわず虐殺してしまうということもな。
で、その命令書は?
>ま、これは仮説にすぎんが。
根拠もへったくりもない以上は仮とはいえ説でもないですけどね。
これは メッセージ 28894 (仁多 さん)への返信です.
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南京への道の兵站5
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/27 15:02 投稿番号: [28897 / 29399]
歩兵第百十六連隊
一.十二日午前八時次の宿営地に向かい出発午後四時十分連隊本部、第二大隊は諌壁鎮、連隊機関銃薛湾、歩兵砲は石頭、第一大隊は枯林に夫々宿営せり
一.十三日午前九時師団集結地鎮江に出発午後二時鎮江に到着し師団の指示により鎮江党部に宿営し次期作戦に備える為弾薬及び糧食の補給を行う
↑十二月十二〜十三日頃食糧も弾薬も十分にあったんだね、師団(第十三師団)には。
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Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/26 17:22 投稿番号: [28896 / 29399]
>>キリスト教の牧師は人種差別をしない。
>けど「キリスト教」誕生から現在進行形で宗教・宗派差別はしてますがね。
はい残念。
キリスト教はユダヤ教の人種差別を嫌って、イエスがユダヤ教の一分派として立ち上げた。
したがってキリスト教の根底にあるものは反人種差別。
これは メッセージ 28889 (rug*rug*12 さん)への返信です.
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Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/26 17:20 投稿番号: [28895 / 29399]
>>おまえ、日本軍が南京市民に餅をふるまったといってだろ。
>仮にそれがうそならば何十万の虐殺するほどの武器弾薬もない=物理的に虐殺は不可能となるのだが。
なにもわしは虐殺が事実だと確信を持つ者ではないが、
食糧は行軍しながらでも購入なり略奪なりして調達可能だろう。
しかしいくら食糧のない日本軍とはいえ、最低、武器弾薬くらいは持って南京まで進軍したんじゃないのか。
これは メッセージ 28890 (rug*rug*12 さん)への返信です.
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Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/26 17:17 投稿番号: [28894 / 29399]
>だったら、残党兵がうろうろし、治安が回復していないところで虐殺なんかしている暇があるわけないのだが
逆の考え方もあるだろう。
治安を回復するために、とにかく誰彼かまわず虐殺してしまうということもな。
ま、これは仮説にすぎんが。
これは メッセージ 28891 (rug*rug*12 さん)への返信です.
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南京への道の兵站4
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 14:29 投稿番号: [28893 / 29399]
上海派遣軍命令
昭和十二年十一月二十五日午後八時
於
滸浦鎮
一.軍は常州に迎脾摘を追撃中なり
二.兵站は第一線兵団推進の為逐次補給点を滸浦鎮−常熟−常州道竝に常熟
−江蔭−常州道に沿う地区に前進せしめんとす
水路補給輸送は臨時碇泊場司令官部之を担任す
三.滸浦鎮兵站司令官は先ず主力ヲ以て滸浦鎮に一部を以て常熟に位置し主
として集成騎兵隊第十三師団、重藤支隊及び第十六師団に対する補給に
任ずべし
警備区域は当分の間楅山−常熟水路以東滸浦鎮南北の線に亘る間とし一
部の兵力を以て碇泊場司令部の担任する水路輸送を直接警戒掩護すべし
特に楅山鎮は確実に占領するを要す
四.野戦道路構築隊は滸浦鎮−常熟道を自動車を通し得る如く応急保守すべ
し
五.兵站自動車第四十一中隊は主力ヲ以て前任務を続行すべし
六.野戦予備病院第十五班は主力を以て大吉丸雲陽丸にありて患者を収容す
ると共に一部を以て滸浦鎮に上陸し後送患者の受領保護に任ずべし
野戦予備病院第二十七班は速に主力を以て常熟に開設し患者の収容に任
ずべし
七.患者輸送部支部は第一線各兵団の患者後送に任ずべし
特に第十三師団と密接に連繋するを要す
八.第三兵站病馬廠は先ず常熟に開設し病馬の収容に任ずべし
九.第六師団後備歩兵第一大隊は常熟付近の警備に任ずべし
一〇.第六師団後備野砲兵第一中隊竝に第二師団後備工兵第一中隊は滸浦鎮
南側地区に集結待命すべし
野砲兵中隊は随時楅山及び梅李鎮方向を射撃し得る如く準備しあるを要
す
軍司令官
松井石根
下達法
印刷交付
↑兵站は順調に行われていたんだね、これを知らんのは中国軍くらいなものだろうね。
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南京への道の兵站3
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 13:48 投稿番号: [28892 / 29399]
12年11月12日
K方面揚陸計劃
一.中支碇泊場監部は配属揚陸作業をして当内上陸各兵団指揮官の区処を受
けしめ重藤支隊の先頭部隊を極めて秘密裏に奇襲上陸せしめ次いで各兵
団戦闘部隊を急速に揚陸す
二.爾後引続き後続部隊及軍需品を揚陸し且水路輸送を担任す
三.上陸根拠地を滸、浦口とし状況に依り白茆口に設定す
四〜六
省略
七.畑中部隊は直ちに所要の船艇を進水し重藤部隊の右翼隊及び左側支隊を
移乗せしめ13日午前2時出発海軍水雷艇嚮導の許に極めて隠密裡に上
陸點に向かい進行同午前五時三十分頃着岸上陸部隊を上陸せしむ
八.第一輸送戦隊は右第一回上陸部隊第一錨地発進後出発午前六時上陸點錨
地に至り投錨す
又第二輸送戦隊は第一輸送戦隊の中央後に又第16師団戦隊は其の左翼
に投錨す
九〜十省略
十一.上陸兵団の上陸進捗し海上の船艇を他に転用し得る状況に至れば畑中
部隊は歩兵約一大隊を乗艇せしめ得る船艇を各重藤部隊及中島部隊に交
付し第一線の推進に使すものとす其の時機は別命す
十二.畑中部隊は兵団揚陸中と雖も軍需品の到着せるに従い之を揚陸し兵站
に交付す又速に滸浦口状況に依り白茆口に根拠地を設定し上海より水路
輸送用の船艇の集合するに従い水路輸送を開始し弾薬糧秣を第一線に追
及せしむるものとす
十三〜二十省略
二十一.重藤支隊滸浦鎮(若しくは白茆口)を占領せば兵站と協力し時機を
失せず上陸拠点設定するべし
拠点設定要領■■■
(一)日々20噸軍需品を揚陸しこれを直ちに水路により前送し得るを
標準とす
(二)根拠地の設備程度及び強度は相当長期間(約二、三箇月)に亘る
ものとして設定するを要す
(三)警備に関しては重藤支隊と協定す
――――――――――――――――――――――−−−−−
上海派遣軍長江上流方面上陸に伴う後方計画案
一.兵站は兵団の上陸及び常熟無錫付近の戦闘に遺憾なからしむると共に戦
況の進展に伴う江蔭攻略南京向かう追撃に支障なからしむるを方針とす
二.兵団上陸地方面に補給所廠兵站部隊の一部を配置し後方業務の円滑を期
す
上陸方面に転用する兵站部隊別紙第一の如く其の上陸順序日次別紙第二
の如し
三.滸浦鎮若しくは白茆口を補給の基点とす
四.補給線は滸浦鎮(白茆口)−支塘鎮及び滸浦鎮(白茆口)−常熟−無錫
道に予定す
五.補給廠より有力なる部員を先遣せしむ
上陸当初は水上倉庫の形式に依り爾後速に陸上に集積す
六.弾薬
上陸部隊は務めて部隊装備を充実携行せしむ
野戦砲兵廠支廠には上陸第三日以降速に先ず三分の一会戦分を前送集積
す
弾薬の補給開始は上陸後4日以後とす
七.器材
