南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Re: 元首相が慰安所設置に関与していた資料

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/18 06:19 投稿番号: [26482 / 29399]
海軍航空基地第2設営班(隊長・矢部雅士海軍技師)の工営長(海軍技師)だった宮地米三氏がまとめたもので、1962年4月に、その文書の複製がつくられ、それを同研究所が収蔵してきたものです。

と言うことらしいけどね、国の資料との整合背は誰も検討していない様だね。

何故なら主計の報告書、つまり会計報告書があるはずだよね。

慰安所を海軍が作れば、国有財産だからね、リストがあるはずだよね。

少なくとも戦後連合国の接収リストには残っているはずだよね。

所で防衛省は何時でも戦争資料は公開しているからね、誰でも見ることは出来るんだよ。

1962年に写しが取られて2011年に新聞記者が探し出した、然し外の資料との整合性は検討していない、馬鹿な話しだね。

所で海軍技師は軍属で兵隊では無いからね、知ることは出来ないはずだよ、主計の内容を。

Re: 元首相が慰安所設置に関与していた資料

投稿者: osakanakn123 投稿日時: 2011/11/17 23:06 投稿番号: [26481 / 29399]
防衛省が所蔵している旧軍関係資料の中から発見されたらしいね。
いまさら中曽根の爺さんを失脚させる意味もないだろ。
なんで防衛省はそんなもの表に出すんだ?

Re: 元首相が慰安所設置に関与していた資料

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/17 22:09 投稿番号: [26480 / 29399]
そうだよね、資料の裏付けのない単なる聞き取り資料だからね。

それとも、裏付けが取れているんだろうか?

誰も裏付けを示せないようだね。

中曽根降ろしのデマゴギーと思うけどね。

Re: 元首相が慰安所設置に関与していた資料

投稿者: osakanakn123 投稿日時: 2011/11/17 21:03 投稿番号: [26479 / 29399]
>資料発見じゃなく、資料捏造だよね、戦後に。

誰が捏造したの?
それが事実だとしたら、大変な事件だよ。

Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

投稿者: s339sjapaniy56 投稿日時: 2011/11/17 19:54 投稿番号: [26478 / 29399]
事実を   書け

元首相が慰安所設置に関与していた資料捏造

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/17 08:44 投稿番号: [26477 / 29399]
資料発見じゃなく、資料捏造だよね、戦後に。

元首相が慰安所設置に関与した資料・補足

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/17 00:38 投稿番号: [26476 / 29399]
防衛省防衛研究所戦史研究センターの史料室は、目黒区にある。
アクセスなど   詳しくは、同研究所のHPを   検索されたい。
閲覧できる文書は、一部を除いて   コピーも可   となっている。
ただし、コピーが届くのに   3週間程度   かかることがある。

敗戦直後、軍の命令によって   多くの機密書類が   焼失したが、
それを免れた貴重な資料が   数多く収集され、保存されている。
旧軍関係資料を調査するうえで、何度か足を運ぶ必要があるが
新たな事実の発見や、既出資料の検証につながることも   多い。

ところで、前述した   中曽根元首相が慰安所の開設に積極的に
関与したことを示す   資料には、施設の配置図が含まれている。
当人は、記者の質問に対し、「碁を打つなど休息所の目的」で
設置したと語った慰安所だが、事務所や隊員宿舎の中ではなく、
営舎から最も離れた場所に   置かれている。
  ↓
http://fujihara.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/10/27/photo_9.jpg

慰安所は、その周りに   囲いが巡らされている。   一見すると、
数多くの   建物の中で、わざわざ   囲いを   設けているものは
医療班の施設と   慰安所だけのようだ。   宿舎から   一番離れた
慰安所に行くには、司令部の前を   通っていかなければならず、
「碁を打ち」   に行くにも、ずいぶんと   不便なようだ。

元首相は07年3月の記者会見で、自ら設置した慰安所について
「工員の休憩と娯楽の施設を作ってほしいということだったので
作ってやった」   と語る一方で、慰安婦への軍の関与に関しては
「具体的なことは知らない」   と言葉を濁すに   とどまった。
ただし、「日本として   謝罪すべき問題だ」   とも語っていた。

記者から   「ではその施設では何をしていたのか」   と問われ、
「碁を打っていた」   などと回答した。   この説明は当時から
信用されてはいなかったが、この発言を覆す証拠も   無かった。
今回の資料発見で、証言内容の信憑性が大きく揺らいでいるが、
報道に対して、本人は   現在のところ沈黙の姿勢であるらしい。

いまや唯一の昭和の宰相であり、軍隊経験のある政治家として、
国際的に注目されてきた慰安婦問題の真相解明にも責任がある
中曽根康弘元首相は、幸いにも   高齢ながら   お元気のようだ。
新たな証拠が   出た以上は、自らが取り計らった   慰安所には、
何名の女性を、どのようにして   集めたのか   などについて  
具体的に、正直に   語っていただく   必要がある。

また、女性たちを   どのように働かせたのか明らかにすべきだ。
まさか、「原住民の女を襲う」ほど欲望が溜まっていた兵たちの
碁や将棋の相手だけをしていた   と言うのだろうか。
そんなことをさせていたら、むしろ   兵隊は“生殺し”状態で
風紀の乱れに   拍車がかかったことだろう。

実際に   慰安所開設のために   現地の女性たちを集めた事実が
防衛省が保管する   記録資料によって   明らかになった現在、
慰安所で「碁を打っていた」   というだけの説明は通用しない。
軍が自ら設置した   「慰安所」の実態を   明確にすべきだ。

元首相が慰安所設置に関与していた資料発見

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/17 00:36 投稿番号: [26475 / 29399]
最近、中曽根康弘元首相が   戦時中に慰安所設置に関わっていた
記録が   防衛省が所蔵している旧軍関係資料の中から   発見され、
戦争遺跡の調査や   保存に取り組んでいる市民団体が   発表した。
これは   「海軍航空基地第2設営班資料」   という記録資料で、
防衛省防衛研究所の史料閲覧室で   確認されたものだ。

この資料は、第2施設隊工営長だった宮地米三氏(海軍技師)の
自筆を含めた資料をもとに   1962年に   防衛省(当時庁)が
まとめたもので、「第二設営班   矢部部隊」   の活動状況が
25頁にわたり   記録されている。   そこには、隊長、工営長、
軍区長とならんで   主計長として   中曽根康弘の   氏名がある。

資料には   班の編成や装備、活動内容とともに   バリクパパン
(インドネシア・ボルネオ島)で   飛行場の整備が   終わり、
「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」   「主計長の取計で
土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」
(原文のママ)   と記録されている。
さらに、民家を接収して   慰安所にした   地図などもある。

中曽根は   以前、『終りなき海軍』という本に   回顧録を寄稿し、
設営隊の主計長として   バリクパパンに上陸した当時を振り返り、
「三千人からの大部隊だ。   やがて、原住民の女を   襲うものや
バクチにふけるものも出てきた。   そんなかれらのために、私は
苦心して、慰安所をつくってやったこともある」   と記しており、
慰安所建設に   直接関与していた事実は   認めていた。

しかし、記者会見では   「慰安所は   軍人らが   碁を打つなど
休息所の目的で設置した」と、「慰安婦」を置く慰安所設置は
否定していた。
発見した市民団体は、「中曽根氏が現地の女性を集めて慰安所を
設置するよう計らったことは明らか」であり、「軍の関与を示す
重要な資料」である   としている。

資料によれば、
(1)軍自身が   慰安所建設に   積極的に   かかわった
(2)インドネシア人女性を集めて   慰安所をつくった
(3)42年3月11日に   海軍基地内に慰安所が開設された
などの具体的な記述があり、慰安所の配置図も   明らかになった。
防衛省の所蔵文書であり、本人の回顧禄の   記述に照らしても
整合性がとれており、確証の高い   一級資料に   間違いない。

記録には、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」   とあり、
中曽根の回顧にも「原住民の女を襲うものやバクチにふける」
者も出てきたとあることから、基地内の風紀の乱れの深刻化、
兵士の非行増加が、慰安所設置の必要性を   高めたのだ。

