南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

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Re: 南京への道(1) 

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 07:08 投稿番号: [28880 / 29399]
戦闘序列とは、軍に依って発せられる命令で在る。

中支那派遣軍司令部編成は以下の通り。

中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領、同細則ノ件 昭和13年2月3日 昭和13年8月1日 中支那派遣軍 上奏案 中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領制定方施行ノ件 中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領制定ノ件 允裁相成候ニ付テハ別紙軍令案ノ通之カ施行ヲ命セラレ度謹テ奏ス 朕中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領ヲ製定シ之カ施行ヲ命ス 御名御璽 陸軍大臣 陸支機密受第一〇号 軍令陸甲 (別紙ノ通) 軍人陸甲第五号 3月9日 中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領細則規定ノ件

南京への道(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:11 投稿番号: [28879 / 29399]
軍中央部が捕虜についての基本方針を示さず、方面軍も捕虜の
取り扱いについての方針を   さだめなかったことから、幕僚が
かってな指示をしたり、軍や師団が不統一な指示をしたことが
結果として   捕虜の大量殺害につながった。

軍や師団の幕僚が   捕虜の殺害を指示していたという記録には、
次のような例がある。
上海派遣軍の右翼、佐々木支隊の後方を進んだ独立攻城重砲兵
第二大隊第一中隊の   沢田正久中尉は、12月14日仙鶴門鎮
付近で   大部隊を捕虜にしたさいの状況を   証言している。

   捕虜の数は約一万(戦場のことですから正確に数えており
   ませんが、約八千以上おったと記憶します)   でしたが、
   早速、軍司令部に報告しましたところ、「直ちに射殺せよ」
   と言ったので拒否しましたら「では中山門まで連れて来い」
   と命令されました。   (『南京戦史資料集』540頁)
  
第十六師団歩兵第三十旅団第三十八聯隊副官児玉義雄少佐は、
師団副官から捕虜殺害の指示があったことを   証言している。

   連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
   彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団
   命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
   と電話で伝えられた。(略)この命令だけは何としても
   納得できないと思っております。
   参謀長以下参謀にも   幾度か意見具申しましたが、採用
   するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
   部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、
   各大隊に下達しましたが各大隊からは、その後何ひとつ
   報告はありませんでした。
   (「歩兵作命甲第111号」、『南京戦史資料集』622頁)

南京攻略戦に   直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
第十六師団の   歩兵第三十三聯隊と   歩兵第三十八聯隊、
第九師団の歩兵第七聯隊、第三師団の歩兵第六十八聯隊の
第一、第三大隊、第十軍では第百十四師団の歩兵第六十六聯隊
第一大隊と歩兵第百五十聯隊、国崎支隊、歩兵第四十一聯隊の
第三大隊、同第十二中隊の戦闘詳報が、防衛研究所   図書館に
保存されている。

このうち、第十六師団だけに限った資料でも、12月13日の
1日だけで、少なくとも2万人以上の捕虜を   殺害した事実が
分かっている。   たとえば、同師団の   中島師団長の日記にも
13日だけで2万4、5千の捕虜を「片付けた」   としており、
佐々木旅団長も   「我支隊のみで2万以上の敵は解決した」と
記録している。  

これは、第十六師団だけの、しかも   たった一日だけの数字だ。
南京攻略戦に投入された日本軍の総兵力は   約20万に達する。
日本軍全体で、数日間にわたって   展開された殲滅作戦により
どれほどの捕虜や   敗残兵と見なされた中国人が殺害されたか。
確定は困難だが、各兵士が   銃弾や銃剣を装備しているほか、
各隊毎に機関銃が備わっていた状況からすれば、戦闘力を失い
武器を捨てた捕虜たちを大量殺害するのは   簡単なことだった。

南京への道(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:10 投稿番号: [28878 / 29399]
ハーグ条約には   日本も加入し、1912年に   批准していた。
しかし、欧米諸国の兵と中国人兵士に対する日本軍の認識には
あきらかに異なる位置づけが   存在していた。   1933年に
陸軍歩兵学校が配布した   参考書「対支那軍戦闘法ノ研究」の
「捕虜ノ処置」   の項目には、次のように   書かれていた。

   「捕虜ハ   他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ
   戦局ヲ待ツヲ要セズ」   「兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラ
   レアルモノ少キヲ以テ   仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ
   世間的ニ問題トナルコト無シ」

中国兵捕虜は殺しても世間的に問題にならない、と教育された
日本軍将兵に、中国人蔑視の思想が根付いたのは   当然だった。
さらに、日中戦争が全面化しはじめた時点で出された陸軍次官
通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」   は、以下のように示した。

   「現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
   『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』
   ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」
   (1937年8月5日付   陸軍次官通牒陸支密第198号)

これにつづいて、「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト
見ラルル如キ言動(例ヘバ戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用)」
などはつとめて避けよ   と指示していた。
国際法規は   適用しなくてよい、捕虜という位置づけも不要。
このような指示が、とくに   敵愾心にあふれた第一線部隊の
兵士たちが   捕虜を   躊躇なく殺すうえで   免罪符となった。

日本軍の包囲網が完成し、また   防衛軍側が   ギリギリまで
「南京固守」   を唱え、退却の判断が   遅れたこともあって、
何万人もの中国兵が   逃げ遅れて   投降することになった。
これに対して   日本軍側には、捕虜収容の用意は   なかった。
予想を超える大量の捕虜が発生し、その処置に窮したことが、
大量殺害の直接原因だった。   方面軍司令官松井石根大将は、
南京での捕虜殺害について   次のように   述べている。

   捕虜も相当出来たけれども、捕虜に   食はせる物もない。
   さういふ状態で   戦闘しつつ捕虜が出来るから
   捕虜を始末することができない。
   それで   ちよん斬つてしまふことになつた。   (中略)
   始末が付かぬものだからシャーシャーと射つてしまつたのだ。
   その死骸が   川に流れた。   それから問題になつたのだ。
   (吉田裕「南京事件と国際法」より)

松井大将の捉えていた「南京事件」   とは、外国権益の侵害と
一般市民に対する   掠奪、暴行、強姦の   軍紀風紀問題であり、
捕虜処分の問題は視野の外だったようだ。   中国兵に限っては、
捕虜として   扱わなくとも、国際法上の犯罪行為にあたるとは
考えなかったことが   うかがえる。

南京への道(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:07 投稿番号: [28877 / 29399]
一方、南京防衛軍では、司令官唐生智が   南京死守を唱えていた。
このため、退却の時期を逸し、日本軍の完全包囲を   許すことに
なってしまった。   唐生智は、12日の   午後5時になってから
はじめて   撤退命令を発し、午後6時には   まっさきに渡河して
退却した。   しかし、十数万の防衛軍は   すでに   撤退の方法が
なくなっており、一挙に   崩壊してしまった。

指揮組織が消滅し、各部隊ごとに、あるいは   各個人バラバラに、
日本軍の間隙をぬって   逃れようとした。   このため   城外では
いたるところで   混戦が起こり、部隊や   小グループ、個々人で
投降する者が   続出した。   城内は、ほとんどの城門が日本軍に
押さえられたので、ただ一つ残った   下関に通じる   ユウ江門
(「ユウ」は手偏に邑)   に殺到して   大混乱に陥った。

唐生智が脱出した   下関から   揚子江の対岸に逃れる   経路には
わずかな渡河材料が   あるだけで、大混乱になり、13日の午後、
いかだや小船で   脱出しようとする中国兵が、海軍の第十戦隊の
砲艦や駆逐艦で撃滅された。   一部は東北方に脱出しようとして
14日に   山田支隊に捕らえられた。
逃げ遅れた多くの兵士は、軍服を脱いで   安全区に逃げ込んだ。  

こうして、南京防衛軍の組織は   日本軍の入城直前には   完全に
崩壊していた。   日本軍が入城した時点で、中国兵は戦闘能力を
すでに消失していた   というのが実態であり、捕虜の大量殺害を
戦闘中の行為と称して   正当化するのは   間違っている。

中支那方面軍は、17日に   松井方面軍司令官や   朝香宮派遣軍
司令官を先頭にして、各部隊の代表が参加する入城式を挙行した。
これに先立って、城内   とくに   難民20万余が   逃げ込んだ
国際安全区(難民区)   の掃討が、徹底的に   行なわれた。
敗残兵の「剔出」   と称して、兵士の疑いのある男子を引き出し、
次々と   処刑した。   その後、第十軍は   杭州攻略に向かい、
各師団は新配置に移行し、南京の治安粛正は第十六軍が担当した。

南京侵攻戦は上海戦ほどではないにせよ、防衛軍の激しい抵抗で、
日本軍にも   多くの損害が出た。   戦闘詳報などで   明らかに
なっている数字は、戦死1558人、戦傷4619人であるが、
一部不明の記録もあるため、全体としてはこれより   やや多い
数である   と推定される。

これに対する   南京防衛軍の損害は、より莫大なものだった。
防衛軍の総兵力は   約15万人だったが、そのうち包囲網から
逃れて、脱出できたものが   約6万人、残りの   9万人のうち
戦死者が   約1万人であるから、残りの8万人が武器を捨てた
敗残兵、投降兵、捕虜になったことになる。   問題になるのは、
この大量の投降者・捕虜に対する   日本軍の「処置」の方法だ。