上陸部隊には予め豊富に軽渡河材料を交付せり橋梁構築材料を前送す
八.糧秣
上陸部隊には五日分の糧秣を携行上陸せしむ
上陸第3日以降糧秣揚陸を開始し各隊に対する補給は各当該部隊の上陸
第4日より実施す
成る可く速に50師団分の糧秣を基点に集積す
特に地方物資の収集利用に努
九.輸送は水路及び兵站自動車中隊による
上陸当初は水路を主とし後兵站自動車中隊を揚陸す
十.此の方面に充当する船数は地方水船約七十(大40、小30)兵站自動
車約六中隊とす
以降省略
↑上記のように兵站はされていたんだね、中国軍は兵站がなかったようだね自国内でも。
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Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい
投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/26 10:47 投稿番号: [28891 / 29399]
>日本軍が迫ってきている切迫した状況のなかで、女性に迫る時間があるわけないだろ!
だったら、残党兵がうろうろし、治安が回復していないところで虐殺なんかしている暇があるわけないのだが
これは メッセージ 28856 (仁多 さん)への返信です.
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Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい
投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/26 10:46 投稿番号: [28890 / 29399]
>おまえ、日本軍が南京市民に餅をふるまったといってだろ。
仮にそれがうそならば何十万の虐殺するほどの武器弾薬もない=物理的に虐殺は不可能となるのだが。
これは メッセージ 28855 (仁多 さん)への返信です.
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Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい
投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/26 10:44 投稿番号: [28889 / 29399]
>キリスト教の牧師は人種差別をしない。
けど「キリスト教」誕生から現在進行形で宗教・宗派差別はしてますがね。
そして日本人の大半は非キリスト教徒どころか一神教が忌み嫌う多宗教の文化圏ですが。
これは メッセージ 28854 (仁多 さん)への返信です.
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南京への道の兵站2
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 09:45 投稿番号: [28888 / 29399]
補給用軍需品船舶輸送概見表(昭和十二年十一月二十三日)
糧食(新年用)
480噸
搭載日
十一月二十五〜三十日
揚陸日
十二月八〜十二日
糧食(新年用)
220噸
搭載日
十二月一〜三日
揚陸日
十二月六〜九日(大阪搭載)
糧食(新年用)
370噸
搭載日
十二月一〜三日
揚陸日
十二月六〜九日(広島搭載)
↑此以外に糧秣は十六回以上輸送されている。
又、もち20万瓩、糯米5万瓩が上海派遣軍に、餅12万瓩、糯米3万瓩が丁集団宛に送られている、昭和十二年十二月十五日。
これで食糧不足など起こる理由がない、これが歴史的事実である。
これは メッセージ 28875 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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南京への道の兵站
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 09:11 投稿番号: [28887 / 29399]
昭和12年8月16日付
上海派遣軍上陸直後用糧秣
一.軍艦輸送糧秣
軍艦に搭乗派遣せらる部隊に対しては其の兵額に応じ概ね二週間分の糧
食、燃料を海軍に於いて整備し上陸部隊に交付する如く協定しあるに付
受領の上補給用に充当せられたく
二.第一次軍隊輸送船下積み糧秣
第一次に輸送せらるる軍隊輸送船には別紙第二の糧秣中適宜下積として
搭載しあるに付き(船内糧秣残余共)揚陸後は補給用に充当せられ度
尚本件糧秣の処理業務援助の為陸軍糧秣廠より陸軍主計大尉石川廣一を
出張せしめらるるに付き派遣間貴軍に於いて区署し本業務を援助せしめ
られ度
(爾後は8月16日陸支密第313号の通り追送す)
下積糧秣交付区分
品目
乾麺麭
85,000瓩
携帯缶詰
19,000
携帯食塩
15,000
精米
960,000
精麦
250,000
尋常缶詰
94,000
同代用品
94,000
醤油エキス
5,000
醤油
34,000立
味噌
47,000瓩
乾物類
34,000
漬物類
50,000
木炭
120,000
大麦
800,000
干草
330,000
↑糧食の用意はしてあったんだね、これが史実だよ。
以降追送されているからね、糧秣は。
これは メッセージ 28875 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 南京への道(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:14 投稿番号: [28886 / 29399]
昭和一二、一一、二八 秘 電報 一一、二七 後五、〇一発 八、三〇着 上参三第二六四号 次官 兵站総監宛 上海派遣軍参謀長 陸支密第一七〇〇号及第一七七七号臨命 第五九三号ニ依ル第三次補給弾薬ハ少数 ノモノヲ除ク外到着済逐次揚陸中ナリ、 未到着ハ本日迄ノ調査ニ依レハ手榴弾ニ万二千重擲弾二千七百九二式歩兵砲弾五千 八百野砲榴弾七千十加、榴弾六百、十五加 榴弾二千八百ナルモ差当リ不足ヲ感スルモ ノナシ 三、目下丁集団行ノ弾薬ト当軍ノモノト混在 スルカ如キコトナシ 四、十一月十一日以降ノ射耗断数ハ本月三十日 迄ノ分ヲ一括シテ調査中ナルモ比較 的少数ナリト判断シアリ (終)
↑弾薬の兵站も順調なんだね。
これは メッセージ 28875 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 南京への道(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:08 投稿番号: [28885 / 29399]
昭和12年10月2日〜昭和12年10月7日
一、勤務ノ名称 陳家行及其東南地区ノ戦闘ニ於ケル輸送並ニ補給業務 二、期間 自昭和十二年十月八日至昭和十二年十月二十二日 三、師団ノ戦況経過ノ概要 別紙ノ如シ 四、連隊行動ノ概要 師団カ速ニ軍所命ノ線ニ進出センカ為ニ鋭意堅陣ヲ突破シツアル時連隊ハ師団ノ要求ニ応シ且師団ノ戦闘力ヲ保持増進セシメ其ノ活動性ヲ保有セシメンカ為ニ連日連夜泥寧ト闘ヒ豪雨ヲ冒シ駄馬ノ欠数ハ臂力ヲ以テ補ヒ或ハ楊行鎮姚家宅太平橋間ノ糧秣輸送或ハ第一線近ク前進シテ直接弾薬糧秣資材ヲ交付ス 時ニ補給点ニ弾薬糧秣ナシ時ハ兵站ニ至リ補充長途悪路豪雨ヲ冒シテ輸送補給ニ任ス 而シテ第一線ノ戦闘資材及糧秣ノ需要急ナル時ニ於テハ輸送モ極メテ迅速ニ行ハサル
↑和田罪の記述とは可成の点に於いて史実は懸け離れているよね。
兵站が順調に行われていたんだね。
これは メッセージ 28875 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 南京への道(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:06 投稿番号: [28884 / 29399]