これより以前に、中国戦線でも   現地で性病に感染する兵隊が
戦力低下が懸念されるほどに増大し、対策として軍が慰安所の
整備に関与した事実が確認されているが、海軍基地でも同様に
兵の欲望を満たす必要に迫られていた実態が   表されている。

「三千人からの大部隊」の「慰安」のため、どれほどの人数の
現地女性を、どんな手法でかき集め、どのように働かせたのか。
中曽根元首相は   自ら真実を明らかに   するとともに、
政府は   さらなる調査を   すべきだろう。

Re: 「終戦日記」を読む・・野坂昭如

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/14 14:16 投稿番号: [26474 / 29399]
戦闘詳報に出て来る言葉は、「停戦に関する詔書」「終戦に関する詔書」「武器弾薬を管理区に移し最小限の武器を持って警備せよとの命令」等々統一はされていない。

然し乍ら、「戦争終結」はサンフランシスコ条約発効と同時だよね、国際法上はね。

Re: 「終戦日記」を読む・・野坂昭如

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/11/14 13:39 投稿番号: [26473 / 29399]
<nyankotyanndamon>

八月十五日は戦闘中止命令が出た日です。

終戦とは違います。



そう、正確には停戦と武装解除の命令が宣告された日だね。

だが、一般的な記録文献に出てくる場合は、戦闘終結と言う意味で「終戦」と書かれるのだよ。
日本語では、一般的に「終戦」と言えば「戦争終結」を意味するのだけれど、戦時下の当事者であった人達にとっては「戦闘終結」が「終戦」の意味であったのだよ。

まあ、ロシアが関与していた地域では、日本が降伏を宣言した日でしかなかったのだけれどね。
武装解除した相手を武力侵攻で征服したソ連は、真っ黒な国際法違反国家ということですな。

Re: 「終戦日記」を読む・・野坂昭如

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/11/14 13:29 投稿番号: [26472 / 29399]
軍人の家族は、避難民ではない。
軍命により撤収する最中に終戦を迎えて、足止めを食らっていたもの達だ。
故に私物を持ち、食料を持っているのだ。

避難勧告されても、現地召集で夫や兄弟あるいは父親が前線にいた家族はぎりぎりまで避難をせずに待っていて終戦を迎えた。
故に、私物も持たず、食料も十分調達できずに逃げるしかなかったのだ。

どちらも非があるわけではない。
非があるとすれば、終戦に対して十分な準備をすることを妨げた本土決戦派の軍人達にある。

軍命で朝鮮半島経由で撤収した多くの軍属家族や官吏の家族は、終戦を朝鮮半島で迎えて苦境に遭う事となった。

一方、ぎりぎりまで待って終戦を迎えた避難民である引揚者は、ソ連の非道を避けて大連付近の港から出航する引き揚げ船を目指した。
長い陸路で、食料や飲料水は満足ではなかったが、全くなかったわけではない。

そればかりか、沿線の支那住民や引揚者の防衛に当たっていた日本兵などによって指し入れもあり、病になるものは国民党政府や連合軍下の野戦診療所や医療施設で診療を受ける事もできた。

だが、客車でなく貨物列車に集団で乗り込み、軍閥兵士などの目から女子供を隠しながらの逃避行で、多くの人が結核や肺炎で離脱した。

だが、戦時下の郊外や辺境では、物資が既に不足気味であった。
それを日本軍のせいだと決め付けるのは、無知の至りだ。
終戦以前は繰り返される支那軍閥や賊による略奪で、終戦と共に二つの中国政府の軍が物資その他の収奪を繰り広げたために、民衆の下や地方に十分な物資が存在していなかったのだ。

野坂昭如は、終戦当時小学生だ。
この藤原と言う御仁も終戦当時はまだ小学生だったと記憶する。

「行李の(こうりの)中からは缶詰や砂糖やいろいろ出てきて、楽しそうに食べている姿がうらやましかった」と言う記憶が、妬みや嫉みとなって後の戦前批判へ大きく影響を及ぼしている。

当時の現実を事実として向き合うに足るメンタリティーを備えていない御仁達だ。
野坂昭如の場合は、晩年になって逸れに気付き言論を控え改めるようになったと伝え聞く。

Re: 「終戦日記」を読む・・野坂昭如

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/14 08:09 投稿番号: [26471 / 29399]
八月十五日は戦闘中止命令が出た日です。

終戦とは違います。

歴史を知らんお馬鹿ちゃんだね。

お〜〜〜いドラワサ

投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2011/11/14 06:13 投稿番号: [26470 / 29399]
誇らしい祖国の国民としての権利である投票権が与えられるというのに初日の登録が227人?
どういう事だ?

http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C81818A9993E2E6E5E28DE3E1E3E3E0 E2E3E3E2E2E2E2E2E2


権利が発生すれば義務も伴う。
前等は犯罪者である密入国者の子孫であることがばれたぞ。

「終戦日記」を読む・・野坂昭如

投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2011/11/14 01:17 投稿番号: [26469 / 29399]
★終わりではなかった八月十五日

・・藤原ていは8月15日に、現在の北朝鮮の宣川という町で、避難生活を送っていた。手記の8月15日の項には、敗戦のショックと、それに続くそれ以上の「不安」がはっきりと描かれている。

・・日本は負けた・・私は咲子を背負ったまま座っていた。逃げるとすればこのわずかなリュックサックの全財産を捨てねばならなかった。

同じ頃には、すでに食料が乏しくなる中で、避難民の中でも、軍人の家族が私物を沢山持っていて「行李の(こうりの)中からは缶詰や砂糖やいろいろ出てきて、楽しそうに食べている姿がうらやましかった」とも記される。

・・・

日本軍の食糧問題?

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/11 08:33 投稿番号: [26468 / 29399]
ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、1947年(昭和22年)10月27日である

食糧がない状態で、生きて行けたんだね、ガダルカナルでは。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
インパール作戦


餓鬼や幽鬼のような姿で街道を引き揚げた日本の将兵たちは、誰一人、街道筋にある村や家畜、畑を襲っていない、ということです。

お腹も空いていた。
病気にもかかっていた。
怪我もしていた。

退路の街道筋には、ビルマ人の民家が点在しています。
そこでは、時間になれば、かまどに火がはいり、おいしそうな食事のにおいがあたりをおおいます。

屋根だってある。
場所は熱帯です。
猛烈な暑さ、湿度、スコール等々。
自然環境は厳しい。
怪我をした体に、屋根は本当にありがたいものです。

けれど、誰一人、民家を襲ったり、食い物を奪ったり、家畜を殺して食べちゃったりとかをしていない。

退路を引き上げる日本兵は、銃を持っているのです。
銃で脅せば、飯も食える。
屋根の下に寝ることだってできる。
怪我の薬を奪うことだってできる。
腹いっぱいになったら、その家の娘や女房を強姦することだってできたかもしれない。

世界では、銃を持った敗残兵が、そのようなことをするのは、いわば「常識」です。
自分が生き残るためなのです。
しないほうが、おかしいといっていい。

けれど、約6万人が通り、うち4万名が命を落とした街道筋で、日本兵に襲われた民家というものが、ただの1件も、ない、というのは、どういうことでしょうか。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「日本軍は捕虜たちを残酷に扱ったといわれているけど、自分たちにはそんな自覚はちっともなかった。だって、炎天下であろうがなかろうが、日本軍にとっては一日10キロも20キロも歩くには当たり前。いつも通りのことをやったら、捕虜たちがバタバタ倒れてしまっただけだ」

パターンの行軍。

米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、日本軍も捕虜にまわす食料の余裕は無かった。

↑米兵の食糧は降伏前に尽きていたんだね。

捕虜になる前から、米兵は疲弊していたんだと、死ぬ間際に日本軍に依って救われたんだね。

可哀相な、見捨てられた米兵達。

英霊」の大半が餓死という侵略軍の実態

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/11 00:22 投稿番号: [26467 / 29399]
中国大陸に武力侵攻した   日本軍が、南京などで   捕虜にした
多数の中国軍兵士を   組織的に   大量殺害した事件の背景に
補給線確保の軽視という   日本軍の特質が要因の一つとして
あったと考えられる。   自軍の給養さえ   困難な状況のうえに
予想を超える   大量の捕虜が発生し、給養に窮し殺害に及んだ
という証言や   軍関係史料などが、それを   裏付けている。