捕虜の殺害は、明白な   国際法違反だった。
1899年に   制定された   「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」
いわゆるハーグ条約は、捕虜に対する人道的処遇を定めている。
しかし、日中戦争が全面化したとき、陸軍中央は   この戦争を
事変と称して、戦時国際法は適用せずという方針を出していた。

南京への道(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:06 投稿番号: [28876 / 29399]
中支那方面軍に   はじめて南京攻略が   下令されたとき、すでに
その隷下の   上海派遣軍も   第十軍も、独断で   南京に向かって
進撃していた。   上海派遣軍は、11月29日には常州を占領し、
丹陽にむかって前進中であり、第十軍は11月30日に   広徳を
占領したうえで、「独断をもって南京に向かう追撃準備を促進せん
とす」   と称して、前進を命令していた。

12月1日、中支那方面軍は、一挙に南京に   向かうのではなく、
上海派遣軍は   磨盤山山系西方の線に、第十軍は   蕪湖の線に、
各々進出することを命じた。   南京防衛陣地の前面で一旦態勢を
整え、南京の包囲網を   完成しようとするものだった。
ところが、第一線の各部隊は、南京一番乗りの   功名心にかられ、
方面軍の統率をこえて急進撃を続けた。   このため兵站、輜重が
追随できないままに、南京へ向かって   殺到することになった。

こうして、無統制のまま   南京攻撃戦は   はじまった。
上海派遣軍は、第十六、第九師団を   並列して   南京に進撃させ、
天谷支隊と第十三師団を   鎮江に向かわせた。   12月5日には
第十六師団は句容を、第九師団は南京防衛の   第一線陣地である
淳化鎮を   占領した。   第十軍の   第六師団と   第百十四師団は
並行して   南京に向かった。

中支那方面軍は、12月4日の時点で   両軍の南京攻撃準備線を
上天門、小衛、高橋門、雨花台、棉花地に統制する措置をとり、
12月7日には   「南京戦攻略要領」   を示達した。
要領は、両軍の作戦地境(城内を東西に区分)と配当城門を定め、
各師団の入城部隊を制限し、軍紀風紀の維持ならびに外国権益の
保護などを   示したものだった。

12月8日、各方面とも   南京防衛陣地への   攻撃が始まった。
上海派遣軍では、第十六師団が   12日に紫金山の線を占領した。
第九師団は10日には光華門まで達したが、南京防衛軍の抵抗が
予想以上に強く、その後の戦況が   進展しなかった。

また第十三師団主力は、鎮江から揚子江を渡河して   左岸に渡り、
津浦線の遮断に   向かった。   同師団の一部は山田支隊となって
12日   鎮江を出発、第十六師団の   右翼に進出して   烏龍山、
幕府山の   砲台占領に向かった。   当初、第二線兵団として
第九師団の後方を   前進していた   第三師団からは、11日に
一部の兵力を先遣隊として   南京攻撃に   参加させた。

第十軍では、第百十四師団を右、第六師団を左に   並列させて、
8日から   雨花台の堅固な陣地を攻撃した。   第六師団の一部
(歩兵第四十五聯隊)は   左翼の揚子江岸を前進し、南京から
退却する中国軍の部隊を撃破して、下関に向かった。
国崎支隊は   11日に蕪湖北方の慈湖鎮付近で   揚子江を渡り、
退路を遮断するために南京対岸の浦口に向かった。

こうして   日本軍は   南京城を完全に包囲し、紫金山、光華門、
雨花台などで   激しい攻撃が行われた。  
各部隊は、城内への   一番乗りの栄誉を   競っていたが、
国内では、“南京占領近し”   などといった報道が流され、
そのことも   現地軍の焦りを   誘うことになった。

南京への道(1) 

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:05 投稿番号: [28875 / 29399]
1937年12月1日、大本営は中支那方面軍に対し、戦闘序列を
発令し、そのうえで   「中支那方面軍ハ海軍ト協同シテ   敵国首都
南京ヲ   攻略スベシ」   という大陸命を   くだした。
戦闘序列とは、戦時に令する軍の編成のことを   指しており、
大陸命とは、大本営陸軍部を通じて発する天皇の命令を意味する。

すでに、半年も前に起きた   蘆溝橋での武力衝突を   発端として
両国の軍隊が   全面戦争に突入していた   にもかかわらず、
この大陸命で   大本営は、はじめて   中国を   「敵国」   と呼び、
首都南京への武力侵略を   正式に命令したのだ。   つまり日本は
当時、国際社会からの   大儀なき武力侵略に対する   批判を恐れ、
あくまでも「事変」   の鎮圧として、片付けようとしていたのだ。

もともと補給を軽視する日本軍の体質的欠点にくわえ、戦争方針が
数カ月程度の戦闘で中国軍を屈服させる   という甘い見通しのもと、
長期戦争の備えがないまま   中国に大軍を派兵したことが、のちに
深刻な食糧不足に伴う略奪行為多発や捕虜の大量殺戮につながった。

南京の攻略は、参謀本部が   初めから   予定していたわけではない。
第十軍を   杭州湾に上陸させたのは、予想外に厳しい上海の戦況を
打開するためであり、南京へ進撃するためではなかった。
中支那方面軍の編成も変則的で、司令部の機構も小さなものだった。
参謀長は   参謀本部第三部長   塚田攻少将、参謀副長は   参謀本部
第三課長   武藤章大佐、以下の参謀数名も   参謀本部の職員であり、
本部に在籍したまま   「出張」   の形式で   派遣された。

その他の司令部の人員の多くは、上海派遣軍司令部の人員が兼務し、
さらに   方面軍には、直属の兵站部隊が   まったく   無かった。
こうした   異例の編成は、上海から遠くへ侵攻するつもりがなく、
後方が局限されていたからであり、このために、中支那方面軍の
南京侵攻作戦には、次のような   問題点が生じた。

第1に、後方補給の準備が   まったく   欠けていたため、
南京へ殺到した   各部隊の給養は   ことごとく   徴発に依存し、
これが   略奪暴行多発の   原因になった。
第2に、方面軍司令部には   外交や渉外の   機能がなく、
国際法の顧問も   従来の戦争のように   置いていなかった。  

各国の公館が集中している首都に攻め込むのに、これは   きわめて
不十分な編成で、しかも   南京の公使館、上海の総領事館など
日本の外務省の機関との   連携も   悪かった。   それどころか、
軍は   外交官を   邪魔もの扱いにし、暴行を   制止しようとした
外交官が、身の危険を   感じるほどだった   と報告している。

第3に、軍紀風紀維持についての配慮が、きわめて   不十分だった。
方面軍には   もともと   直属の憲兵がなく、急遽配属された少数の
憲兵で   大軍の犯罪非行を取り締まるのは   ほぼ不可能に近かった。
第十軍に配属された   憲兵隊長の   上砂勝七も   「何分   数個師団
二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは如何とも
方法がない」   (『憲兵三十一年』東京ライフ社刊)と嘆いていた。  

このように、方面隊の編成そのものにも、大虐殺事件に   つながる
大きな要因が   含まれていた   と言うことができる。

◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言⑤

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:48 投稿番号: [28874 / 29399]
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。

南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。

こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。

勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)

当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。

非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。


  追記

日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。

安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。

国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。

南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。

そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。

何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。

◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言④

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:46 投稿番号: [28873 / 29399]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。

ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」

そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。

つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。

一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。

「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」

日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。

安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。

それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。

◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言③

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:46 投稿番号: [28872 / 29399]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。

<引用> ------------------------ -

湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。

城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。

とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。

それでもどこからか若い女が三人でてきた。

我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。

助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。

我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。

それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。

体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。

支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。

夥しい出血で苦しんで訴えている。

すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
--------------------------------

当時の支那には、政府がありません。

清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。

内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。

そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。

日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。

南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。

そして市民の生活に平安を取り戻した。

なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。

こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。

◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言②

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:45 投稿番号: [28871 / 29399]
戦後に参戦者の手記、日記、インタビュー等から、盛んに「虐殺」を言っている記事で、その取材の仕方が全く偏向したものである例を挙げます。

  まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。
  虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。
  そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。
  場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨(ふんがい)している例もあります。
  また、証言者が、
  「中隊の軍紀は非常に厳正でありました。」
  などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。
  自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭(めいりょう)なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。
  宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮買ったものであると、読者が抗議しています。
  また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
  そのような記事について、
  「そんなことはあり得ないことである」
  と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。
  都城連隊関係者が、朝日新聞に対して名誉毀損の抗議訴訟を起こして朝日が敗訴した件、京都新聞の無責任な記事に対する歩兵20連隊第3中隊の抗議に対する態度、また「平和のための京都の戦争展」の朝日新聞の記事に対し私が抗議しましたが全く無回答、これが新聞の態度です。
  全く礼儀知らずと言うほかありません。