第十軍戦闘序列別表 第十軍直轄兵站部隊 第三師団第二兵站司令部 (留守第三師団長) 第五師団第二兵站司令部 (留守第五師団長) 第七師団第二兵站司令部 (第七師団長) 第十六兵站輜重兵隊 第十六兵站輜重兵隊本部 (第七師団長) 第九師団第三部、第四兵站輜重兵中隊(駄) (留守第九師団長) 兵站自動車第三乃至第七中隊 (近衛師団長) 第十軍予備馬廠(三号予備品廠) (第二師団長) 第十軍野戦砲兵廠(二号野戦砲兵廠) (第一師団長) 第十軍野戦工兵廠(一号野戦工兵廠) (第一師団長) 第十軍野戦瓦斯廠(四号野戦瓦斯廠) (第十六師団長) 第十軍野戦衣糧廠(八号野戦衣糧廠) (留守第五師団長) 第十軍
↑兵站部、衣糧廠も機能していたんだね。
これは メッセージ 28875 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 南京への道(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:04 投稿番号: [28883 / 29399]
昭和十二年十二月自二日至三十一日 南京ニ至ル追撃及江北作戦間行動詳報 兵站自動車第八十一中隊 十二月二日 中作命令第九四号 中隊命令 十二月一日午前九時於楊家浜 一、中隊ハ明二日主力ラ以テ野戦砲兵廠ニ協力カセントス 二、第一小隊(一分隊欠)第二小隊(二分隊欠)ハ午后三時野戦砲兵廠ニ至リ弾薬ヲ積載帰行スヘシ 三、第一、第二小隊ヨリ各一分隊宛ヲ明二日午前九時迄ニ野戦砲兵廠ニ差出シ之ニ協力スヘシ 四、第三小隊ハ車輛ノ手入検査ヲ実施スヘシ 五、修理班ハ現在地ニ在リテ故障車ノ修理ニ任スヘシ 六、予ハ現在地ニ在リ 中隊長福頼中尉 下達法 小隊長、修理班長ヲ集メロ達ス 行動 一、第一小隊(一分隊欠)第二小隊(二分隊欠)
↑自動車兵站部隊が機能していたんだね。
これは メッセージ 28875 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 南京への道(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:03 投稿番号: [28882 / 29399]
十二月一日 晴 東遷鎮-湖州間行軍 一、午前七時三十分宿営地東遷鎮-呉家兜出発 一路南京ニ向ヒ前進ヲ開始ス 嘉興集結迄連日ノ豪雨ニ輓馬倒シ@濘膝ヲ没スル中ヲ難行軍ニ行軍ヲ続ケタルニ及シ嘉興出発以来比較的快晴ニ悪シ道路モ稍平常ニ復ス 二、午前九時岡田少尉ヨリ報告スル 午前九時第一機団長ト連絡事項報告 1.午前九時第一機団先頭ハ昇山市出発 2.小休止ハ一時間毎ニ十分間 3.大休止ハ十二時二十分ヨリ一時間ノ予定 4.宿営地ニ到着シタラ直チニ宿舎ニヲクコト 5.宿営地ハ窑水橋附近ト報告シテナキマシタ 十二月一日 岡田少尉 大隊長殿 大隊日日命令 十二月一日正午 於昇山市 一、各中隊ハ左記ノ通リ湖州丙兵站支部ニ残置スヘシ
↑兵站は順調なんだね。
これは メッセージ 28875 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 南京への道(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 07:09 投稿番号: [28881 / 29399]
前提が全く事実と符合しない所が、和田罪の大嘘つきと言われる所以だね。
これは メッセージ 28875 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 南京への道(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 07:08 投稿番号: [28880 / 29399]
戦闘序列とは、軍に依って発せられる命令で在る。
中支那派遣軍司令部編成は以下の通り。
中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領、同細則ノ件 昭和13年2月3日 昭和13年8月1日 中支那派遣軍 上奏案 中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領制定方施行ノ件 中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領制定ノ件 允裁相成候ニ付テハ別紙軍令案ノ通之カ施行ヲ命セラレ度謹テ奏ス 朕中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領ヲ製定シ之カ施行ヲ命ス 御名御璽 陸軍大臣 陸支機密受第一〇号 軍令陸甲 (別紙ノ通) 軍人陸甲第五号 3月9日 中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領細則規定ノ件
これは メッセージ 28875 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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南京への道(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:11 投稿番号: [28879 / 29399]
軍中央部が捕虜についての基本方針を示さず、方面軍も捕虜の
取り扱いについての方針を
さだめなかったことから、幕僚が
かってな指示をしたり、軍や師団が不統一な指示をしたことが
結果として
捕虜の大量殺害につながった。
軍や師団の幕僚が
捕虜の殺害を指示していたという記録には、
次のような例がある。
上海派遣軍の右翼、佐々木支隊の後方を進んだ独立攻城重砲兵
第二大隊第一中隊の
沢田正久中尉は、12月14日仙鶴門鎮
付近で
大部隊を捕虜にしたさいの状況を
証言している。
捕虜の数は約一万(戦場のことですから正確に数えており
ませんが、約八千以上おったと記憶します)
でしたが、
早速、軍司令部に報告しましたところ、「直ちに射殺せよ」
と言ったので拒否しましたら「では中山門まで連れて来い」
と命令されました。
(『南京戦史資料集』540頁)
第十六師団歩兵第三十旅団第三十八聯隊副官児玉義雄少佐は、
師団副官から捕虜殺害の指示があったことを
証言している。
連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団
命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
と電話で伝えられた。(略)この命令だけは何としても
納得できないと思っております。
参謀長以下参謀にも
幾度か意見具申しましたが、採用
するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、
各大隊に下達しましたが各大隊からは、その後何ひとつ
報告はありませんでした。
(「歩兵作命甲第111号」、『南京戦史資料集』622頁)
南京攻略戦に
直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
第十六師団の
歩兵第三十三聯隊と
歩兵第三十八聯隊、
第九師団の歩兵第七聯隊、第三師団の歩兵第六十八聯隊の
第一、第三大隊、第十軍では第百十四師団の歩兵第六十六聯隊
第一大隊と歩兵第百五十聯隊、国崎支隊、歩兵第四十一聯隊の
第三大隊、同第十二中隊の戦闘詳報が、防衛研究所
図書館に
保存されている。
このうち、第十六師団だけに限った資料でも、12月13日の
1日だけで、少なくとも2万人以上の捕虜を
殺害した事実が
分かっている。
たとえば、同師団の
中島師団長の日記にも
13日だけで2万4、5千の捕虜を「片付けた」
としており、
佐々木旅団長も
「我支隊のみで2万以上の敵は解決した」と
記録している。
これは、第十六師団だけの、しかも
たった一日だけの数字だ。
南京攻略戦に投入された日本軍の総兵力は
約20万に達する。
日本軍全体で、数日間にわたって
展開された殲滅作戦により
どれほどの捕虜や
敗残兵と見なされた中国人が殺害されたか。