日本軍の補給軽視の戦略的欠点は、捕虜の殺害だけではなく
占領地において   略奪行為などが   多発する事態をも招いた。
さらに、大戦の   全般を通じて   日本軍兵士の   戦死者のうち
直接の戦闘による死亡者数を   餓死者の数が   上回るという
およそ   近代軍とは   思えないような惨状を   招くものとなった。
なお、大量餓死の発生は、中国大陸においても   顕著だった。

太平洋の孤島や   南方の密林とは違って、多くの人々が住む
中国では、餓死者などはなかったと思われやすいが、敗戦前
2年間の中国戦場では   病死者は戦死者を   上回っていた。
歴史学者の藤原彰が『餓死した英霊たち』(青木書店・01年)
のなかで、1994年に刊行された長尾五一軍医中佐の遺著
『戦争と栄養』   などをもとに、その事実を   裏付けている。

中国戦線で   最後の作戦となった第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月〜6月の   3カ月間の死者数は   戦死が695人、
戦傷死322人、戦病死2184人、計3201人にのぼり、
「第二十軍の統帥発動以来終戦までの各種比率」については
「戦死、戦傷、戦病死   おおむね   4対5対91」   である。
(第二十軍軍医部の戦死・戦病死者別一覧表の注)

戦死、戦傷より「戦病死」が圧倒的だ。藤原はこの点について
「負傷した後に   包帯所や、野戦病院で死亡する者が多かった
ことは、患者の給養がきわめて悪かったことと無関係ではない。
これも広く餓死の分類に入る」   「病気の大部分が   長期間の
不十分な給養で、栄養失調状態にあって病気に対する抵抗力を
失っていたため、戦病死に至った」   と分析している。

中国戦線での   45万の戦没者の   過半数が   戦病死、しかも
給養不足に基づく   栄養失調や、それが原因での体力の消耗
による   広い意昧での   餓死であった   ということだ。
日本軍が、補給らしい補給もなしに   現地調達する方針は、
明治以来   一貫していた。   日清戦争でも朝鮮出兵軍からの
補給困難の訴えに対し、参謀本部は次のように訓令している。

「古昔、兵家の格言に因糧於敵(糧を敵に因る)の一句あり。
爾来   内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものは
この理由に外ならず。…糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、
いわんや   これを運搬する人夫においてをや…」
(明治27年6月29日、参謀総長熾仁親王から混成旅団長
大島義昌あての訓令)

「因糧於敵」、これが   侵略軍としての   行為の根本にあった。
日本軍兵士の   戦地栄養失調症を含む広い意味での餓死者は、
合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万の
約60%   という割合になる。   靖国神社が「英霊」として
誉め讃える戦死者のうちの半数以上が、華々しい戦いの中に
散ったのではなく、惨めな餓死と   衰弱死に   追いやられたのだ。

遊就館と対照的な東南アジアの戦争博物館

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/11 00:21 投稿番号: [26466 / 29399]
タイ国   カーンチャナブリーに   「JEATH博物館」がある。
この博物館は、太平洋戦争中に   日本軍の   指示によって
泰緬鉄道建設のために   強制労働に従事した   捕虜に関する
資料の保存・展示を   行っている。   博物館名は   日本(J)、
イギリス(E)、オーストラリア(A)と   アメリカ(A)、
タイ(T)、オランダ(H)   の頭文字を並べて付けられた。

JをDに変えると   「DEATH(死)」   が連想できる。
実際、最初は   DEATH   という案だったが、タイの
国民性に合わない   ということで   現在の名になったという。
なお、泰緬鉄道は   別名「死の鉄路」   とも呼ばれていた。
館内には、再現された   鉄道建設時の連合国軍捕虜収容所、
捕虜による絵画作品など   多数の資料が   展示されている。

泰緬鉄道はバンコクの西、ノンプラドック駅からビルマの
タンビュザヤまでの   延長415キロの   鉄道のことだ。
この鉄道を   一躍有名にしたのは、「クワイ川鉄橋」   だ。
捕虜虐待、過酷な強制労働の実体験に基づいて   書かれた
『戦場に架ける橋』という作品で   世界的に知られている。

泰緬鉄道の建設には   主に東南アジアの日本軍占領地から
動員された「ロームシャ」(中国、インドネシア、ビルマ、
マレーシア、インド、シンガポール、タイ)と連合軍捕虜
(米、英、オランダ、オーストラリア)   が投入された。
その数は、じつに40万人にも達した   と言われている。

ジャングル地帯での酷使と   コレラ、マラリアなど伝染病で
人員の半数近くが   未帰還だったとされている。泰緬鉄道が
現地で   「死の鉄路」   とも呼ばれているのは、このためだ。
日本軍は、ミッドウェー戦に敗北し、ビルマへの海上補給が
困難になったため、ビルマ経由の蒋介石政権への補給ルート
切断と、インパール作戦への戦略的補給路が「使命」だった。

しかし、インパール作戦の敗北で   所期の目的は   果たせず、
皮肉にも、日本軍がビルマから敗走するための経路になった。
手当ても受けられず、半死半生のまま   貨車で運ばれてくる
惨めな日本軍敗残兵の姿に、工事を生きのびた捕虜達ですら
哀れみ、食糧を与えたと   現地では語られている。
JEATH博物館は、その戦争の悲劇を   現代に伝えている。

展示資料の中に、連合軍の捕虜が   収容所内の生活を描いた
スケッチブックがある。空腹のあまり食べ物を盗んだ捕虜を
ロープで縛って吊るしたり、座らせた   足の間に棒を入れて
立てなくしている拷問の絵もある。映画『戦場に架ける橋』
には、捕虜を   炎天下に立たせたり、重営倉に閉じ込める
懲罰の場面があるが、現実に比べれば   まだ   生やさしい。

以前に訪れた   ヤスクニ神社の戦争博物館「遊就館」にも、
泰緬鉄道に関する   展示があった。   「短期間で建設した」
などと、“皇軍の優秀さ”を誇ってはいたが、
そこで強制労働の下で犠牲となった   数多の捕虜や労務者の
苦しみの実態については、一切   触れられていなかった。
戦争を美化し、歴史の真実から目を背けさせるものでしかない。

ぶっ壊れたfukagawatohei

投稿者: koudousuru009 投稿日時: 2011/11/09 09:08 投稿番号: [26465 / 29399]
>じゃ〜、オマエと同じじゃねぇ〜か。
オマエの主食の話はもう飽きたぜ、ボケ!

日本人への憎悪の他には罵詈雑言があるだけである。

理由も根拠も無く日本人を憎悪じている内に、

脳細胞も精神も完全に壊れてしまった。

どんなに日常生活を送っているのだろう。

ぞっとする。

Re: 支那人に食われた南京市民

投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2011/11/09 08:30 投稿番号: [26464 / 29399]
>孔子の時代から支那人は、人食いが大好きですから、>

じゃ〜、オマエと同じじゃねぇ〜か。
オマエの主食の話はもう飽きたぜ、ボケ!