さらに、偏向的時後取材により「南京大虐殺」を盛んに主張する例を挙げます。
  朝日新聞の本多勝一という記者が「中国の旅」という本を書いています。
  これは彼が戦後・満州・中国に行って、日本人がそんなに悪い事をしたかを中国人に取材して、全く無批判に鵜呑みにして書いたものですが、その内の南京関係の例をあげてみましょう。

  イ、姜根福の証言。
    日本軍は南京城北の燕子磯で10万人くらい機関銃で射殺した。
    紫金山で2千人を生き埋めにした。
    あるいは軍用犬に中国人を襲わせ、その人肉を食わせた。城内で20万人を虐殺、死体を積み上げて石油をかけて焼いた。

  ロ、伍長徳の証言。
    南京戦直後、日本兵に銃剣で肩を刺されたが逃げ、揚子江に飛び込んで、日が暮れるまで水中に隠れていた。日本軍は逮捕した青年を高圧線にぶら下げてあぶり殺し、工業用硝酸をかけて殺した。

  ハ、李秀英(女性)の証言。
    日本兵に強姦されそうになり抵抗、その銃剣を奪って格闘して追い払った。しかし37ヶ所も刺されて気絶していたのを、親族の者達に助けられた。

  2千人を生き埋めにするための労力と時間と穴の大きさは、どれ程のものであったのでしょうか?
  軍用犬に人を襲わせて、その肉を食わせるなどという馬鹿なことがあり得るのでしょうか?
  石油や工業用硝酸を、戦場でいつ、どこで入手したのでしょうか?
  揚子江は確かに冬でも凍りはしませんが、12月の揚子江に飛び込んで、首だけ出していて一体日が暮れるまで我慢できるのでしょうか?
  高圧線に、どうやって人間を吊り下げるのでしょうか?
  当時の日本兵は現役バリバリで士気も高く、女性と格闘して銃剣を奪われ、尻尾を巻いて逃げ出すような情けない兵士がいる訳がありません。
  37ヶ所も刺されて失神した者が、また蘇生するなどという事があり得るでしょうか?
  どれ1つ取ってもすぐウソだと判る事ばかりです。
  それを本多勝一記者は、「なるほど、ごもっともです」とそのまま本にしているのです。
  本多記者については、
  「朝日の中には、本多君に対して良くない感情を持っている人が沢山いる」という事を朝日新聞の同僚の記者が言っていますし、又石原慎太郎氏は平成3(1991)年の「文藝春秋」に、
  「朝日には本多という奇妙な性格の記者がいて、盛んに南京虐殺のことを書く」と言っております。
  本多勝一記者は、
  「日本の子弟に国際性を持たせるため、南京大虐殺の教育を徹底させる必要がある」と言っています。
  私は売国奴、何を血迷ったか、妄語断じて許すべからずと、憤(いきどお)りに駆られます。

◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言①

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:44 投稿番号: [28870 / 29399]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。

当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。

南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。

こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。

勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)

当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。

非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。


  追記

日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。

安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。

国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。

南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。

石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。

そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。

何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです

文盲率80パーセントの中国人民

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/24 12:29 投稿番号: [28869 / 29399]
当時の中国の文盲率が表題のようで在ったのであれば、文字も書くことは出来なかっただろうね。

つまり、記録も出鱈目だったということだね、日本では識字率9割以上だからね、文明開化以来。

南京虐殺肯定論者が説明し得いない数字

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/24 11:35 投稿番号: [28868 / 29399]
皇軍入城時の支那人状況

当時南京に在遺留する支那人の数は23万乃至25万と称せられ其の大部分は所謂難民区(漢中路以北、中山路以西の地区)一帯に居住し居り国際委員会及び紅卍会中心となり救済、救護その他の世話を為せり
国際委員会は独逸人ラーベを会長とし在留外国人(当時の外国人独逸人5名(墺1を含む)白露2名、米国人16名、合計23名)の一部委員となり難民収容所25箇所(旧交通部、金陵大学、同女子大学、同中学、同営桑科、同神学院、同図書館、山西路小学、湖北小学其の他)を設けたるが其の人員約6万と称せられたり

難民区に避難中の支那人推定25万に対し軍側に於いては査問委員を設け12月24日より良民に対し安居証を交付せるが1月5日一先ず一段落を告げたるを以て6日7日の両日は未交付安居証の整理をなし九日より逐次避難民を夫々自宅に復帰せしむることとなり・・・・・云々

↑この様な明確な資料を無視するのが、中国と日本国内の獅子身中の虫国賊馬鹿サヨ達なんですね。

誰も見たこもない南京事件と慰安婦です

投稿者: stmtr314stmtr 投稿日時: 2012/12/24 11:03 投稿番号: [28867 / 29399]
支那人や朝鮮人は、抑制する・控える・自制するなど気質が皆無であり、
自分に有利になることならば、嘘でも出鱈目でもでっち上げるし
うそ鳴きでも、ストーカー行為でも、人殺しでも何でもします。

日本人と支那人朝鮮人とは、真逆の性格を持っていることは
四川大地震と東日本大震災とを対比すれば直ぐ判りますが、
その他にもオリンピック、サッカーなど数多ある例から直ぐ判ります。

つまり支那人朝鮮人は、事実があれば我慢しないで叫ぶし鳴くので、
南京事件があれば、敗戦前に事件が明るみになったでしょうし
慰安婦が売春婦でなければ、戦後直ぐに事件が明るみになったでしょう。

ところが歴史的事実は、何十年後に、南京の事件があったとか
慰安婦があったとか、言いますが、
そんな悠長な支那人朝鮮人は世の中にいません。

ということは、南京事件や慰安婦を肯定する人は、
完全な支那共産党の工作員スパイや韓国の工作員スパイと、
自ら認めていることになります。

南京虐殺肯定論者の論理の破綻

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/24 09:35 投稿番号: [28866 / 29399]
1.総て推測でしかない。

2.日本軍の資料を総て否定している。

3.目撃証言者の信憑性が皆無である。

4.証言者の行動が実戦記録と完全に不一致である。

5.中国兵しか行わなかったことを日本軍が行ったとしている。

6.欧米の新聞記事と完全に不一致である。

7.上記に関し、悪評高いハイースト系の新聞記事を基にしている、裏付けの取れない記事。

8.当時の軍命令と完全に不一致である。

9.軍命令を無視している事。

10.中国に於ける日本兵の犯罪に関する取締は、国内に於けるよりも厳格であったこと。

11.昭和12年の国内に於ける兵士の検挙数は約三千名、支那に於いては約六千名となっている。さらに、強姦は非親告罪となたこと(中国に於いて)。

12.犯罪の告発は被害を受けた中国人が行っていること。身分に関係が無かったこと。

13.犯罪は、日本兵の告発による者も多数あったこと。

14.憲兵の取締は国内よりも遙かに厳格であったこと。

15.上官への反航は厳格に取り締まられたこと。

16.資料が無い部分に関しては総て推論である事。

上記が、南京虐殺肯定論者の論理が破綻している部分である。

否定論の限界と破綻(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:06 投稿番号: [28865 / 29399]
犠牲者数の確定は困難であるものの、殺人や掠奪、強姦など
残虐行為が発生した事実は、軍や国際機関の   関係者などの
さまざまな   記録、証言によって   覆すことはできない。
このため、南京虐殺否定派は、苦し紛れに   根拠に乏しい
珍論・奇論の類を   持ち出してくることも   少なくない。

たとえば、「南京虐殺は、日本軍の仕業にみせかけるために
中国軍の反日攪乱工作隊がやったこと」   などもその一つだ。
南京市内に潜伏した   中国軍の敗残兵がいたのは   確かだが、
身を守るために   用心深く   潜伏していることが重要であり、
攪乱するなどという   状況になかったことは、明白だ。

南京を退却する時の中国軍が   脱出・避難のために   必要な
物資を略奪したり、不法行為を働いた可能性は否定できない。
しかし、問題視されるのは、中国軍が退却した後、日本軍が
占領した後に発生した事件であり、それは   中国軍の行為を
はるかに凌ぐ規模の蛮行にこそ   問題があるのだ。
N・Yタイムズのダーディン記者は、以下のように報告する。

   「南京に   中国軍最後の崩壊が訪れた時、人々の間の安堵の
   気持ちは非常に大きく、また   南京市政府及び防衛司令部が
   瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を
   迎えようとしていた。   しかし、日本軍の蛮行がはじまると、
   この安堵と歓迎の気持ちは   たちまち恐怖へと変わっていった。
   日本への憎しみを   いっそう深く   人々の心に植え付けた」
   (1938年1月9日付「ニューヨークタイムズ」)

南京市は   12月13日以降、日本軍に制圧され、7万人もの
日本兵が   警備に当たっていた下で、反日攪乱工作なるものが
どのように展開されたのか、はなはだ疑問と言わざるをえない。
もしも   南京市民が「反日感情を扇動」   されたと仮定しても、
武器を持たない市民が   軍事的に反抗することは   不可能だ。

百歩譲って、もしも、中国軍の便衣兵が   ゲリラ戦を企図して
潜伏していたと   仮定すれば、当然   日本軍に摘発される際に
武器をもって   抵抗しないということは   あり得ないし、
散発的な武器による抵抗が   あったならば、その記録が
日本軍側に   まったく   残らないはずはない。