確定は困難だが、各兵士が
銃弾や銃剣を装備しているほか、
各隊毎に機関銃が備わっていた状況からすれば、戦闘力を失い
武器を捨てた捕虜たちを大量殺害するのは
簡単なことだった。
これは メッセージ 28878 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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南京への道(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:10 投稿番号: [28878 / 29399]
ハーグ条約には
日本も加入し、1912年に
批准していた。
しかし、欧米諸国の兵と中国人兵士に対する日本軍の認識には
あきらかに異なる位置づけが
存在していた。
1933年に
陸軍歩兵学校が配布した
参考書「対支那軍戦闘法ノ研究」の
「捕虜ノ処置」
の項目には、次のように
書かれていた。
「捕虜ハ
他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ
戦局ヲ待ツヲ要セズ」
「兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラ
レアルモノ少キヲ以テ
仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ
世間的ニ問題トナルコト無シ」
中国兵捕虜は殺しても世間的に問題にならない、と教育された
日本軍将兵に、中国人蔑視の思想が根付いたのは
当然だった。
さらに、日中戦争が全面化しはじめた時点で出された陸軍次官
通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」
は、以下のように示した。
「現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』
ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」
(1937年8月5日付
陸軍次官通牒陸支密第198号)
これにつづいて、「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト
見ラルル如キ言動(例ヘバ戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用)」
などはつとめて避けよ
と指示していた。
国際法規は
適用しなくてよい、捕虜という位置づけも不要。
このような指示が、とくに
敵愾心にあふれた第一線部隊の
兵士たちが
捕虜を
躊躇なく殺すうえで
免罪符となった。
日本軍の包囲網が完成し、また
防衛軍側が
ギリギリまで
「南京固守」
を唱え、退却の判断が
遅れたこともあって、
何万人もの中国兵が
逃げ遅れて
投降することになった。
これに対して
日本軍側には、捕虜収容の用意は
なかった。
予想を超える大量の捕虜が発生し、その処置に窮したことが、
大量殺害の直接原因だった。
方面軍司令官松井石根大将は、
南京での捕虜殺害について
次のように
述べている。
捕虜も相当出来たけれども、捕虜に
食はせる物もない。
さういふ状態で
戦闘しつつ捕虜が出来るから
捕虜を始末することができない。
それで
ちよん斬つてしまふことになつた。
(中略)
始末が付かぬものだからシャーシャーと射つてしまつたのだ。
その死骸が
川に流れた。
それから問題になつたのだ。
(吉田裕「南京事件と国際法」より)
松井大将の捉えていた「南京事件」
とは、外国権益の侵害と
一般市民に対する
掠奪、暴行、強姦の
軍紀風紀問題であり、
捕虜処分の問題は視野の外だったようだ。
中国兵に限っては、
捕虜として
扱わなくとも、国際法上の犯罪行為にあたるとは
考えなかったことが
うかがえる。
これは メッセージ 28877 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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南京への道(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:07 投稿番号: [28877 / 29399]
一方、南京防衛軍では、司令官唐生智が
南京死守を唱えていた。
このため、退却の時期を逸し、日本軍の完全包囲を
許すことに
なってしまった。
唐生智は、12日の
午後5時になってから
はじめて
撤退命令を発し、午後6時には
まっさきに渡河して
退却した。
しかし、十数万の防衛軍は
すでに
撤退の方法が
なくなっており、一挙に
崩壊してしまった。
指揮組織が消滅し、各部隊ごとに、あるいは
各個人バラバラに、
日本軍の間隙をぬって
逃れようとした。
このため
城外では
いたるところで
混戦が起こり、部隊や
小グループ、個々人で
投降する者が
続出した。
城内は、ほとんどの城門が日本軍に
押さえられたので、ただ一つ残った
下関に通じる
ユウ江門
(「ユウ」は手偏に邑)
に殺到して
大混乱に陥った。
唐生智が脱出した
下関から
揚子江の対岸に逃れる
経路には
わずかな渡河材料が
あるだけで、大混乱になり、13日の午後、
いかだや小船で
脱出しようとする中国兵が、海軍の第十戦隊の
砲艦や駆逐艦で撃滅された。
一部は東北方に脱出しようとして
14日に
山田支隊に捕らえられた。
逃げ遅れた多くの兵士は、軍服を脱いで
安全区に逃げ込んだ。
こうして、南京防衛軍の組織は
日本軍の入城直前には
完全に
崩壊していた。
日本軍が入城した時点で、中国兵は戦闘能力を
すでに消失していた
というのが実態であり、捕虜の大量殺害を
戦闘中の行為と称して
正当化するのは
間違っている。
中支那方面軍は、17日に
松井方面軍司令官や
朝香宮派遣軍
司令官を先頭にして、各部隊の代表が参加する入城式を挙行した。
これに先立って、城内
とくに
難民20万余が
逃げ込んだ
国際安全区(難民区)
の掃討が、徹底的に
行なわれた。
敗残兵の「剔出」
と称して、兵士の疑いのある男子を引き出し、
次々と
処刑した。
その後、第十軍は
杭州攻略に向かい、
各師団は新配置に移行し、南京の治安粛正は第十六軍が担当した。
南京侵攻戦は上海戦ほどではないにせよ、防衛軍の激しい抵抗で、
日本軍にも
多くの損害が出た。
戦闘詳報などで
明らかに
なっている数字は、戦死1558人、戦傷4619人であるが、
一部不明の記録もあるため、全体としてはこれより
やや多い
数である
と推定される。
これに対する
南京防衛軍の損害は、より莫大なものだった。
防衛軍の総兵力は
約15万人だったが、そのうち包囲網から
逃れて、脱出できたものが
約6万人、残りの
9万人のうち
戦死者が
約1万人であるから、残りの8万人が武器を捨てた
敗残兵、投降兵、捕虜になったことになる。
問題になるのは、
この大量の投降者・捕虜に対する
日本軍の「処置」の方法だ。
捕虜の殺害は、明白な
国際法違反だった。
1899年に
制定された
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」
いわゆるハーグ条約は、捕虜に対する人道的処遇を定めている。
しかし、日中戦争が全面化したとき、陸軍中央は
この戦争を
事変と称して、戦時国際法は適用せずという方針を出していた。
これは メッセージ 28876 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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南京への道(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:06 投稿番号: [28876 / 29399]
中支那方面軍に
はじめて南京攻略が
下令されたとき、すでに
その隷下の
上海派遣軍も
第十軍も、独断で
南京に向かって