コピペロボットfukagawatohei  (笑

投稿者: koudousuru009 投稿日時: 2011/11/08 11:19 投稿番号: [26463 / 29399]
同じものを何十回も    (笑

議論では負けるから    (大笑

支那人に食われた南京市民

投稿者: stmtr314stmtr 投稿日時: 2011/11/08 10:10 投稿番号: [26462 / 29399]
孔子の時代から支那人は、人食いが大好きですから、
恐らく、南京事件では数十万人の人が支那人の胃袋で消化されたでしょう。
間違いない。

日本政府公式文書

投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2011/11/08 09:03 投稿番号: [26461 / 29399]
元慰安婦の方々に対する

小泉内閣総理大臣の手紙

拝啓

  このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。

  いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。

  我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。

  末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、心からお祈りしております。

敬具

平成13(2001)年

日本国内閣総理大臣   小泉純一郎

◆慰安婦問題の捏造者吉見教授とは何者か

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/07 21:30 投稿番号: [26460 / 29399]
超オマヌケな吉見さん

過日、「日本の戦争責任資料センター」が従軍慰安婦の徴用に軍の関与があったことを示す資料と称するものを発表しました。

日本の戦争責任資料センターという名前からして結果ありきの組織がまるわかりですが、会見ではおなじみの吉見義明氏が登場しました。

90年代以降の保守派の完膚無きままの反撃で、とうとう議論の場にも姿を見せなくなり、もはやどこかでご隠居でもされておられるのかと思いきや、まだ元気に活動されているようです。

このたび発表した資料とは、東京裁判での被告となった日本軍人の供述調書だとのこと。

これについて最初に思ったことはご苦労さまといったところです。

さんざん探し回って出してきたのは東京裁判の供述資料とは、本当に資料がなくて苦労されているのですね。

しかも、新資料でもなんでもありません。

外国人記者からも「どの部分が新たに発見された資料なんですか?」と質問され、ちょっと答えに苦しんでいるようでした。

吉見教授はもちろんですが、慰安婦問題について騒いでいる人については、
「あなたは吉田清治が慰安婦狩りの本を出版する以前に、少しでも従軍慰安婦を問題視したことはありますか?」
と質問すればいいでしょう。

吉田清治とは周知の通り、自らが済州島で慰安婦狩りを実行したということを記した本を出版した人ですが、秦郁彦氏らの現地調査などにより、ほぼ虚構であるということが立証されており、本人も概ね認めています。

つまり、吉見教授及び朝日新聞らは、吉田清治の本に飛びついた人たちで、
吉田の本が嘘であるということがわかったあとも、振りあげたこぶしの下ろしどころがみつからず、はしごを外された格好になっているのです。

そのなかで、いくら資料を見つけて自分たちを正当化しようとしても、出発点がこんなものだから、どうあがいたところで苦境から脱出することはできないどころか、恥の上塗りを続けるだけになってしまうのです。

歴史を考えるときにファクト(事実)とリアリティ(真実)を組み合わせて考えることが大切であるということを常々述べています。

吉見教授が新資料(?)と言っているのはファクトに過ぎないんですね。

日本の朝鮮統治はそもそも西洋諸国の植民地とはまったく異なるものでした。

朝鮮人の陸軍中将もいたし、朝鮮人の衆議院議員もいました。もちろん選挙権もありました。

戦前に、イギリスにインド人の将軍がいたり、インド人の下院議員がいるようなことは考えられないでしょう。

日韓併合以降、朝鮮人の識字率は急激に上昇しているし、日本統治下の朝鮮人はどういう状況だったのかというリアリティがあるのです。

日本軍の指令によって朝鮮人女性が強制的に慰安婦にさせられるような状況であるのなら、おそらく朝鮮人男性を徴兵し、フィリピンなど苦しい戦場に送っていることでしょう。

日本本土の若者が赤紙により徴兵されているときに、なぜ最後まで朝鮮人男性は徴兵されなかったのか。むしろ、大東亜戦争中、まさに慰安婦が募集されているとき、日本軍に志願する朝鮮人が多数いて、数十倍の倍率となっていたぐらいです。

吉見教授らはこの歴史の流れを無視して、ひとつのファクトを新資料として持ち上げているに過ぎないのですから、歴史学者としての資質も問われるでしょう。

◆デマ・捏造・嘘まみれの慰安婦の証言

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/07 21:28 投稿番号: [26459 / 29399]
従軍慰安婦の正体は自分の意思で売春婦になったか、ブローカーなどの朝鮮人に騙されて 売られた人達です、慰安婦の斡旋は朝鮮人業者の、商売でもあったからです。

多くの元朝鮮人慰安婦達が、日本軍によって強制連行でないと証言してる。

1.中国に連行された、洪江林は「近所のおばさんに誘われて、奉天の売春宿に入った」

2.洪愛珍は「見習いを経て14歳の時に朝鮮人に騙されて、上海の売春宿に入った」

3.河君子は「1944年、17歳の時に朝鮮人の2人に慰問団と騙されて漢口の売春宿に入った」

文玉珠の証言「顔見知りの朝鮮..人に騙された」
結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、
というのが実態である。

  金学順とはこんな人です。
  平成3年8月11日付け朝日新聞は、社会面トップで「思い出すと今も涙」「元朝鮮人従軍慰安婦   戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、「日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦の
うち、一人が」名乗り出たと報じた。

  しかし、この女性、金学順は、「女子挺身隊」として連行などされていない事を、8月14日の記者会見で自ら語っている。
ある韓国紙はそれを次のように報じた。

>生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番に売られていった。
三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった

>「ハンギョレ新聞」'91年8月15日付
  当時、内地でもよくあった気の毒な「身売り」の話なのである。
  国家による組織的な強制連行とは関係ない。

  続いて、4〜5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんの証言。
  米軍がレポートした慰安婦の実態も合わせてお読み下さい。

一年後の証言、

「日本と朝鮮の憲兵、刑事に強制連行された」

「しかし、一年後に脱走して帰郷した」

「その後、食堂で働けば金になると騙されて再び慰安婦になった」


また、文玉珠は、自分の不注意で失効した郵便貯金の返還要求し裁判を起こし、その中で1943年 から1945年までの3年足らずで売春業で26,145円を貯金した、現在の貨幣価値で8千万円くらいです。陸軍大将の年収が6,600円の時代に、日本軍の性奴隷が陸軍大将より稼いでいる、どこが性奴隷 なのでしょうか。

「ナヌムの家」の元慰安婦は、生活の糧を得るために「慰安婦芸」を披露して日本を呪うです。
また、「水曜集会」に積極的に参加して、可哀想なお婆さんへの寄付を各地で求め、被害者を 自称し多額の寄付金を得て利権にしている。

「水曜集会」などで騒いでいる元慰安婦は偽者であると、軍事評論家の池萬元に指摘されている。

嘘で塗り重ねて、個人の理由で売春婦になったのに、日本の責任して日本人の心を傷つけても おかまいなしです。

◆とっくの昔に決着済みの慰安婦問題

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/07 21:26 投稿番号: [26458 / 29399]
従軍慰安婦論争というのは歴史研究という点では、ほとんど決着がついているといっていい問題であり、最近ではほとんどの新聞が“従軍慰安婦”とは呼ばず、“慰安婦”と呼ぶようになっている。

もはや過去の論争になりつつある問題ではあるが、最近では一部のアメリカ人が再び取り上げたりすることから、念のため最後にもう一度だけ総括してみたいと思う。

“いわゆる”従軍慰安婦についての論争というものは、実は1980年代までほとんど存在しなかった。

80年代に吉田清治なる人物が、自分が慰安婦狩りをやったことを記す著書を発表して物議をかもし、左派歴史学者や朝日新聞などがこれに飛びつく形で論争が勃発するのである。

吉田の著書によると、韓国の済州島で奴隷狩りのごとく多数の現地女性を強制連行し、戦地に連れて行ったということだったのだが、その後、日本の研究者が現地に調べに行ったところ、目撃者が1人もいないことが判明し、吉田自身も後に偽りであることを大枠で認めてしまった。

そこで振りあげたこぶしを下げることができない左翼歴史学者たちはどうしたのかというと、強制連行説を引っ込めて、“強制性”があったということを言いはじめた。

“強制性”とはだまされて連れて行かれたということなのだ。

現在ある論争は、ほぼすべてといっていいくらい、80年代以降に巻き起こったこの従軍慰安婦論争の延長線上に行われている。

まず、当時の国際情勢は、戦地、占領地での強姦は黙認されている状況だった。

日本軍があえて多くの予算を使って慰安所を設置したということは、戦地の住民に被害を与えないようにするための政策だったということを一方で証明しているのである。

それなのにわざわざ遠い朝鮮半島で慰安婦狩りをやっていたとするのなら、完全に“reality”(現実)に欠ける話であるどころか、その行動は意味不明だとしかいいようがない。

ましてや、当時の韓国人は日本人として扱われていたのだから、戦争している中国人女性以下の扱いを受ける理由がまったくわからない。

  そもそも、こんな不自然なところから論争がはじまったので、その後の議論もリアリティーの欠けるものとなってしまっているのだ。

ファクトとしていうと、慰安婦の半数以上は日本人であって、朝鮮人も多数いた。

そして、そのなかで朝鮮人の慰安婦がいたというファクトだけを取り上げて、なぜ朝鮮人が慰安婦になったのかというところだけを考え、強制か強制じゃないかという論争に持ち込もうとするから、そこにはリアリティがまったく存在しないのである。