否定派が   苦しまぎれに吹聴する珍論奇説は、他にもある。
「中国兵の捕虜は   指揮官の命令なしに降伏したのだから
捕虜の特権がなく、処刑しても違法ではない」   という
主張や、中国軍の死者の大半が「同士打ち」   によるもの
などという   証拠資料も示せない主張などは   その典型だ。
国際社会共通の歴史認識とは   大きく   かけ離れた主張を
大真面目に繰り返す者たちのレベルは、この程度なのだ。

否定論の限界と破綻(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:05 投稿番号: [28864 / 29399]
南京市に残留した中国軍の敗残兵は、捕虜要件に該当しない
便衣兵であり、日本軍に   抗戦するものであるから、処刑は
妥当であった   という主張がある。   しかし、すくなくとも
安全区内において   敗残兵が   不法なゲリラ活動をしていた
ということを証明できる史料は、どこにも   存在しない。

南京陥落後に   「便衣兵」   によって   日本軍は、はたして
どれほどの損傷を   受けたというのだろうか。
そもそも   「便衣兵」   とする根拠は   どこにあるだろうか。
当時の   新聞の報道を、以下に   引用してみよう。

   「なお潜伏二万五千   敗残兵狩り続く   外国権益を特別保護」
   敗残兵にして便衣に着替えている市中に潜伏する者二万五千名
   と推定されているので、我が軍は清掃に努力し、一方敗残兵の
   嫌疑あるものは   取り調べ、老人婦女子に   保護を加えている」
   (1937年12月16日付   東京朝日新聞)

この記事は、記者が   独自に取材したものではなく、
軍司令部の発表を   記事にしたものだ。   ここには、「便衣兵」
という文字は   出ていない。   潜伏した2万5千人については
敗残兵との表現であり、軍司令部の認識だったことが伺える。
次に   外国の新聞報道も確認しておこう。以下に引用するのは、
N・Yタイムズ   1937年12月17日付の記事だ。

   「昨日   南京の日本軍司令部は、南京城内で   1万5000人
   以上の捕虜を得たと発表した。市内には、このほか軍服を捨て、
   武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられ
   ている」(「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」青木書店)

これも   日本軍の発表を   記事にしたものだが、南京城内で
1万5000人以上の「捕虜を得た」   としているところに
注目すべきだ。   便衣兵は   捕虜資格がないのであるから、
軍司令部には、正規兵ないし敗残兵を捕まえた   という認識が
あったことになる。残りの2万5000人については、前掲の
東京朝日新聞の記事にある通り、敗残兵と認識していたのだ。

仮に、武器を捨てずに   日本軍に対し危害を与える目的で
市内に潜伏しているのであれば、たしかに   便衣兵であり、
非合法戦闘員として   殺害することは   違法ではない。
しかし、実際には   武器を捨て、ひたすら   自衛のために
身を隠していた敗残兵を   狩り出して殺害したことになる。
ジョン・ラーベの12月16日の日記には次の記述がある。

   「たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人
   兵士がまた数百人、安全区から連れ出されたという。銃殺
   されるのだ。   そのうち五十人は   安全区の警察官だった。
   兵士を   安全区に入れたというかどで   処刑されるという」

安全区内で武装解除した兵士は、国際法上   保護の対象だ。
ましてや   警察官まで処刑したとすれば、明白な違法行為
であり、ゲリラの掃討だったなどとは、到底   言い難い。

否定論の限界と破綻(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:04 投稿番号: [28863 / 29399]
南京大虐殺が国際的に知られるようになったのは、市内での
敗残兵の掃蕩が   外国人の眼に   触れたことによってだった。
否定派は、敗残兵が「便衣兵」   であり、陸戦条約の要件を
満たさない   ゲリラの一種であるから、捕虜待遇を受ける
資格はないのだ   と主張するものも   少なくない。

南京防衛軍司令官   唐生智は、12月12日夕刻   ひそかに
揚子江を渡って逃走した。   このため防衛軍は一挙に崩壊し、
脱出を図る者、武器を捨て投降する者、軍服を脱いで市内に
潜伏する者など、日本軍の入城前に   完全に四散してしまい、
組織的にはもちろん、各個の戦闘能力さえも   消失していた。

中国兵の大量処刑は、南京が陥落し   日本軍が制圧した後に
行われたものであり、戦闘行為と   見なすことは   できない。
すでに   抗戦の意図はなく、専ら逃亡目的で   平服を着用し
隠れていた兵士を   便衣兵と見なして   殺害したり、市民を
一方的に便衣兵と見なして殺害した行為は、明らかな虐殺だ。

南京陥落後に中国軍が   市内でゲリラ戦を展開した事実はない。
陥落直後の南京で、墜落した日本軍機搭乗員の遺体捜索活動に
従事した海軍将校   奥宮正武の記述を   以下に引用しておこう。

   便衣兵或は便衣隊といわれていた中国人は、昭和7年の
   上海事変の際はもとより、今回の   支那事変の初期にも
   かなり積極的に日本軍と戦っていたが、南京陥落直後は
   そうとは   いえなかった。   わたしの知る限り、彼らの
   ほとんどは   戦意を完全に   失って、ただ生きるために
   軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。   したがって彼らを
   通常いわれているゲリラと同一視することは   適当とは
   思わない。(『私のみた南京事件』PHP研究所1977年)

多くの記者が南京を脱出したが、市内に残った者も   数人いた。
N・YタイムズのF・ティルマン・ダーディンは   その一人だ。
彼の12月22日発航空便記事は、以下のように伝えていた。

   袋の鼠となった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。
   何千という兵隊が、外国の安全区委員会に出頭し、武器を
   手渡した。   委員会はその時、日本軍は捕虜を寛大に扱う
   だろうと思い、彼らの投降を   受け入れる以外なかった。
   たくさんの中国軍の集団が   個々の外国人に   身を委ね、
   子供のように   庇護を求めた。
   (中略)
   南京を   掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた
   日中戦争の過程で犯された   いかなる虐殺より野蛮な虐殺、
   略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に
   匹敵するものは、ヨーロッパの   暗黒時代の蛮行か、
   それとも   中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。

   無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降する
   ばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、
   処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに
   身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、
   後ろ手に縛られて、城門の外側の処刑場に   連行された。

否定論の限界と破綻(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:02 投稿番号: [28862 / 29399]
捕虜殺害に機関銃が使用された場合、たとえば1時間以上も
連射し続けていれば、銃身が加熱して撃てなくなる、だから
何十万もの捕虜を殺害することは不可能だなどという主張を
大マジメに   吐き散らす   可笑しな否定論者もいる。
何万もの捕虜を   同じ場所で、一度に殺した   わけではなく、
もちろん   同じ機関銃だけで   殺害したわけがない。

実際の   捕虜殺害に、さまざまな方法が採られていたことは
多数の資料で確認できるが、たとえば   そのひとつとして、
第十軍第百十四師団歩兵六十六聯隊第一大隊戦闘詳報がある。
この資料には、数日間にわたり収容した捕虜を、上部からの
命令で組織的に殺害した事実と方法について   記述している。
同戦闘詳報の   12月13日の記事を   以下に引用する。

   (13日)
   午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
   左記
   イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ   其ノ方法ハ
   十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
   (中略)
   午後三時三十分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附キ意見ノ
   交換ヲナサシメタル結果、各中隊ニ等分ニ分配シ監禁室
   ヨリ五十名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地、
   第三中隊ハ路営地西南方凹地、第四中隊ハ露営地東南
   谷地付近ニ於テ刺殺セシムルコトトセリ
   (中略)
   各隊共ニ午後五時準備終リ刺殺ヲ開始シ   概ネ午後七時
   三十分刺殺ヲ終リ   聯隊ニ報告ス
   第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カント
   シテ失敗セリ
   捕虜ハ観念シ恐レズ軍刀ノ前ニ首ヲサシ伸ブルモノ、
   銃剣ノ前ニ乗リ出シ   従容トシ居ルモノアリタルモ、
   中ニハ泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ   特ニ隊長巡視
   ノ際ハ各所ニ其ノ声起レリ

この大隊には、連隊長を経由して旅団命令が伝達された。
命令内容は、「捕虜は全部殺すべし」   というものであり、
捕虜殺害を禁じた国際法規に反する非人道的処置だった。
聯隊からは、ご丁寧に、殺害の手順についても、「十数名
ずつ逐次銃殺してはどうか」   と提案されている。

命令を受けた大隊は、各中隊で分担して、50名ずつを
露営地外の   窪地や谷地など要所に連行して   刺殺した。
各隊とも午後5時から開始し、午後7時30分頃に終了。
聯隊に報告したが、中には   一気に焼き殺そうと試みて
失敗した中隊もあった   ということが   記録されている。