進撃していた。
上海派遣軍は、11月29日には常州を占領し、
丹陽にむかって前進中であり、第十軍は11月30日に
広徳を
占領したうえで、「独断をもって南京に向かう追撃準備を促進せん
とす」
と称して、前進を命令していた。
12月1日、中支那方面軍は、一挙に南京に
向かうのではなく、
上海派遣軍は
磨盤山山系西方の線に、第十軍は
蕪湖の線に、
各々進出することを命じた。
南京防衛陣地の前面で一旦態勢を
整え、南京の包囲網を
完成しようとするものだった。
ところが、第一線の各部隊は、南京一番乗りの
功名心にかられ、
方面軍の統率をこえて急進撃を続けた。
このため兵站、輜重が
追随できないままに、南京へ向かって
殺到することになった。
こうして、無統制のまま
南京攻撃戦は
はじまった。
上海派遣軍は、第十六、第九師団を
並列して
南京に進撃させ、
天谷支隊と第十三師団を
鎮江に向かわせた。
12月5日には
第十六師団は句容を、第九師団は南京防衛の
第一線陣地である
淳化鎮を
占領した。
第十軍の
第六師団と
第百十四師団は
並行して
南京に向かった。
中支那方面軍は、12月4日の時点で
両軍の南京攻撃準備線を
上天門、小衛、高橋門、雨花台、棉花地に統制する措置をとり、
12月7日には
「南京戦攻略要領」
を示達した。
要領は、両軍の作戦地境(城内を東西に区分)と配当城門を定め、
各師団の入城部隊を制限し、軍紀風紀の維持ならびに外国権益の
保護などを
示したものだった。
12月8日、各方面とも
南京防衛陣地への
攻撃が始まった。
上海派遣軍では、第十六師団が
12日に紫金山の線を占領した。
第九師団は10日には光華門まで達したが、南京防衛軍の抵抗が
予想以上に強く、その後の戦況が
進展しなかった。
また第十三師団主力は、鎮江から揚子江を渡河して
左岸に渡り、
津浦線の遮断に
向かった。
同師団の一部は山田支隊となって
12日
鎮江を出発、第十六師団の
右翼に進出して
烏龍山、
幕府山の
砲台占領に向かった。
当初、第二線兵団として
第九師団の後方を
前進していた
第三師団からは、11日に
一部の兵力を先遣隊として
南京攻撃に
参加させた。
第十軍では、第百十四師団を右、第六師団を左に
並列させて、
8日から
雨花台の堅固な陣地を攻撃した。
第六師団の一部
(歩兵第四十五聯隊)は
左翼の揚子江岸を前進し、南京から
退却する中国軍の部隊を撃破して、下関に向かった。
国崎支隊は
11日に蕪湖北方の慈湖鎮付近で
揚子江を渡り、
退路を遮断するために南京対岸の浦口に向かった。
こうして
日本軍は
南京城を完全に包囲し、紫金山、光華門、
雨花台などで
激しい攻撃が行われた。
各部隊は、城内への
一番乗りの栄誉を
競っていたが、
国内では、“南京占領近し”
などといった報道が流され、
そのことも
現地軍の焦りを
誘うことになった。
これは メッセージ 28875 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28876.html
南京への道(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:05 投稿番号: [28875 / 29399]
1937年12月1日、大本営は中支那方面軍に対し、戦闘序列を
発令し、そのうえで
「中支那方面軍ハ海軍ト協同シテ
敵国首都
南京ヲ
攻略スベシ」
という大陸命を
くだした。
戦闘序列とは、戦時に令する軍の編成のことを
指しており、
大陸命とは、大本営陸軍部を通じて発する天皇の命令を意味する。
すでに、半年も前に起きた
蘆溝橋での武力衝突を
発端として
両国の軍隊が
全面戦争に突入していた
にもかかわらず、
この大陸命で
大本営は、はじめて
中国を
「敵国」
と呼び、
首都南京への武力侵略を
正式に命令したのだ。
つまり日本は
当時、国際社会からの
大儀なき武力侵略に対する
批判を恐れ、
あくまでも「事変」
の鎮圧として、片付けようとしていたのだ。
もともと補給を軽視する日本軍の体質的欠点にくわえ、戦争方針が
数カ月程度の戦闘で中国軍を屈服させる
という甘い見通しのもと、
長期戦争の備えがないまま
中国に大軍を派兵したことが、のちに
深刻な食糧不足に伴う略奪行為多発や捕虜の大量殺戮につながった。
南京の攻略は、参謀本部が
初めから
予定していたわけではない。
第十軍を
杭州湾に上陸させたのは、予想外に厳しい上海の戦況を
打開するためであり、南京へ進撃するためではなかった。
中支那方面軍の編成も変則的で、司令部の機構も小さなものだった。
参謀長は
参謀本部第三部長
塚田攻少将、参謀副長は
参謀本部
第三課長
武藤章大佐、以下の参謀数名も
参謀本部の職員であり、
本部に在籍したまま
「出張」
の形式で
派遣された。
その他の司令部の人員の多くは、上海派遣軍司令部の人員が兼務し、
さらに
方面軍には、直属の兵站部隊が
まったく
無かった。
こうした
異例の編成は、上海から遠くへ侵攻するつもりがなく、
後方が局限されていたからであり、このために、中支那方面軍の
南京侵攻作戦には、次のような
問題点が生じた。
第1に、後方補給の準備が
まったく
欠けていたため、
南京へ殺到した
各部隊の給養は
ことごとく
徴発に依存し、
これが
略奪暴行多発の
原因になった。
第2に、方面軍司令部には
外交や渉外の
機能がなく、
国際法の顧問も
従来の戦争のように
置いていなかった。
各国の公館が集中している首都に攻め込むのに、これは
きわめて
不十分な編成で、しかも
南京の公使館、上海の総領事館など
日本の外務省の機関との
連携も
悪かった。
それどころか、
軍は
外交官を
邪魔もの扱いにし、暴行を
制止しようとした
外交官が、身の危険を
感じるほどだった
と報告している。
第3に、軍紀風紀維持についての配慮が、きわめて
不十分だった。
方面軍には
もともと
直属の憲兵がなく、急遽配属された少数の
憲兵で
大軍の犯罪非行を取り締まるのは
ほぼ不可能に近かった。
第十軍に配属された
憲兵隊長の
上砂勝七も
「何分
数個師団
二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは如何とも
方法がない」
(『憲兵三十一年』東京ライフ社刊)と嘆いていた。
このように、方面隊の編成そのものにも、大虐殺事件に
つながる
大きな要因が
含まれていた
と言うことができる。
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◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言⑤
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:48 投稿番号: [28874 / 29399]
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28874.html
◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言④
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:46 投稿番号: [28873 / 29399]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」
そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。
つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。
一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。
金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。
「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」