  当時の情勢を考えると、日本でも東北地方などは非常に貧しくて、貧しい家では娘が売られていくような現実があった。

ましてや、韓国は日本よりも相当遅れていたことから、貧困の度合いはかなりのものだった。

日本軍が慰安所を設置するということで、女衒(ぜげん)といわれる業者が日本、韓国で慰安婦を募集した。
親が娘を売ることがまかり通った時代である。
貧しさのあまりやむなく慰安婦になることを決めた人、親にだまされ、村人にだまされ泣く泣く慰安婦になった人も多数いたことだろう。

こんな状況で現在の価値観から判断して、だました、だまされていない、などと言ってみても仕様がないのではないだろうか。

慰安所を設置した日本軍が悪かったのか、慰安婦を集めた女衒が悪かったのか、娘をだました親が悪かったのか。

歴史論としては、ただ、そういう時代があったということを語るしかないだろうと思う。
慰安婦は女衒が集め、慰安所は民間業者が経営していたが、日本軍が慰安所を管理したのは事実である。

後世に悪評されてまで軍が管理する必要はなかったが、アメリカのベトナム戦争を見てわかるように、戦地の売春施設を野放しにすると、性病が蔓延し、兵士や売春婦はもちろん、地元の住民にも影響を及ぼすことから、

日本軍の判断として慰安所を管理することにしたのだろう。

それが正しかったのか、誤っているのかということを判断することは歴史学の役目ではない。

h
ttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/ytgw-o/061007.htm

◆バカが持ち出す「軍の関与」とは何か

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/07 21:23 投稿番号: [26457 / 29399]

>日本政府は既に解決済みとの立場だが旧日本軍の関与は認めている。政治決断で補償に踏み切り、両国関係を確かなものに固めてほしい。



    腐れ脳の反日バカサヨがが苦し紛れに持ち出す

   
     『軍の関与』とはどういうことか?


  それは、慰安婦問題で「強制連行があった」と散々嘘・デマを流し続けた反日バカサヨどもが、「強制連行はなかった」という事実がハッキリしので、こんどは「軍が関与した」ということにして、本来の本旨である「強制連行」という問題から逃げ続けているのである。
まさに   愚劣   卑怯   恥知らず   と言うしかない。  



     これほどまでして


     日本を日本人を貶めるのは何が目的なのだろうか?


     このような   反日の在日外国人が跋扈する状況で


     「外国人参政権」など絶対に許してはならない!

お〜〜〜〜いnukabosi

投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2011/11/07 20:50 投稿番号: [26456 / 29399]
壁張りご苦労さん。
だがお前の上げた新聞の主張、アカピーより赤い北海道新聞の主張。
コソコソと決議した議会の決議、これらを見る限り在日トンスラーの日本を貶めたい薄汚い意志が見える。
残念だがお前の主張には法的拘束力が無い。
お前等在日トンスラーは日本国には不要な存在だ。
お前の馬鹿なのはこの文に何の疑問を待たない所だ。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
2年後の2004年に勝訴、韓国政府は2005年に関連文書を全面公開し、日本軍「慰安婦」問題、サハリン残留韓国人問題、原爆被害者問題が日韓交渉の過程で請求権問題の対象として扱われなかったことを確認しました。


何故1965年の時点で慰安婦問題が請求権の交渉の対象とならなかったのか?
普通20万人も慰安婦として女を強制連行すればその地域で大問題となる。

アホのヌカボシなぜ交渉の対象とならなかったのか?
箇条書きするから番号で答えろ。

①トンスラーはアホで従軍慰安婦被害を忘れていた。
②そのような事実は無かった。
③日本政府が隠した。

◆なぜ南京大虐殺は捏造されたのか

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/07 19:49 投稿番号: [26454 / 29399]
「南京大虐殺」も「従軍慰安婦強制連行」も反日が国是である中共や朝鮮、そして、これらの国に媚び諂うイカレタ反日サヨクの捏造であり、嘘・出鱈目と言うことは衆知の事実であるが、

いまだに、日本と日本人を何としてでも悪者にしたいwadatumi_voice21やnipnipponponのような脳腐れの反日工作員共が必死に嘘と捏造の投稿を繰り返しているので


  おさらい   の意味も含めて

  「なぜ南京大虐殺は捏造されたのか」を振り返ってみましょう。



   http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


   http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


  汚い反日の屑どもの妄言・狂言に賢明な真の日本人諸君はくれぐれも騙されないでほしい。

◆マヌケ過ぎるwadatumi_voice21の大自爆

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/07 19:46 投稿番号: [26453 / 29399]
脳軟化症の反日バカサヨがしばしば岡村寧次大将が書いた下記の文章を引用して自爆することがあるが、やっぱりというか当然というか・・・wadatumi_voice21←このバカも得意げに持ち出してきた(苦笑)

  「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
1)南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
1)第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」
(『岡村寧次大将資料』)


しかし、岡村大将がこの報告を聞いたのは上海でである。
彼自身は南京へ行ってはいないのである。
南京にいた国際委員会の人々は、日本兵らによる暴行として425件の事件を報告している。
しかし、その大部分は伝聞であり、事実かどうかは確定していないのである。1000万歩譲って事実と[仮定]しても暴行事件は425件にすぎず、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」という岡村大将の記述は、間違ったうわさに過ぎなかったことが明らである。
  また「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述も、南京においてはまったく事実ではない。

何故、事実ではないと言えるのか?
それはすでに投稿している「日中戦争の真実」で説明しているとおりである。(以下参照)


日本軍が南京に達する以前に、蒋介石は、すでに早々と南京から脱出していました。また南京防衛をまかされた唐生智将軍も、敗北色濃くなったとき、敵前逃亡して南京から出てしまいました。残された中国兵らには混乱が走りましたが、敗戦が決定的となったとき、中国兵らには3つの選択肢がありました。
  一つは、降伏することです。降伏すれば「捕虜」として扱われることになります。
  二つ目は、南京から逃げ出すことです。そのとき、日本軍に殺されるかもしれません。また中国には、「督戦隊」というものがありました。これは戦いを督促する中国人部隊で、背後にいて、戦場から逃げ出す中国兵を見つけると撃ち殺す兵士たちなのです。逃げる中国兵を撃ち殺す中国兵です。そんな非人間的な部隊が、中国にはありました。ですから、南京から逃げ出そうものなら、彼らに撃ち殺されるかもしれません。
  実際に、中国督戦隊に撃ち殺された中国兵たちが多くいました。ダーディン記者は、南京城壁の北側の門において、高さ1メートル半にも積み重なって小山を形成していた中国兵の死体を目撃しています。これは日本軍が殺した中国兵ではなく、中国督戦隊に殺された中国兵だったのです。なぜならダーディン記者は戦後、こう語っています。
  「これは、この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁によじのぼり、脱出を試みました。これらの死体の山は、日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で(日本軍の)戦闘はありませんでした」(1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子。『南京事件資料集   アメリカ関係資料編』P571   青木書店)
  つまり、それは中国督戦隊によって殺された中国兵らの死骸だったのです。
  そして中国兵に残された三つ目の道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人に扮して、安全区の中に身を隠すことでした。少なからぬ兵士たちがこの道を選びました。
  そのため日本軍は、南京占領後、この民間人に扮した中国兵たちの掃討作戦を行ないました。そして次々に摘発しましたが、武器を隠し持っているなど危険な中国兵たちは、発見されると、処刑されました。市街戦の準備とみなされたのです。その数は数千人に達しました。
  問題は、これが国際法上、合法か否かです。しかし、こうした不法な戦闘員の処刑はどこの国でも慣習的に行なわれていたことであり、また「ハーグ陸戦法規」(1907年)にも定められていたことで、明らかに合法的でした。つまり、兵士は明確に兵士とわかるよう軍服を着用しなければならず、また武器は隠さず公然と携帯しなければならないのです。
  その法規を守らなければ、捕らえられても「捕虜」としての保護は受けられません。法を守らない者は、法の保護を受けられないのです。彼らは「不法戦闘員」として扱われ、処刑されても仕方ないというのが国際法上の理解でした。