一旦収容した捕虜を   軍の命令で不法に殺害したことは
あきらかであり、これは   国際法に違反し、人道に背く
組織的な犯罪行為   そのものだった。

否定論の限界と破綻(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:01 投稿番号: [28861 / 29399]
南京事件を否定する者の中には、「当時の日本軍の   規模では
何十万もの虐殺は不可能」   「大虐殺を行う余力はない」
などと   主張するものがいる。   また「何万もの膨大な数の
遺体は   どこに消えたのか」   などと疑問を呈し、
大量虐殺はなかったと   主張する否定論者もいる。

南京での捕虜の殺害は、数時間程度で   行われたものではない。
城内の掃蕩だけでも数日を要し、その前後の攻略戦を含めたら
さらに   期間は長い。   その間に、10万を超える大兵力が
一人平均数名の捕虜を処断しただけで   膨大な殺害数になる。

捕虜の   大量殺害の方法と   遺体の処理については、たとえば
第十六師団長中島今朝吾中将の日誌などからも   推測できる。
以下に引用してみよう。
   (12月13日)
  一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の
   森林村落地帯に出て又一方鎮江両塞より逃て来るもの
   ありて到る所に捕虜を見到底其始末に堪えざる程なり
  一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くる
   こととなしたる(れ)ども、千五千一万の群集となれば
   之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を
   失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、之が
   一旦掻擾(騒擾)せば始末に困るので   部隊をトラック
   にて増派して監視と誘導に任じ   十三日夕はトラックの
   大活躍を要したり乍併戦勝直後のことなれば中々実行は
   敏速には出来ず   斯る処置は当初より予想だにせざりし
   処なれば参謀部は大多忙を極めたり
  一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せし
   もの約一万五千、大平門に於ける守備の一中隊長が処理
   せしもの約一三○○   其仙鶴門附近に集結したるもの約
   七八千人あり尚続々投降し来る
  一、此七八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々
   見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ処
   に誘きて処理する予定なり

12月13日の時点で、第十六師団だけで   始末に困るほどの
大量の捕虜を捕らえたが、これは「予想だに」しなかったため
「参謀部は大多忙を極めた」   としている。   そのうえで、
7〜8千人を「片付ける」には、「相当大なる壕」   を要するが
なかなか見当たらない。   そこで、100〜200人に分割し、
適当な場所に誘導して「処理する」、と記している。

否定派の中には、文中の「大体捕虜はせぬ方針」   とあるのは
殺害の方針ではなく、銃器を取り上げて釈放するという意味だ、
と唱えるものもいる。しかし、上記の文脈を素直に読解すれば、
捕虜は片端から   殺害するつもりだったが、数が多すぎるため
現場での処刑が難しい―   このため、小分けにして殺害しよう、
という意味だと   理解できる。

すくなくとも、「相当大なる壕」というのは、死体の処理か、
あるいは   捕虜を入れて周囲から銃撃するためには使えるが、
釈放するのであれば、大きな壕などは   必要がない。
遺体は   消えたのではなく、埋められたもの   と考えるのが
ごく自然であり、常識的な解釈だろう。

志気衰退(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 23:37 投稿番号: [28860 / 29399]
「極メテ悪質ナルモノ多発シアリ」   として、日本軍部自身が
認識していた   犯罪や非行の中でも、とりわけ多発した強姦は、
軍にとって   深刻な問題だった。
相手国民に与える影響も大きく、日本への憎悪と敵愾心を
かきたてるものだ   ということは、自覚されていた。

その唯一の対策が、軍が管理統制する「慰安施設」の設置だけ
というのは、近代軍の考え方としては、やはり次元が低かった
と言わざるを得ない。   前述した陸軍の「軍紀振作対策」には
「主トシテ事変地ニ於テ著意スベキ事項」   として、
次のような   慰安施設にかんする事項が   掲げられている。

    事変地ニ於テハ環境ヲ整理シ慰安施設ニ関シ周到ナル注意ヲ
    払ヒ、殺伐ナル感情及劣情ヲ緩和抑制スルコトニ留意ヲ要ス
    環境ガ軍人ノ心理延イテハ   軍紀ノ振作ニ影響アルハ贅言ヲ
    要セザル所ナリ。
    故ニ兵営ニ於ケル起居ノ設備ヲ適切ニシ、慰安ノ諸施設ニ
    留意スルヲ必要トス。  

    特ニ   性的慰安所ヨリ受クル   兵ノ精神的影響ハ
    最モ率直深刻ニシテ、之ガ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、
    軍紀ノ維持、犯罪及性病ノ予防ニ   影響スル所大ナルヲ
    思ハザルベカラズ

性的慰安所に対する指導監督の適否が、志気の振興、軍紀の維持、
そして   犯罪及び性病の予防に大きくかかわる   と指摘している。

南京攻略にあたって、日本軍将兵による   中国人女性にたいする
おびただしい数の強姦、強姦殺人が発生したことは、前述のとおり
日本軍自身が認めており、当然のことながら   被害を受けた中国、
さらには   世界中に   知られることとなった。

軍中央は、このことが   相手国の敵愾心をかきたてることを危惧し、
また、性病の大量発生が   戦力を低下させるほどに増加したことで、  
戦争遂行に有害である   と認識したのだ。
その対策が、慰安婦動員と   慰安施設整備、指導監督の強化だった。
このことに、当時の   日本軍の特質を   見ることができる。

軍が組織的に慰安所を設けることは、たちまち   全戦線に広がった。
そのため必要となった大量の慰安婦は、朝鮮、台湾などの植民地、
あるいは   占領地から   直接に「調達」   された。
その多くは、「婦人児童の売買禁止に関する国際条約」   が禁じている
21歳以下の未成年であり、換言すれば   軍の管理統制下におかれた
“組織的な強姦”   に   ほかならなかった。

志気衰退(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 23:36 投稿番号: [28859 / 29399]
志気が衰退していたうえに   上海の戦場では、予想を超えた
中国防衛軍の   はげしい抵抗に直面し、死傷者が続出した。
軍の志気が沈滞しただけでなく、傷病を負って帰還する兵を通じ、
実情が知られるようになると   国内にも重苦しい空気が広がった。

そのため   陸軍省は、38年2月19日に   通牒を出している。
表題は   「帰還部隊ノ軍紀風紀及防諜上ノ指導取締ニ関スル件」
その中で   帰還兵の「言動ニ関スル事項」   として、
次のように   戒めている。

   今次事変ニ於ケル派遣将兵竝傷病帰還者ノ言動通信等ニ依ルニ
   故意ニ上官ニ対シ誹謗的言動ヲ為シ軍紀上注意ヲ要スルモノ、
   或ハ第一線ノ苦戦、損害ノ状況、支那兵ノ戦闘力等ヲ   誇大ニ
   伝ヘ為ニ一般ノ志気ニ悪影響ヲ及ボス虞アルモノ、或ハ我軍
   将兵ノ行動ニ関シ殊更ニ其ノ非行ヲ誇称シ軍ノ威信ヲ失墜スル
   虞アルモノ等一局部又ハ特種ナル事象ヲ捉ヘテ誇称スル等
   言動上注意ヲ要スルモノアリ。

戦線の志気の沈滞が、国内にも波及することを危惧していたのだ。
戦争目的の不明確さからくる   軍隊の志気の低下が、
軍紀風紀の紊乱の理由の一つだったのだが、とりわけ兵の大部分が
生活をかかえ、家郷に心残りの大きい予後備の召集兵だったことも
軍紀風紀の頽廃と   志気の沈滞に   つながっていった。

陸軍省が、開戦2年間の   戦場における事例をまとめて作成した
「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」   は、この点について
次のように   述べている。

    在郷軍人ニ対スル教育指導ニ就テ
    今次事変勃発後二ヶ年間ニ発生セル在支全軍ノ犯罪ヲ
    役種別ニ就テ調査スルニ
     予備役    四六三
     後備役    六一四
     補充兵役   二八五
     現役     三一二
    ニシテ応召者ニ極メテ多ク又応召者ノ犯セシ罪質ハ軍成立ノ
    根元ニ触ルル対上官犯或ハ聖戦完遂ヲ妨害スベキ掠奪、強盗、
    強姦等極メテ悪質ナルモノ多発シアリ。   此ニ依リテ観ルモ
    軍紀振作上在郷軍人ノ教育指導ニハ格別ナル配慮ヲ要スルモノ
    ト思料セラル。
    (陸密第1955号「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」)

とくに応召者に   掠奪や強姦など悪質な犯罪が多発しているとして
注意を喚起し、在郷軍人の指導に配慮が必要であると指摘している。
日中戦争初期の2年間に限っても、すでに軍紀上の犯罪が多発し、
傾向としては   やはり予備役、後備役など召集された兵隊に多く、
それは「聖戦完遂ヲ妨害スル」ほど悪質なものであるということを
軍部当局においても   認識されていた   ということだ。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/12/23 23:35 投稿番号: [28858 / 29399]
おまえさあ、ベルリン陥落のときにドイツ人女性を強姦しまくった
のはソ連軍ではなくて、敗走するドイツ軍兵士だったに違いない、
と言ってるロシア人の馬鹿ウヨが仮にいるとすれば、おまえは
同様の阿呆かな?
終戦のときの満州で日本人女性を強姦しまくったのも・・・・
と言われれば、おまえはどう思う?くだらん戯れ言を言うのも
たいがいにしろや。