日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。
安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。
それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。
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◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言③
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:46 投稿番号: [28872 / 29399]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。
<引用>
------------------------
-
湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。
城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。
とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。
街には人影がみられない。
それでもどこからか若い女が三人でてきた。
我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。
助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。
我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。
一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。
それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。
体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。
また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。
支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。
夥しい出血で苦しんで訴えている。
すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。
このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
--------------------------------
当時の支那には、政府がありません。
清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。
内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。
そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。
日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。
南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。
そして市民の生活に平安を取り戻した。
なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。
こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。
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◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言②
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:45 投稿番号: [28871 / 29399]
戦後に参戦者の手記、日記、インタビュー等から、盛んに「虐殺」を言っている記事で、その取材の仕方が全く偏向したものである例を挙げます。
まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。
虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。
そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。
場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨(ふんがい)している例もあります。
また、証言者が、
「中隊の軍紀は非常に厳正でありました。」
などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。
自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭(めいりょう)なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。
宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮買ったものであると、読者が抗議しています。
また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
そのような記事について、
「そんなことはあり得ないことである」
と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。
都城連隊関係者が、朝日新聞に対して名誉毀損の抗議訴訟を起こして朝日が敗訴した件、京都新聞の無責任な記事に対する歩兵20連隊第3中隊の抗議に対する態度、また「平和のための京都の戦争展」の朝日新聞の記事に対し私が抗議しましたが全く無回答、これが新聞の態度です。
全く礼儀知らずと言うほかありません。
さらに、偏向的時後取材により「南京大虐殺」を盛んに主張する例を挙げます。
朝日新聞の本多勝一という記者が「中国の旅」という本を書いています。
これは彼が戦後・満州・中国に行って、日本人がそんなに悪い事をしたかを中国人に取材して、全く無批判に鵜呑みにして書いたものですが、その内の南京関係の例をあげてみましょう。
イ、姜根福の証言。
日本軍は南京城北の燕子磯で10万人くらい機関銃で射殺した。
紫金山で2千人を生き埋めにした。
あるいは軍用犬に中国人を襲わせ、その人肉を食わせた。城内で20万人を虐殺、死体を積み上げて石油をかけて焼いた。
ロ、伍長徳の証言。
南京戦直後、日本兵に銃剣で肩を刺されたが逃げ、揚子江に飛び込んで、日が暮れるまで水中に隠れていた。日本軍は逮捕した青年を高圧線にぶら下げてあぶり殺し、工業用硝酸をかけて殺した。
ハ、李秀英(女性)の証言。
日本兵に強姦されそうになり抵抗、その銃剣を奪って格闘して追い払った。しかし37ヶ所も刺されて気絶していたのを、親族の者達に助けられた。
2千人を生き埋めにするための労力と時間と穴の大きさは、どれ程のものであったのでしょうか?
軍用犬に人を襲わせて、その肉を食わせるなどという馬鹿なことがあり得るのでしょうか?
石油や工業用硝酸を、戦場でいつ、どこで入手したのでしょうか?
揚子江は確かに冬でも凍りはしませんが、12月の揚子江に飛び込んで、首だけ出していて一体日が暮れるまで我慢できるのでしょうか?
高圧線に、どうやって人間を吊り下げるのでしょうか?
当時の日本兵は現役バリバリで士気も高く、女性と格闘して銃剣を奪われ、尻尾を巻いて逃げ出すような情けない兵士がいる訳がありません。
37ヶ所も刺されて失神した者が、また蘇生するなどという事があり得るでしょうか?