◆いまだに「ラーべの日記」とは笑わせる③

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/07 19:19 投稿番号: [26452 / 29399]
ラーベは1937年12月17日の日記に、「昨晩、1000人近くの女性、少女が強姦されたと言われている。金陵女子大学の学生だけでも100人が強姦された」と書きました。また金陵女子大の教授ミニー・ヴォートリン女史はその日、「ああ神よ、野獣のような日本兵らの蛮行を止めてください」と書いています。ジェームズ・マッカラム医師も、12月19日の日記にこう書きました。
  「これほどの残虐は、聞いたことがなく、読んだこともない。強姦!   強姦!   強姦!   我々の見積もりによれば、一晩に1000人が強姦され、そうしたことが毎日ある。反抗すれば銃剣で刺されるか、撃ち殺されるだろう。…人々はヒステリックになっている。女性たちは毎朝、毎日、毎夜、連れ去られる。日本兵たちは、気のおもむくまま出入りし、好き勝手に行動しているようだ」
  しかし、これらの強姦事件は、実際にラーベ、ヴォートリンやマッカラムが自分の目で目撃したことかというと、そうではありません。『言われている』「見積もりによれば」とか「〜しているようだ」と書かれていることからもわかるように、いずれも伝聞なのです。犯人が「日本兵だった」、というのも伝聞です。委員会のメンバーたちが記した強姦事件は、ほとんどが中国人から聞いたものでした。
  そしてこれらの日記が記されてから約2週間後、南京で強姦を繰り返していた中国兵らが、日本の憲兵によって逮捕されます。アメリカ人教授たちのもとでかくまわれ、避難民キャンプで2番目の地位を与えられていたこの中国兵らは、強姦を犯しては、「犯人は日本兵だ!」と言いふらしていました。ニューヨーク・タイムズが報じたように、彼らが逮捕され、それを自白したとき、アメリカ人教授らは「心底から当惑した」のです。
  また大阪朝日新聞が報じたように、2月になると、「日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・通訳の腕章を偽造してこれをつけていた」中国兵らが逮捕されました。彼らも、日本人になりすましては強姦等、暴行を繰り返していました。そして彼らが逮捕されてのち、強姦事件等はほとんど見られなくなりました。
  このように、南京の西洋人らが非難した「日本軍の暴行」の多くは、じつは民間人の服を着て隠れていた中国兵によるのしわざだったのです。実際、マッカラムの1938年1月8日の日記にこんな記述があります。マッカラムは、ある中国人避難民が、
「強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやった。それを証明できる」
  と言うのを聞いた、と書いているのです。安全区にいた避難民たちの中には、そこで起きていた強姦や、略奪、その他の事件の多くは、じつは中国兵らによる反日撹乱行為であることを知っている者たちもいたわけです。
  しかし、詳しい検証もせず、うわさをそのまま信じ込んでいたのが、委員会のメンバーたちでした。彼らはそのために、南京には「日本兵の暴行があふれている」と思い込んでいたのです。これについて竹本忠雄、大原康男・両教授も、こう書いています。
  「安全区に設けられた19カ所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり4000名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴォートリン女史が務めたほかは、すべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と、市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した『難民収容所』で起こっており、『難民収容所』が解散した1938年2月以降、そうした強姦事件は起こっていない。難民収容所の責任者たちが主張した『日本軍兵士の犯罪』を額面通り受け取ることは、きわめて危険だと言えよう」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)

◆いまだに「ラーべの日記」とは笑わせる②

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/07 19:17 投稿番号: [26451 / 29399]
松井大将の元・私設秘書だった田中正明氏は、このラーベが書いた報告書や日記には数多くの矛盾点があると批判し、こう述べています。

  「12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に『降伏勧告のビラ』を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した。…しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える』。全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。…
  ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと『局部に竹を突っ込む』などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。…
  金陵大学病院医師マッカラム氏は、『(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました』と、東京裁判に提出した日記の中に書いている。…ところがラーベ日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いたという“地獄絵”が描かれている。一体どちらが本当なのか?…
  ヒトラーがジョン・ラーベの原稿に信をおかず、彼を逆に入獄せしめた理由が、私にはわかるような気がする」(講談社刊『南京の真実』は真実ではない!)

  このようにラーベの報告や日記は、内容が非常に偏っており、誤解と偏見と、また、何とか日本の残虐を訴えてドイツと日本の同盟を阻止したいという思惑とが、混ざり合ったものでした。そのためその内容は、軍服を脱ぎ捨てた中国兵たちや、督戦隊に殺された中国兵たち、また安全区に隠れた中国兵らによる犯罪などの事実には一切ふれず、ただ日本軍の暴行だけを書き記すものとなったのです。
  実際、日本軍による南京占領の翌月、1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、自分の目で実情を確かめた上で、「ラーベが語る日本軍の暴行事件」について、2月10日付で漢口のドイツ大使館にこう書き送りました。
  「ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
  ラーベは、表向きは暴行事件の被害者の救済などに奔走し、中立を装うなどしていました。それでアイリス・チャン(南京大虐殺に関する本の著者)の本などでは、シンドラーに比すことのできる善人であると、持ち上げられています。
  しかしその実をみれば、ラーベは中国人将校たちをかくまって反日攪乱工作を手伝い、また自身の虚偽のリポートを通しても、自分なりの反日攪乱工作を続けていたのです。
  こうした人物が南京国際委員会の長だったわけですから、彼の姿勢は委員会の他のメンバーたちにも当然、深く影響していました。委員会の他のメンバーたちが残した日記その他の記録が同様なものとなったのは、そうした成り行きだったのです。

◆いまだに「ラーべの日記」とは笑わせる①

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/07 19:16 投稿番号: [26450 / 29399]
ジョン・ラーベ。
彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、
  「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記)
  と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。
  またラーベは、同じ日に、
  「日本兵たちは、市内をめぐり、10〜20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」
  と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。
  「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
  この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。
  また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。
  ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。
  実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。
  このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。

南京事件の真実

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/07 08:36 投稿番号: [26449 / 29399]
南京事件 (1913年) - 1913年に袁世凱配下の張勲の軍隊が南京で在留日本人3名を殺害し、居留民の家屋が略奪された事件。
南京事件 (1927年) - 1927年3月24日、蒋介石の北伐軍が南京で起こした外国領事館への襲撃を理由に、アメリカ合衆国・イギリスの軍艦が南京を砲撃した事件。

その一例とやらだけど

投稿者: nanja3231 投稿日時: 2011/11/07 07:02 投稿番号: [26448 / 29399]
アカ罪ちゃん、これなんだが
.
>そうした 一例として、第十一軍総司令官 岡村寧次大将が
南京事件について受けた報告に関する記録が 残っている。
以下に「岡村寧次大将陣中感想録」 を、例示しておこう。
38年7月13日のこと として、以下の 記述がある。
.
肝心の第十一軍って38年7月に新編されたばっかりの部隊なのに、なんで南京大虐殺の報告してるの?(大爆笑)
つうか、新編部隊の司令官として6月に就任、7月から部隊として行動せにゃならない時期に、なんで関係のない南京事件の報告してる訳?(大爆笑)

アカ罪ちゃんの妄想♪

投稿者: nanja3231 投稿日時: 2011/11/07 07:00 投稿番号: [26447 / 29399]
>たとえば 虐殺、強姦、強奪などの 蛮行事件に
かかわるものを、徹底して 隠蔽されたことは、間違いない。
.
いや、中隊レベルまでに拡散した命令書類は隠蔽不可能だから(大爆笑)
.
>しかし、限られた期間に 軍の書類すべてを 処分するのは
できなかったはずだ。
.
そう思うのならその命令書類をだせば?
.
> 事実、公文書の 最重要書類が、
軍の 焼却指示にもかかわらず、所轄の軍将校が 隠匿し、
GHQの追求から逃れた という記録が 残されている。
.
記録が残ってるなら隠蔽出来てないやんけ(大爆笑)
そもそも記録があるならそれを出せ(大爆笑)
大概なアホだな♪アカ罪ちゃんは♪