志気衰退(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 23:34 投稿番号: [28857 / 29399]
中国戦線の   日本軍について   注意すべきことは、
軍隊の志気が   衰退していた   という事実にある。
このことは、軍紀風紀頽廃の   原因の一つになり、
犯罪非行の背景となっていることから   見逃せない点だ。

戦場に送られた兵士の大部分は、突然の令状で召集された
予後備兵か   補充兵だった。
彼らは   予期しないときに、急遽   戦場に駆り出された。
その彼らに、祖国の危機に馳せ参じた志願兵にみるような、
愛国の熱情を   期待するのは   土台から無理なことだった。

そもそも   国民の愛国心に訴えるような   戦争目的、
つまり   大儀名分が、この「事変」には   存在しなかった。
近代日本が   それまでに経験した戦争、日清・日露・日独の
いずれも、戦争目的は   天皇の宣戦の詔書で   明示された。
しかし   事変と称した日中戦争では、過去の   どの戦争よりも
大規模な戦争となったにも関わらず、宣戦布告は   なされず、
したがって   宣戦の詔書も   だされなかった。

宣戦の詔勅に   かわるものとして   発表されたのが、
上海への陸軍派兵を決めた際の   政府声明   だった。
この声明では、「支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ
促ス為今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ」   として、
「暴戻支那ノ膺懲」   が、この戦争の   目的だとしている。

日本の国土が   侵略の危機に   さらされているわけではなく、
国家存亡の危機ではないため、自衛の名目は成り立たなかった。
そこで「暴支膺懲」を   国家的な合言葉に   したわけだが、
ふとどきな支那人を   懲らしめてやる、というだけでは
国民を奮起させるのに十分なスローガンとは   言えなかった。

国民にとって   戦争目的が明確でなかったばかりでなく、
軍の幹部でさえ   それをはっきり理解できないのが実情だった。
たとえば、第十六師団   歩兵第二十聯隊長   大野宣明大佐が、
部下にあたえた訓辞でも、次のような   苦しい表現をしている。

   出征ノ目的理解ニ就テ
    今次事変ノ原因一ニシテ足ラズト雖、要ハ蒋介石政権ノ
   長期ニ亘ル排日侮日ニ由来スルモノニシテ、之ヲ膺懲シ
   抜本塞源ノ道ヲ講ズルハ実ニ我ガ皇軍ノ使命ニシテ天業
   恢弘ノ一過程ナリ。
   諸官ハ克ク今次出師ノ目的ヲ部下軍隊ニ徹底セシメ、
   忠勇ナル下級幹部以下ニ対シ確乎不動ノ信念ヲ培養
   セシムルヲ要ス。
   (防衛研究所所蔵、第十六師団関係資料綴「出征ニ方リ
   将校ニ与フル辞」より引用)

将校に対してさえ   こういう訓示をしなければならなかった。
したがって、下士官以下の兵隊に   戦争目的を理解させ、
志気を奮い立たせることは   容易ではなかった。
しかも   兵士の大部分が、年齢の高い予備や後備の召集兵で、
当然、一般社会に馴染み   後顧の憂いを抱えた人々だった。
これでは、とても志気旺盛とはいえないのが実情だったのだ。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 22:45 投稿番号: [28856 / 29399]
>支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。


日本軍が迫ってきている切迫した状況のなかで、女性に迫る時間があるわけないだろ!

おまえ、嘘でたらめばかり書くなよ。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 22:42 投稿番号: [28855 / 29399]
>だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。


おまえ、日本軍が南京市民に餅をふるまったといってだろ。

それはやっぱり嘘ということだな。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 22:39 投稿番号: [28854 / 29399]
>日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。


マギー牧師が日本人を憎悪などということはありえん。

キリスト教の牧師は人種差別をしない。

◆嘘まみれの元慰安婦とやらの証言

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 22:37 投稿番号: [28853 / 29399]
自称・元従軍慰安婦   算数も出来ない韓国人

韓国で元従軍慰安婦のチョン・ソウン氏が80歳で亡くなった。
朝鮮日報は次のように報じた。

『13歳のとき、インドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の従軍慰安婦として生きなければならなかった「挺身隊おばあさん」チョン・ソウン氏が、26日未明、慶尚南道の自宅で老患で亡くなった。80歳。
チョン氏は、1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として堂々と出席、全世界に向かって、「日本の軍医官から不妊手術を受けさせられ、金の代わりに軍票を受けた。1日平均50人ずつ、週末には100人の軍人と性関係を持たなければならなかった」などど証言。日本軍の蛮行を知らせた人物』


日本軍の蛮行を北京女性大会で話したとの事ですが、この話は100%有り得ません。

一日平均50人、週末100人と性関係を持ったとの事ですが時間的、体力的に不可能です。慰安婦の一日労働時間を15時間と仮定してみますと有り得ない数字が出てきます。

計算方法。

一日労働時間を15時間と仮定。分に直すと15×60=900分。

間の休憩時間を一回5分と定めると50人の場合で49回、よって49×5=休憩時間245分。900−245=655分。655÷50人=1人あたり13分。   100人の場合は休憩回数99回、よって99×5=休憩時間495分。900−495=405分。405÷100=1人あたり4分。

7年間の合計は、6日間が50人、週末が100人なので合わせて週400人。一年は約52週なので年間20800人。慰安婦経験は7年なので14万5600人、つまり約14万6千人と寝た。

一回あたり13分、4分では慰安婦の意味を全く成していませんし、たかが13歳の少女がこれほどまで人気が有ったとでも言うのでしょうか?大人でも身の危険がある上に、13歳の少女なら数日で普通死にます。死去が目に見えている上に年間20800回、合計14万6千回は常識の枠を超えていますので、不可能と断定する以外ありません。また、慰安婦は接客を断る自由が認められており、激務でしたらそれを理由に接客を断れたはずです。

万歩譲って可能だとしても80歳で死去したのですから、誕生年は1924,5年と計算でき13歳の時に従軍慰安婦となったのですから年は1937年となります。1937年当時のインドネシアは蘭領で日本領となったのは1942年の話です。蘭領インドネシアで日本軍の蛮行などありえない話であり完全に自己矛盾に陥っています。本当に慰安婦だったのであればこのような間違った発言は絶対にしません。

この記事を記載した朝鮮日報もおかしいと思ったのか既に記事を削除しています。明らかに少し考えれば問題点に気が付くのですがそれにも気が付かずに堂々と褒め称えている所に韓国の異常を感じます。韓国人は算数の計算も出来ないのでしょうか?また、従軍慰安婦と挺身隊は全く関係ありません。ニュースにもなる人が死去して死者を批判するのは気が進みませんが、結局の所はまた捏造者が1人逝ったに過ぎないのです。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる④

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 22:30 投稿番号: [28852 / 29399]
当時、同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外のニュース社発行の「世界と日本」の中で次のように述べています。

「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2〜30万という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだとされている。

ところが殺されなければならない住民婦女子は、当時全部“難民区”内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。

そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には、私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして、取材活動をしていた。

すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。

住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。

こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずはなかった。

すなわち“捕虜・便衣兵の処刑・殺害”はあったがそれは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺などはなかった。

それがさ も事実あったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは、見過ごしていいことではない。」

当時、反日的な報道をしていた米紙「タイム」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と、評しています。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる③

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 22:29 投稿番号: [28851 / 29399]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。

ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」

そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。

つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。

一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。

「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」

日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。

安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。

それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる②

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 22:29 投稿番号: [28850 / 29399]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。

<引用> ------------------------ -

湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。

城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。

とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。

それでもどこからか若い女が三人でてきた。

我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。

助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。

我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。

それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。

体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。

支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。

夥しい出血で苦しんで訴えている。

すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
--------------------------------

当時の支那には、政府がありません。

清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。

内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。

そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。

日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。

南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。

そして市民の生活に平安を取り戻した。

なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。

こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる①

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 22:28 投稿番号: [28849 / 29399]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。

そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。

日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。

だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。

30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。

機関銃で殺したに違いない?!

バカなことを!

当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。

パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。

お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。

かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」

バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。

加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。

Re: ◆屁理屈まみれの元慰安婦とやらの証言

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 21:29 投稿番号: [28848 / 29399]
「日本を取り戻す!」とか言って、選挙前はタカ派に見えた安倍。

選挙に勝ったとたんに、竹島の日参加やめたり、尖閣の公務員駐在やめたから、

ひょっとしたら、また元慰安婦に謝罪するかもしれんな。

Re: ◆世界一厳正だった日本軍の軍紀

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 21:23 投稿番号: [28847 / 29399]
>日本軍の軍紀に就いては、北清事変(義和団事件)当時にも欧米列強から賞賛され


それで調子に乗って気が緩んだのだろうか。

しかしだからといって食糧をおろそかにしてまで慰安婦の管理まで軍が介入したことは感心せんな。

戦争に負けたのも当然といえば当然。

Re: ◆南京大虐殺とは中国軍によるもの

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 21:17 投稿番号: [28846 / 29399]
>南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。


おまえ、自分が貼り付けたyoutubeを見たのか?