どれ1つ取ってもすぐウソだと判る事ばかりです。
それを本多勝一記者は、「なるほど、ごもっともです」とそのまま本にしているのです。
本多記者については、
「朝日の中には、本多君に対して良くない感情を持っている人が沢山いる」という事を朝日新聞の同僚の記者が言っていますし、又石原慎太郎氏は平成3(1991)年の「文藝春秋」に、
「朝日には本多という奇妙な性格の記者がいて、盛んに南京虐殺のことを書く」と言っております。
本多勝一記者は、
「日本の子弟に国際性を持たせるため、南京大虐殺の教育を徹底させる必要がある」と言っています。
私は売国奴、何を血迷ったか、妄語断じて許すべからずと、憤(いきどお)りに駆られます。
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◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言①
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:44 投稿番号: [28870 / 29399]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです
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文盲率80パーセントの中国人民
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/24 12:29 投稿番号: [28869 / 29399]
当時の中国の文盲率が表題のようで在ったのであれば、文字も書くことは出来なかっただろうね。
つまり、記録も出鱈目だったということだね、日本では識字率9割以上だからね、文明開化以来。
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南京虐殺肯定論者が説明し得いない数字
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/24 11:35 投稿番号: [28868 / 29399]
皇軍入城時の支那人状況
当時南京に在遺留する支那人の数は23万乃至25万と称せられ其の大部分は所謂難民区(漢中路以北、中山路以西の地区)一帯に居住し居り国際委員会及び紅卍会中心となり救済、救護その他の世話を為せり
国際委員会は独逸人ラーベを会長とし在留外国人(当時の外国人独逸人5名(墺1を含む)白露2名、米国人16名、合計23名)の一部委員となり難民収容所25箇所(旧交通部、金陵大学、同女子大学、同中学、同営桑科、同神学院、同図書館、山西路小学、湖北小学其の他)を設けたるが其の人員約6万と称せられたり
難民区に避難中の支那人推定25万に対し軍側に於いては査問委員を設け12月24日より良民に対し安居証を交付せるが1月5日一先ず一段落を告げたるを以て6日7日の両日は未交付安居証の整理をなし九日より逐次避難民を夫々自宅に復帰せしむることとなり・・・・・云々
↑この様な明確な資料を無視するのが、中国と日本国内の獅子身中の虫国賊馬鹿サヨ達なんですね。
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誰も見たこもない南京事件と慰安婦です
投稿者: stmtr314stmtr 投稿日時: 2012/12/24 11:03 投稿番号: [28867 / 29399]
支那人や朝鮮人は、抑制する・控える・自制するなど気質が皆無であり、
自分に有利になることならば、嘘でも出鱈目でもでっち上げるし
うそ鳴きでも、ストーカー行為でも、人殺しでも何でもします。
日本人と支那人朝鮮人とは、真逆の性格を持っていることは
四川大地震と東日本大震災とを対比すれば直ぐ判りますが、
その他にもオリンピック、サッカーなど数多ある例から直ぐ判ります。
つまり支那人朝鮮人は、事実があれば我慢しないで叫ぶし鳴くので、
南京事件があれば、敗戦前に事件が明るみになったでしょうし
慰安婦が売春婦でなければ、戦後直ぐに事件が明るみになったでしょう。
ところが歴史的事実は、何十年後に、南京の事件があったとか
慰安婦があったとか、言いますが、
そんな悠長な支那人朝鮮人は世の中にいません。
ということは、南京事件や慰安婦を肯定する人は、
完全な支那共産党の工作員スパイや韓国の工作員スパイと、
自ら認めていることになります。
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南京虐殺肯定論者の論理の破綻
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/24 09:35 投稿番号: [28866 / 29399]
1.総て推測でしかない。
2.日本軍の資料を総て否定している。
3.目撃証言者の信憑性が皆無である。
4.証言者の行動が実戦記録と完全に不一致である。
5.中国兵しか行わなかったことを日本軍が行ったとしている。
6.欧米の新聞記事と完全に不一致である。
7.上記に関し、悪評高いハイースト系の新聞記事を基にしている、裏付けの取れない記事。
8.当時の軍命令と完全に不一致である。
9.軍命令を無視している事。
10.中国に於ける日本兵の犯罪に関する取締は、国内に於けるよりも厳格であったこと。
11.昭和12年の国内に於ける兵士の検挙数は約三千名、支那に於いては約六千名となっている。さらに、強姦は非親告罪となたこと(中国に於いて)。
12.犯罪の告発は被害を受けた中国人が行っていること。身分に関係が無かったこと。
13.犯罪は、日本兵の告発による者も多数あったこと。
14.憲兵の取締は国内よりも遙かに厳格であったこと。
15.上官への反航は厳格に取り締まられたこと。
16.資料が無い部分に関しては総て推論である事。
上記が、南京虐殺肯定論者の論理が破綻している部分である。
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否定論の限界と破綻(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:06 投稿番号: [28865 / 29399]
犠牲者数の確定は困難であるものの、殺人や掠奪、強姦など
残虐行為が発生した事実は、軍や国際機関の
関係者などの
さまざまな
記録、証言によって
覆すことはできない。
このため、南京虐殺否定派は、苦し紛れに
根拠に乏しい
珍論・奇論の類を
持ち出してくることも
少なくない。
たとえば、「南京虐殺は、日本軍の仕業にみせかけるために
中国軍の反日攪乱工作隊がやったこと」
などもその一つだ。
南京市内に潜伏した
中国軍の敗残兵がいたのは
確かだが、
身を守るために
用心深く
潜伏していることが重要であり、
攪乱するなどという
状況になかったことは、明白だ。
南京を退却する時の中国軍が
脱出・避難のために
必要な
物資を略奪したり、不法行為を働いた可能性は否定できない。
しかし、問題視されるのは、中国軍が退却した後、日本軍が
占領した後に発生した事件であり、それは
中国軍の行為を
はるかに凌ぐ規模の蛮行にこそ
問題があるのだ。
N・Yタイムズのダーディン記者は、以下のように報告する。
「南京に
中国軍最後の崩壊が訪れた時、人々の間の安堵の
気持ちは非常に大きく、また
南京市政府及び防衛司令部が
瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を
迎えようとしていた。
しかし、日本軍の蛮行がはじまると、
この安堵と歓迎の気持ちは
たちまち恐怖へと変わっていった。
日本への憎しみを
いっそう深く
人々の心に植え付けた」
(1938年1月9日付「ニューヨークタイムズ」)
南京市は
12月13日以降、日本軍に制圧され、7万人もの
日本兵が
警備に当たっていた下で、反日攪乱工作なるものが
どのように展開されたのか、はなはだ疑問と言わざるをえない。
もしも
南京市民が「反日感情を扇動」
されたと仮定しても、
武器を持たない市民が
軍事的に反抗することは
不可能だ。
百歩譲って、もしも、中国軍の便衣兵が
ゲリラ戦を企図して
潜伏していたと
仮定すれば、当然
日本軍に摘発される際に