南京事件の解明を困難にした証拠隠滅(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/07 06:46 投稿番号: [26446 / 29399]
冒頭   拙文で述べた   「敗戦時に   軍部も政府も   責任の
追及を恐れて、証拠湮滅のために   多くの関係書類を処分
した」   というのは   当方の創作ではなく、提示したとおり
すでに   発見された資料や   証言などで   証明されている
覆せない   歴史的事実なのだ。

もちろん、「書類すべてを処分」   した   などとは、誰も
言っていない。   日本軍にとって   非常に都合の悪いもの、
たとえば   戦争犯罪、国際法違反に問われるような   証拠を
隠滅するうえで   必要な重要書類を、組織を挙げて   処分した
のであり、たとえば   虐殺、強姦、強奪などの   蛮行事件に
かかわるものを、徹底して   隠蔽されたことは、間違いない。

しかし、限られた期間に   軍の書類すべてを   処分するのは
できなかったはずだ。   事実、公文書の   最重要書類が、
軍の   焼却指示にもかかわらず、所轄の軍将校が   隠匿し、
GHQの追求から逃れた   という記録が   残されている。
例えば、防衛研究所戦史部が   保管している   『大陸命』に
付せられた『経歴票』   には、次のように   記されている。

  「昭和20年8月14日大東亜戦争終戦に方り陸軍一般に
  保管書類焼却の指令が出されたが、第二課〔参謀本部作戦
  課〕においては   本大陸命綴のみは   焼却せず、庶務将校
  椎名典義中尉が都内某所に隠匿し、第一復員省(局)史実
  調査部(資料整理部)編成に伴い、占領米軍の公私に亘る
  一般資料追及の監視を避けて   部長宮崎周一中将が自宅に
  保管した。〔中略〕
  昭和21年12月宮崎中将退職に伴い後任部長服部卓四郎
  大佐が   保管を継承し、同大佐は   占領時代終了を待って
  正統戦争史の本格的編纂にあたるためこれを自宅に保管した。
  同大佐の『大東亜戦争全史』   の著述にあたりては   これが
  利用された。」

こうした記録からもわかるとおり、焼却されずに   軍幹部が
隠し持つなどして   残った書類も相当数あったと考えられる。
そうした   一例として、第十一軍総司令官   岡村寧次大将が
南京事件について受けた報告に関する記録が   残っている。
以下に「岡村寧次大将陣中感想録」   を、例示しておこう。
38年7月13日のこと   として、以下の   記述がある。

  「中支戦場到着後先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田
  少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所に依れは   従来
  派遣軍第一線は給養困難を名として   俘虜の多くは之を殺す
  の悪弊あり、南京攻略戦に於て   約四、五万に上る大殺戮、
  市民に対する掠奪、強姦多数なりしは   事実なるか如し」

この記録史料の表紙には、「一切転載並公表を禁ず」   という
ただし書きが   付されている。
敗戦直後の徹底した文書焼却が、軍や政府の犯罪への関与を
立証する上での   大きな困難点になっていることは   事実だ。
こうした現実を   踏まえれば、かつての軍国政府を   免罪し、
戦争を美化しようとする   勢力が、犠牲になった人々に対し
「証拠を示せ」   などと、声高に   がなりたてることが、
いかに卑怯な態度か、理性のある者なら   理解できるだろう。

南京事件の解明を困難にした証拠隠滅(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/07 06:45 投稿番号: [26445 / 29399]
市町村に対する   兵事書類の全国一斉焼却命令   だけでなく、
軍機に関係する書類の処分が   敗戦直後に   組織的行われた。
吉田裕著『現代歴史学と戦争責任』(青木書店97年)には
「敗戦前後における公文書の焼却と隠蔽」(P127〜141)の章で
書類の焼却処分のことが   詳しく   書かれている。

その中には   たとえば、敗戦当時、官房文書課事務官だった
大山正が   「内務省の文書を   全部焼くようにという命令が
でまして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか
判らないから選択なしに全部燃やせということで、内務省の
裏庭で三日三晩、えんえんと夜空を焦がして燃やしました」
と   回想している。

また、処分されず   残った記録資料も   進駐してきた米軍に
押収されたため、軍関係資料は   ほとんど   残らなかった。
兵士個人が   隠し持っていたものや、米国との協定に基づき
返還を受けて   防衛省が保管しているもの   などしかない。

戦闘詳報については、ウイキペディアの解説を   引用すると、
「敗戦により   文書焼却命令が下った際、戦闘詳報も多くが
焼かれたが、海軍では   人事局功績調査部が   山梨県韮崎に
疎開させた物と、海軍省が   神奈川県大倉山に保管していた
物は焼却を免れ、後者は進駐軍の命で   押収となり、前者も
東京への移送中に   進駐軍に押収された」   となっている。

こうしたことが、南京事件や従軍慰安婦、細菌兵器開発や
占領地での強制動員など、日本軍による残虐行為の実態を
解明するうえで   大きな障壁となり、さらには「南京事件
は無かった」   などという否定論が   日本国内の   一部で
臆面もなく   振り回される要因の一つ   となっている。

慰安婦に関しては   たとえば   歴史学者の秦郁彦氏は   著書
『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)   で   次のように書いている。
「軍は有史いらい   初めての敗戦に動転したのか、終戦の日に
重要書類の大部分を燃やした。戦犯裁判の   材料にされるのを
恐れたから   とされるが、選別の余裕もないままに、人事記録
まで処分してしまう。   そのため、講和後に   軍人恩給が復活
したとき、裁定に困惑した。   しかたなく、履歴がない軍人・
軍属には   申請書に同一部隊の戦友二名の証明を添付すること
で間に合わせた。   部隊行動の記録はあるので、それと照合
して計算したのである。看護婦も類似の手法で処理している。」

「しかし慰安婦の場合は、身分が軍人でも軍属でもないため
公的書類がない。   業者があちこちからかき集めてきた例が
多いので、女性同士のつながりもなく、戦友会的な組織もない。
源氏名を名のっていたので、同じ慰安所に起居した仲間同士
でも、本名や出身地を覚えてないのが普通だった」
「慰安婦だった事実だけでも、立証困難な例が   多いから、
彼女たちが   数十年の歳月を経て   記憶だけを頼りに語る
『身の上話』   は 雲をつかむようなものばかりである。」

やはり、軍による   証拠書類の大量処分は、戦時下において
発生した   さまざまな問題の   実態を解明するうえで、
大きな障害となってしまったことが   理解できる。
しかし、焼却から免れ、押収後に返還された   貴重な資料も
防衛研究所図書館などに保存されている。   困難な作業だが、
それらを検証し、戦争の実相を解明する努力を続けるべきだ。

南京事件の解明を困難にした証拠隠滅(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/07 06:44 投稿番号: [26444 / 29399]
最近、鳥取市の   鳥取県立公文書館で、敗戦の際に   日本軍が
自治体に出した   徴兵関係書類の焼却命令を記録した   メモが
確認された。   同県日野郡二部村(現・西伯郡伯耆町)   の
「兵事動員ニ関スル日誌」   の1945年8月15日   の項に
はさまっていたのだ。   軍の焼却命令を伝える文書は   珍しく、
軍部による   指示の具体的内容を知るうえで   貴重な資料だ。

メモは、はがき大の紙に「連隊区司令部ヨリノ通知」   として、
「現在入営並ニ応召者ノ名簿丈ケヲ残シ其他ノ兵事関係書類ヲ
全部至急焼去スル事」   などと書かれていた。
末尾には赤字で   「二部駐在所   津島巡査」   とあり、当時、
村の駐在所に勤務していた巡査(故人)が軍部からの命令を
書き取り、村役場に渡したものとみられる。

召集令状の回収・焼却なども   指示されており、その内容は
日誌にも   転記されていた。   日誌の翌16日午前の項には、
「関係一切ノ焼去ヲ実施ス」との記述があり、軍の命令通り
焼却が行われたとみられる。

防衛省防衛研究所戦史部の   柴田武彦・主任研究官によると、
敗戦時の軍の焼却命令は、痕跡を残さないよう密かに出され、
命令を伝える文書自体が   焼却の対象だった   という。
軍から自治体に対する命令も   同様の扱いだった   とみられる。