日本軍軍医は「南京に入場して一人の死体も見ていない」と言っておる。

◆世界一厳正だった日本軍の軍紀

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 15:02 投稿番号: [28845 / 29399]
日本軍の軍紀に就いては、北清事変(義和団事件)当時にも欧米列強から賞賛され、各国軍隊の模範とされたことがあるが、かつて我々が中国戦線を征ったとき、その先々で中国民衆から熱烈歓迎を受けたのも、それは故なきことではない。

そんなことを知ってか知らずか、いわゆる戦後の進歩的文化人と称する売国奴どもは、日本軍の残虐行為なるものを捏造して、繰り返し繰り返し己の母国を罵倒しつづけているが、外国人(台湾)の評論家黄文雄氏は、次のように正鵠を射た卓見を述べている。

黄文雄氏の言によれば、事実は全く正反対で、日本軍はいつでもどこでも軍律厳しく、しかも人間性豊かであった。それに対して中国軍は残忍極まりない武装集団で、今なお彼らは自国民に対する飽くなき収奪と虐殺を繰り返している。それは中国四千年の動乱の歴史の連続であり、伝統ともいうべき不幸な現実である。

日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。中国民衆にとって、いつ襲って来るかわからない自国の暴徒の如き武装集団に比べ、軍紀厳正な日本軍を信じ熱烈歓迎するのは当然のことで、決して日本軍に阿(おも)ねたり恐れてのことではなかったのである。

フランスの国際法学者フォーシーユは、日本軍を賛えて次のように語っている。「日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火炙(あぶ)りにされたり、磔(はりつけ)にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、或は男根を切り落し、胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である」と。

フランスのフィガロ紙の従軍記者カレスコート・イリュスト、ラシオン紙の記者ラロ、両氏の『日本軍戦闘観戦記』によれば、

「日本軍隊は世界に対して誇るに足る名誉を有する。吾らは日本軍の如き慈愛心の富める軍隊を、この地球上広大なりといえども他に発見し得るか怪しむものなり」

と絶賛し、中国軍の暴虐蛮行については次のように記している。

「ひるがえって中国軍を見よ。日本兵のひとたび彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるなり。その残虐非情なる行為は、正に野蛮人にあらざれば為し得ざるものなり。然るに日本軍は、これあるにもかかわらず、暴に報ゆるに徳をもってす。さすがに東洋の君主国に愧じずというべし。」

北清事変(義和団事件)において、当時従軍した日本軍の軍紀が欧米列強の評判となり、賞賛されたことは冒頭に述べたが、その事実の証として次のような事があった。

天津落城の際天津市民は、「大日本順民」と書いて日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表明した。

また北京落城後、列強連合軍は北京市内を国別に分割管理したのであるが、その時ロシア軍管区では、軍紀が乱れてロシア兵が暴徒と化し、虐殺、放火、強姦など暴行の限りを尽し、そのため市民は難を逃れて日本軍管区へ洪水の如くに押し寄せた。たまりかねた北京市長は、その暴状を英国公使マクドナルドに訴え、ロシア管区を日本管区に替えるよう嘆願したという。

これらの事実は、ウッドハウス・映子の『北京燃ゆ』やジョージ・リンチの『文明の戦争』等に記述されている。およそ戦争の形態とか様式などというものは、その国々の文化様式でもある。武士道社会の伝統を受け継いだ日本軍は、近代戦の戦場に於ても武士道精神を発揮し、軍律厳しく整然と戦ったのである。

そして日本政府は、在日中国人に対しては戦時中と雖も国際法を守り、彼らの生命財産を守ったのであるが、在中国の日本人居留民は、日中間に紛争が起こるたびに虐殺、掠奪、暴行を受けつづけたことは、日清戦争以来枚挙にいとまがない事実である。

さて、これらの事例は、外国人の見聞記であるところに大きな意味と価値がある。日本人の自画自賛では決してないのである。日清戦争から大東亜戦争に至る聖なる戦いを、日本人でありながら臆面もなく、総て侵略戦争なりと言い切る「似て非なる日本人」よ、もって如何となすや。

Re: 軍紀風紀頽廃(1)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/23 09:40 投稿番号: [28844 / 29399]
掃蕩経過ノ概要次ノ如シ

(1)中山路通リ出発午前十時三十分トス其ノ東方鉄道線路(南京鉄路)百年亭(北極閣ノ東方約八粁)ノ線ニテ概ネ午前十一時三十分鐘阜門―玄武門西連ヌル線午後零時三十分

(2)中央門西南方高地ヲ東北ニ亘ル線概ネ午後一時三十分

(3)其ノ以北和平門ニ至ル午後二時

(4)午後三時掃蕩終レバ第一大隊ハ和平門付近ニ第二大隊ハ中央門付近ニ兵力ヲ集結スベシ

(5)歩兵砲中隊ハ中央門北側高地ニ午前十時三十分迄ニ陣地ヲ占領シ城内外ニ脱出スル敵ヲ殲滅スベシ

(6)通信班ハ第一大隊、第三大隊、連隊本部間ニ電話連絡午前十時三十分迄ニ完了スベシ

(7)其ノ他(速射砲中隊及各隊小行李車輌ニシテ市内ニ持入リ出来ナイモノ)ハ速射砲中隊長ノ区署ヲ以テ中央門外ニ至リ待機スベシ

第三大隊ヨリ歩兵二分隊ヲ掩護部隊トシテ派遣スベシ

(8)第四中隊ノ一小隊ハ予備隊トス金川門外ニ位置スベシ

(9)余ハ先ズ金川門ニ至ル
連隊長   助川大佐

3.概ネ予定ノ如ク掃蕩ヲ実施中左ノ旅団命令ヲ受ケタルヲ以テ直ニ通信班ヲシテ旅団司令部―下関間ノ電話連絡ニ任ジセシメタリ

右側支隊命令   十二月十四日午後一時三十五分
於   南京中央門外司令部

一.軍(師団)ト海軍トノ連絡ノ為本日午後五時迄ニ左ノ如ク電話ヲ架設スベシ

旅団&#65533;I―&#65533;I歩兵第三十八連隊(昨夜ノ位置)、歩兵第三十八連隊

歩兵第三十八連隊&#65533;I―&#65533;I軍艦勢多歩兵第三十三連隊

但シ軍艦勢多ハ錨地京滬桟橋

4.午後五時三十分掃蕩ヲ完了ス其ノ結果付表第二ノ如シ

連隊ハ一部ヲ以テ和平門、中央門ヲ守備シ主力ヲ以テ宿営地ニ露営スル為左ノ命令ヲ下達ス

歩兵第三十八連隊命令   十二月十四日午後九時
於   下関

一.敗走セル敵ハ尚残留シアリ

二.連隊(第二大隊欠)ハ一部ヲ以テ要点ヲ確保シ主力ヲ以テ下関ニ兵力ヲ集結シ村落宿営セントス

三.第一中隊ハ和平門及中央門ノ守備ニ任ズベシ特ニ支那人ヲ一切出入リセシムベカラズ

四.各隊ハ外宿営者ノ指示セル所ニ従ヒ村落露営スベシ

五.露営司令官宮武中佐トス

六.本夜ノ給與ハ携帯セルモノヲ使用スベシ

七.第三大隊ハ連隊砲ノ給與ヲ担任スルモノトス

衛生隊ハ中央門外ニ繃帯所ヲ開設シアリ第三野戦病院ハ城内中央医院ニアル筈

八.余ハ露営地ノ略々中央ニ在リ午後十一時三十分命令受領者ヲ差出スベシ

↑上記のように統制はとれているし、食糧に関しても問題は無いし、馬鹿サヨの主張は中国の主張の焼写しだよね。

中国主張は公式の記録と整合性が全く無い。

Re: 軍紀風紀頽廃(1)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/23 09:40 投稿番号: [28843 / 29399]
1.敵ハ南京西北部下関ヨリ揚子江北岸ニ敗走セシモ我ノ進出急ナリシ為全ク退路ヲ扼止セラレ殆ド殲滅セラレタルモ城内ニハ尚抵抗スルノ意思ヲ有スル敵相当多数潜在シアルモノノ如シ十二月十四日旅団ハ南京城中央門以西ニ位置シ南京城内外ノ掃蕩ヲ徹底的実施センコトヲ企図シ左記命令ヲ下達セラル

当時旅団司令部ハ中央門外ニ在リテ連隊ハ下関ニ在リ連絡稍々不便ナリ

前衛命令   十二月十四日午前四時五十分
於   中央門外

一.敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意思ヲ有スルモノ散在ス

二.旅団ハ本十四日南京北部城内及城外ヲ徹底的ニ掃蕩セントス

三.歩兵第三十三連隊ハ金川門(之ヲ含ム)以西ノ城門ヲ守備シ下関及北極角ヲ東西ニ連ヌル線及城内中央ヨリ獅子山ニ通ズ道路(含ム)城内三角地帯ヲ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅スベシ

四.歩兵第三十八連隊(第二大隊欠)ハ金川門(之ヲ含マズ)以東ノ城門ヲ守備シ歩兵第三十三連隊掃蕩地区以東ノ城内及和平門中央大学農林ヲ連ヌル線以西地区ヲ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅スベシ

五.歩兵第三十八連隊第二第隊ハ玄武湖及柴金山ノ中間ニ在ル山岳地帯(之ヲ含ム以北ノ地区)ヲ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅スベシ

六.各隊ハ師団ノ指示在ル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ

七.野砲兵第一大隊ハ和平門北側付近ニ在リテ烏龍山砲臺方面ニ於イテ駐止セラルルト思ワルル敵ノ兵団ニ対シ適時射撃シアル如ク陣地ヲ選定シ其ノ準備ニ在ルベシ

八.独立軽装甲車第八中隊ハ其ノ一小隊ヲ速ニ湯水鎮ニ至ラシメ軍司令官ノ直轄タラシメ爾余ハ中央門付近ニ集結シ後命ヲ待ツベシ

九.迫撃砲隊ハ現在地ニ在リテ待機スベシ

一〇.工兵隊ハ予備隊ト成リ中央門外ニ位置スベシ

一一.余ハ中央門外ニ在リ
支隊長   佐々木少将

二   戦闘ニ影響ヲ及ボシタル気象及地形等ノ状態

1.日出時刻ハ概ネ午前七時ニシテ快晴気温ハ日中温暖夜間モ亦月明アリ

2.地形及住民
南京城内ニ避難民相当数有リタルモ之等ハ一地区ニ集合シアリテ掃蕩地区内ニハ住民殆ド無シ

三   彼我ノ兵力其ノ他ノ状況

1.敵ハ統制ノ許ニ我ト交戦ノ意図ヲ有スルガ如キモノ無キガ敗残潜在スル数ハ少ナクモ五、六千名ヲ下ラズ

2.我ノ兵力ハ第二大隊及連隊砲中隊、速射砲中隊

3.交戦セシ敵ノ團体号第三十六師ノ一部竝ニ教導総隊及清涼山砲臺守備隊ノ敗残兵ナルガ如シ

四   各時機ニ於ケル戦闘経過

1.掃蕩経過ノ概要別紙要図ノ如シ

2.連隊ハ午前九時掃蕩命令ヲ下シ午前十時展開線ニ就カントセシモ途中金川門其ノ他ニ障碍物多ク行進渋滞シ午前十一時ニ至リ予定ノ線ニ展開ス

歩兵第三十八連隊命令   十二月十四日午前九時
於   下関

一.敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意思ヲ有スルモノ散在ス

旅団ハ本十四日南京北部城内及城外ヲ徹底的ニ掃蕩ス

歩兵第三十三連隊ハ獅子山砲臺中山路中央三叉路以西地区及下関ヲ掃蕩ス

二.歩兵第三十八連隊(第二中隊欠)ハ和平門―金竜門―中山路(含マズ)ト中央門トノ大通交叉点ノ水關ノ地区内ヲ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅セント第二大隊ハ玄武湖以東柴金山ニ至ル間ヲ掃蕩スル筈

三.第一大隊ハ右掃蕩隊第三大隊ハ左掃蕩隊トス

両大隊掃蕩地域ノ境界模範馬路中央門南北ノ大道ヲ連ヌル線トス線上ハ左大隊ニ属ス

四.両掃蕩隊ハ午前十時中山路ノ線ニ準備スベシ

午前十時マデニ第一中隊ヨリ鐘阜門(中央門西方一粁)―玄武門―水關―北極閣及中山路トノ三叉点付近ノ要点ヲ一部ヲ以テ占領スルヲ要ス

軍紀風紀頽廃(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 05:36 投稿番号: [28842 / 29399]
防衛研究所収蔵資料の中に、旧軍の   軍紀風紀関係資料がある。
「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」
これは   大本営陸軍部研究班によって   作成されたもので、
その内容は   日中戦争時における兵士の性病に関する調査結果だ。

資料によると、   天津・杭州・蘇州の   3箇所の特設病院だけで、
1937年の開戦から   1939年までの   性病入院患者は、
1万6千人を超えていた   という驚くべき実態を   記録している。
この記録を   見ると、患者を   兵科別、役種別、階級別、年齢別、
感染機会別に分けた調査と、患者の   もとの職業別、教育程度別、
さらに、相手女性国籍別に分けた調査が   行われていたことが解る。

その結果は、兵科別では   輜重兵   砲兵に比較的多く、
役種別では   予後備役、補充兵役に多く、
階級別では   准士官下士官に比較的多く、
年齢別では   26歳〜30歳に多いことが示されている。

そして   明確に判ることは、感染機会が   内地からの帯患者よりも
戦地での感染者の方が   圧倒的に多くなっている   という事実だ。
また   感染地と   相手女性の調査では、備考として
「朝鮮女ノ活躍ハ他ヲ圧倒シアリ将来戦ノ参考タリ得ベシ」と
じつに   意味深長な文章が   書かれている。
ちなみに   役種別の患者数の調査結果は   以下のとおり。

   現役     1,156
   予備役    3,795
   後備役    4,363
   補充兵役   1,774
   軍属       809

これを見ると、予備役や後備役兵に   感染者が多いことが判る。
限られた期間の、しかも   3箇所の病院だけの調査ではあるが、
日本軍に   性病患者が   いかに増加していたか、
それも   戦地での感染者が圧倒的多数であったかが   示されている。
(引用資料:「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」
防衛研究所所蔵『支那事変ノ経験ニ基ク無形戦力・軍紀風紀資料第5号』)

急速な軍隊の拡大による幹部と兵の素質の低下、とくに後備兵の増加が
軍紀風紀の頽廃の原因となり、その結果が、兵士個人の犯罪である
掠奪、強姦などを多出させたことが   こうした資料からも読み取れる。

その対策の一つが、組織的な慰安婦の動員、慰安施設の導入となり、
軍みずからが   管理と統制に   乗りだすことになったのだ。

軍紀風紀頽廃(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 05:15 投稿番号: [28841 / 29399]
参謀総長が異例の通達を出すほど、軍紀風紀は頽廃していた。
開戦後2年間のみに限っての軍紀風紀にかんする犯罪非違の
調査によると、日中戦争の戦地における   犯罪非違は、
日清・日露戦争に比べても   はるかに   高率となっていた。

以下は、無形戦力軍紀風紀資料第一号   『支那事変ニ於ケル
犯罪非違ヨリ視タル軍紀ノ実相並ニ之ガ振粛対策』   という
大本営陸軍部研究班が   昭和15年に作成した   資料による
軍隊内の犯罪数を   示したものだ。

  日清戦役(全戦役)   3387   内地1906   戦地1481
  日露戦争(全戦役)   5234   内地3780   戦地1454
  日支事変(2年間)   5221   内地2047   戦地3147

この数は、憲兵隊が取り扱ったもの   だけであり、
「実数ハ之ヨリ増加スベシ」   とされている。
そのうえで、戦地での   犯罪数は、日清・日露戦争よりも
「今次事変ニ於ケル犯罪数著大ナルヲ知ルベシ」   としている。

非違の発生件数は、日清・日露の記録がないので比較できないが、
「今次事変」   では   3万2964名にも   達しており、
しかも、「刑法処分ニ処スベキモノ本人ノ功績ト犯行ノ情状トヲ
酌量シテ行政処分ニ附シタルモノ相当数アリ」
「シカモ軍紀上相当悪性ナルモノ多数発生シツツアルニ於テオヤ」
としている。

つまり、軍法会議に付された   犯罪、懲罰権者の処罰ですませた
非違の双方とも、日中戦争下で   軍紀風紀犯罪が   多発している
という調査結果が   示されている。
こうした犯罪のなかで、もっとも多かったのが   掠奪だった。

上海から南京への追撃戦は   補給を無視しての急進撃で、
給養は   すべて徴発に頼った。
徴発といっても   そこは敵国であり、実態は掠奪にほかならなかった。
兵士の日記には、ほとんど例外なく、毎日   無人の集落から
何を徴発したかが   書かれているが、それは無統制に、
兵士が   勝手におこなう掠奪だったことを   具体的に示している。

徴発には   国際法があり、規則があった。
しかし、中国戦線で   それが守られることは   ほとんどなかった。
次のような南京攻略戦のさいの第九師団経理部将侯の記述がある。

   徴発品の代金支払は如何にされて居つたか、
   軍隊は強盗でも山賊でもない。
   必ず代金を払って買はねばならないのである。
   (中略)   後日所有者が代金の請求が出来るようにして
   置かねばならない故に   徴発書はかねて印刷配付して
   所要の事項を記入すればよいようにして(中略)ある。
   しかるに後日所有者が代金の請求に持参したものを見れば
   其記入が甚だ出鱈目である。
   例へば○○部隊先鋒隊長加藤清正とか   退却部隊長蒋介石
   と書いて其品種数量を箱入丸升とか樽詰少量と云ふものや
   全く何も記入してないもの   甚だしいものは単に馬鹿野郎
   と書いたものもある。   全く熱意も誠意もない。

でたらめな記入をした徴発書では、代金の支払いはできない。
中国の人々は、食糧などの物資を   だまし盗られたことになる。
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