武器をもって
抵抗しないということは
あり得ないし、
散発的な武器による抵抗が
あったならば、その記録が
日本軍側に
まったく
残らないはずはない。
否定派が
苦しまぎれに吹聴する珍論奇説は、他にもある。
「中国兵の捕虜は
指揮官の命令なしに降伏したのだから
捕虜の特権がなく、処刑しても違法ではない」
という
主張や、中国軍の死者の大半が「同士打ち」
によるもの
などという
証拠資料も示せない主張などは
その典型だ。
国際社会共通の歴史認識とは
大きく
かけ離れた主張を
大真面目に繰り返す者たちのレベルは、この程度なのだ。
これは メッセージ 28864 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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否定論の限界と破綻(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:05 投稿番号: [28864 / 29399]
南京市に残留した中国軍の敗残兵は、捕虜要件に該当しない
便衣兵であり、日本軍に
抗戦するものであるから、処刑は
妥当であった
という主張がある。
しかし、すくなくとも
安全区内において
敗残兵が
不法なゲリラ活動をしていた
ということを証明できる史料は、どこにも
存在しない。
南京陥落後に
「便衣兵」
によって
日本軍は、はたして
どれほどの損傷を
受けたというのだろうか。
そもそも
「便衣兵」
とする根拠は
どこにあるだろうか。
当時の
新聞の報道を、以下に
引用してみよう。
「なお潜伏二万五千
敗残兵狩り続く
外国権益を特別保護」
敗残兵にして便衣に着替えている市中に潜伏する者二万五千名
と推定されているので、我が軍は清掃に努力し、一方敗残兵の
嫌疑あるものは
取り調べ、老人婦女子に
保護を加えている」
(1937年12月16日付
東京朝日新聞)
この記事は、記者が
独自に取材したものではなく、
軍司令部の発表を
記事にしたものだ。
ここには、「便衣兵」
という文字は
出ていない。
潜伏した2万5千人については
敗残兵との表現であり、軍司令部の認識だったことが伺える。
次に
外国の新聞報道も確認しておこう。以下に引用するのは、
N・Yタイムズ
1937年12月17日付の記事だ。
「昨日
南京の日本軍司令部は、南京城内で
1万5000人
以上の捕虜を得たと発表した。市内には、このほか軍服を捨て、
武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられ
ている」(「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」青木書店)
これも
日本軍の発表を
記事にしたものだが、南京城内で
1万5000人以上の「捕虜を得た」
としているところに
注目すべきだ。
便衣兵は
捕虜資格がないのであるから、
軍司令部には、正規兵ないし敗残兵を捕まえた
という認識が
あったことになる。残りの2万5000人については、前掲の
東京朝日新聞の記事にある通り、敗残兵と認識していたのだ。
仮に、武器を捨てずに
日本軍に対し危害を与える目的で
市内に潜伏しているのであれば、たしかに
便衣兵であり、
非合法戦闘員として
殺害することは
違法ではない。
しかし、実際には
武器を捨て、ひたすら
自衛のために
身を隠していた敗残兵を
狩り出して殺害したことになる。
ジョン・ラーベの12月16日の日記には次の記述がある。
「たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人
兵士がまた数百人、安全区から連れ出されたという。銃殺
されるのだ。
そのうち五十人は
安全区の警察官だった。
兵士を
安全区に入れたというかどで
処刑されるという」
安全区内で武装解除した兵士は、国際法上
保護の対象だ。
ましてや
警察官まで処刑したとすれば、明白な違法行為
であり、ゲリラの掃討だったなどとは、到底
言い難い。
これは メッセージ 28863 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28864.html
否定論の限界と破綻(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:04 投稿番号: [28863 / 29399]
南京大虐殺が国際的に知られるようになったのは、市内での
敗残兵の掃蕩が
外国人の眼に
触れたことによってだった。
否定派は、敗残兵が「便衣兵」
であり、陸戦条約の要件を
満たさない
ゲリラの一種であるから、捕虜待遇を受ける
資格はないのだ
と主張するものも
少なくない。
南京防衛軍司令官
唐生智は、12月12日夕刻
ひそかに
揚子江を渡って逃走した。
このため防衛軍は一挙に崩壊し、
脱出を図る者、武器を捨て投降する者、軍服を脱いで市内に
潜伏する者など、日本軍の入城前に
完全に四散してしまい、
組織的にはもちろん、各個の戦闘能力さえも
消失していた。
中国兵の大量処刑は、南京が陥落し
日本軍が制圧した後に
行われたものであり、戦闘行為と
見なすことは
できない。
すでに
抗戦の意図はなく、専ら逃亡目的で
平服を着用し
隠れていた兵士を
便衣兵と見なして
殺害したり、市民を
一方的に便衣兵と見なして殺害した行為は、明らかな虐殺だ。
南京陥落後に中国軍が
市内でゲリラ戦を展開した事実はない。
陥落直後の南京で、墜落した日本軍機搭乗員の遺体捜索活動に
従事した海軍将校
奥宮正武の記述を
以下に引用しておこう。
便衣兵或は便衣隊といわれていた中国人は、昭和7年の
上海事変の際はもとより、今回の
支那事変の初期にも
かなり積極的に日本軍と戦っていたが、南京陥落直後は
そうとは
いえなかった。
わたしの知る限り、彼らの
ほとんどは
戦意を完全に
失って、ただ生きるために
軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。
したがって彼らを
通常いわれているゲリラと同一視することは
適当とは
思わない。(『私のみた南京事件』PHP研究所1977年)
多くの記者が南京を脱出したが、市内に残った者も
数人いた。
N・YタイムズのF・ティルマン・ダーディンは
その一人だ。
彼の12月22日発航空便記事は、以下のように伝えていた。
袋の鼠となった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。
何千という兵隊が、外国の安全区委員会に出頭し、武器を
手渡した。
委員会はその時、日本軍は捕虜を寛大に扱う
だろうと思い、彼らの投降を
受け入れる以外なかった。
たくさんの中国軍の集団が
個々の外国人に
身を委ね、
子供のように
庇護を求めた。
(中略)
南京を
掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた
日中戦争の過程で犯された
いかなる虐殺より野蛮な虐殺、
略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に
匹敵するものは、ヨーロッパの
暗黒時代の蛮行か、
それとも
中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。
無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降する
ばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、
処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに
身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、
後ろ手に縛られて、城門の外側の処刑場に
連行された。
これは メッセージ 28862 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28863.html
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