メモが   はさまっていた日誌は、37年7月22日から45年
11月24日まで、村民の出征先や戦死場所など召集に係わる
出来事を   564丁(丁は表裏2面のとじこみ)   にわたって
記録している。   柴田氏は   「村は   日誌を残すべき名簿類に
含むと判断したのではないか」   と推測し、その日誌の中に
はさまっていたため、メモが偶然   残ったとみる。

二部村の人口は   当時、2千数百人。   約400人が出征し、
48人が戦死した。   日誌には37年10、11月、記録上
最初の戦死者2人が出た時、知事が弔問に訪れ、約800人が
参列し   村葬が行われたことや、敗戦直前の45年6月13日、
「未ダ兵籍編入ノ年令ニ至ラザル者」   に令状が届くなど、
動員システムに   混乱があったことなどが   書かれている。

焼却命令のメモだけでなく、当時の   召集の実態を記録した
資料の発見もまれで、県立公文書館の伊藤康・総括専門員は
「召集令状が役場に届いてから本人に通知されるまでの過程が
分刻みで書かれるなど、村が戦争に巻き込まれていく様子が
目に浮かぶようだ」   と話している。

戦前、全国の市町村役場には「兵事係」   が置かれ、兵役や
招集など戦時対応に係る   兵事関係書類が   存在していた。
東海大の   山本和重教授(軍隊社会史)によると、現存する
兵事関係書類は、全国で   わずかに   約20町村分だという。
それは、敗戦直後に   陸軍などの命令で   全国の役場などで
一斉に   焼却処分されたためだ。

南京事件の解明を困難にした証拠隠滅(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/07 06:43 投稿番号: [26443 / 29399]
敗戦の直後、日本軍が   大量の「機密」   処分を命令していた
事実が、近年   米国で公開された   資料からも浮かび上がった。
外交上不利益になる   公文書の焼却などを指示する   日本軍の
暗号通信を、米側が傍受して   解読した記録で、
林博史関東学院大教授が   米国立公文書館で入手したものだ。

これは、米陸軍省が   大戦中に解読した日本軍の暗号通信を
要約して   関係部門に配っていた   速報のうちの   一つだ。
資料によると、指示は   45年8月15日午前0時に始まった。
「ご真影や連隊旗、天皇の手によって書かれた   書類を集め、
部隊指揮官は   崇拝の念をもって   焼却せよ――」   と、
陸軍省が   主な野戦司令部に   命令していたのだ。

玉音放送が敗戦を告げた   同日午後には、「陸軍の機密文書と
重要書類は、保持している者が焼却せよ」   と命令を   追加。
翌16日、海軍省軍務局長が   主な指揮官に向けて、
「敵の手に落ちたとしても、帝国にとって   外交上不利に
ならないもの」   を例示し、捕虜のリストや   死亡記録は
保持するように指示し、暗に   ほかの文書の処分を求めた。

前線に近い部隊になるにつれ、処分対象の指示は具体的に
なった。   同月20日、上海にある   支那方面艦隊は、
将校の登録簿や勤務経歴を   「即座に焼却せよ」   とした。
戦争責任を追及される際、誰がどこに配属されていたかが
分からないようにするため   とみられる。

インドネシアの   海軍第23根拠地隊は   8月24日、
「化学戦用機材」   や、残酷兵器として   ハーグ会議で
使用禁止が宣言されていた「ダムダム弾」   の処分を命じた。
戦後、国際的な批判にさらされることを   恐れたようだ。
軍にとって   何が都合悪いかを   冷静に識別し、組織的に
処分したことが   こうした記録などからも   明確に判る。

敗戦直後から   こうした命令が出されていたという事実を
裏付ける   貴重な証言がある。   一つだけ   紹介しよう。
最近、渓流社から出版された   吉田敏浩著   「赤紙と徴兵
105歳 最後の兵事係の証言から」   には、滋賀県大郷村
(現・長浜市)の   元兵事係、西邑仁平さんの   告発内容が
収録されている。

「焼却命令には合点がいきませんでした。村からは多くの
戦没者が出ています。これを処分してしまったら、戦争に
征かれた人の労苦や功績が無になってしまう、遺族の方に
申し訳ない、と思ったんです」
警察や進駐軍による   家宅捜索への   不安の毎日。
妻にさえ打ち明けることができなかった。
100歳を超え、ようやく   公開に踏み切った。

村人に毎日のように赤紙(召集令状)を届け続けた兵事係、
西邑仁平さん(昨年105歳で死亡)   は、敗戦の時、
軍から24時間以内の焼却命令が   出ていたのに背き、
命がけで   大量の兵事書類を   残した。
戦前の徴兵制の運用の詳しい実態が   焼却せずに残した
兵事書類を通じて   明らかにされた   貴重な本だと思う。
 

南京事件の解明を困難にした証拠隠滅(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/07 06:42 投稿番号: [26442 / 29399]
南京事件などの   全容解明を困難にしている要因の一つに、
敗戦時に   軍が多くの書類を   焼却するなど処分したことが
挙げられる。   かろうじて処分を免れた   断片的な資料から
事件の実相に迫るしか   手段がない   というのが   現状だ。
この点については前述したが、ある書き込みで   可笑しな
「反論」らしきものがあった。   拙文と併せ再掲してみよう。

  >敗戦時に   軍部も政府も   責任の追及を恐れて、
  >証拠湮滅のために   多くの関係書類を処分した

これに対する   「反論」   は、次のような   書き込みだ。

  >敗戦時の混乱で必要書類すべてを処分できたと(中略)
  >そんな軍隊にどうやったら勝てるのかお教え願いたい

いかにも   典型的な南京事件否定派の、面白い迷文だ   と思う。

「多くの関係書類を処分」を、「書類すべてを処分」   へと
すり替えたのは、意識的なのか   読解力がないだけの曲解かは
分からないが、どちらにしても   文の意味が変わってしまう。
確かに、軍が   書類すべてを処分することは、難しいだろう。
だが、事件に関わる重要な証拠書類を処分するのは   可能だ。
事実として、重要部分は   失われているのが   実状だ。

あらためて、日本軍による   証拠隠匿のために行なった
敗戦直後の   書類湮滅に関して論じておくことにしよう。

事実、敗戦決定から   撤退あるいは占領軍進駐までの期間に
多くの書類を焼却処分した   という記録や証言が   存在する。
たとえば、細菌兵器の   開発にあたっていた   731部隊も
例外ではない。   同部隊の施設が現在も中国に残されており、
本部棟や   ボイラー室の煙突、レンガ塀など、破壊を免れた
建物の一部が、「世界文化遺産」   として   保存されている。

この建物は   一部破壊されているが、破壊したのは中国軍や
旧ソ連軍ではなく、じつは   日本軍自身が   破壊したものだ。
敗戦が迫り、ソ連軍が   間近に迫ったとき、731部隊員は、
ソ連軍に証拠をつかまれて   戦争犯罪に問われることを恐れ、
ボイラー室で   証拠書類を焼却し、さらに   逃亡する際には
石井隊長の命令によって   施設を爆破していったのだ。

ボイラー棟の煙突は   もともと3本あったが、爆破により
1本は倒れ、現在は2本が残る。なお、このボイラー室から
隊全体に給湯され、セントラルヒーティング   が整っていた。
当時としては豪華な設備だが、隊員の生活のためというより、
ペスト、コレラなど細菌を培養するために必要だったという。
撤収に当たり、石井隊長は隊員に   以下の命令を下していた。

①七三一部隊に在籍した事実の秘匿、
②公職復帰への禁止、   ③隊員相互の連絡の禁止
隊員たちは   戦後、混迷を極めながらも   この命令を守った。
だが   進駐軍は、同部隊の調査を   進めていく中で、
石井隊長以下   幹部たちの所在を   突き止めるに至った。
極東軍事裁判で   ソ連は、彼らの取り調べと処刑を要求した。

しかし、石井隊長は   保身のために、隊員にあれほど厳重に
秘匿を言い渡したにもかかわらず、密かに   隠し持っていた
「七三一関係資料」   を米軍に提供した。   米軍は   資料の
価値の大きさを測って、石井以下幹部の   免罪嘆願に及ぶ。  
裁判にかければ、731部隊の技術情報が   ソ連側に流れる。
その可能性を危惧したのだ。かくて、同部隊の実態は隠された。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)