Re: 児玉義雄証言 その後
投稿者: Marc_Laforet 投稿日時: 2006/03/21 22:42 投稿番号: [11584 / 29399]
>
つまり、飯沼日記に書かれているとおり、山田支隊の捕虜が第16師
>団に接収されたならば、捕虜を処刑するにしても解放するにしてもそれ
>は第16師団の任務となり、山田支隊に対して第16師団が捕虜殺害を
>命じるというのは益々条理に合わない話となってくる。
> あり得ないんだよ。
事実に基づいて論理を組み立てましょうね。
(1)「飯沼日記に書かれているとおり、山田支隊の捕虜が第16師団に接収された」……この部分は飯沼日記に書かれているように事実です。
(2)「捕虜を処刑するにしても解放するにしてもそれは第16師団の任務となり」……これも、事実と言えるでしょう。
ここで重要になってくる事実は、第1に、捕虜を実際に管理していた部隊は第16師団ではなく、山田支隊であったこと、第2に、山田少将は最初に第16師団司令部のある「南京」に捕虜の処置方法を聞きに使いを出していることです。
当時、南京には、第13師団司令部もなければ、上海派遣軍・中支那方面軍司令部もありませんでした。
したがって、消去法からすれば、山田少将が捕虜の処置方法を聞きに使いを出したのは、第16師団と考えるのが妥当になるわけです。
>> この飯沼日記は、下関に捕虜が移動させられていたとことを示す資料です。
>> 捕虜を殺害したのは、証言で明らかになっていますね。
>> あと、村瀬写真も挙げましたし。
> ダメダメ、そんなことで誤魔化されると思ったら大間違いだ。
> 飯沼日記に記されていた捕虜の移動と、下関に捕虜収容所があったと
>いう「証言」の間に関連性を示すものは何もない。
> それから村瀬写真は捕虜殺害を示したものではない。
下関方向に捕虜を移動していたということは、下関方面に捕虜を収容することを目的にしていたと考えることが妥当でしょう。
そのことを裏付けるように、下関には捕虜を収容していた建物(もしくはコンテナなど)があったという証言が存在します。
そして、その証言により、多数の捕虜が殺害されたことが示されています。
村瀬写真では、多数の捕虜(後ろ手に縛られている)が殺されていることが証明されていますので、上記証言を裏付けていると言えるでしょう。
> 新河鎮の戦死者と、城内で摘出した便衣兵の被処刑者の死体が入り交
>じったものだ。
> ついでに言えば、沢田吉次証言は、この便衣兵処刑の光景だと推測さ
>れる。
では、その根拠を説明してもらいましょうか?
なかなかの珍説かとお見受けられますが(笑)。
> 「多数の捕虜を殺害した」と貴方は主張しているわけだが、「多数」
>というのは一体何処から導き出された結論かな?
>(No.11492)
> 相変わらず、答えがないね。
私が下記のような答えがない部分についての質問をしたからといって、一生懸命同じように「答えがない」というフレーズを使いたかったのでしょうか(笑)。
しかし、ウソは感心できませんよ。
多数の捕虜を殺害したという部分に関しては、飯沼日記、諸証言、村瀬写真で回答ずみです。
だからこそ、上記のとおりの議論に発展しているのでしょう?
>> あなたが聞いたことがないからと言って、それは事実にはなりません。
>> よろしいでしょうか?
> 下関に捕虜収容所があったという他の証拠を出せない限り、孤立証言
>であることは間違えないのだが?
「孤立証言」とは、また、都合のいい表現ですね(笑)。
私が提示しただけでも、証言は「沢田吉次 33iⅢ」「松田五郎 33iⅢ」「金谷正敏 33iⅢ」と3つ存在しましたよ。
ウソはいけませんね。
>団に接収されたならば、捕虜を処刑するにしても解放するにしてもそれ
>は第16師団の任務となり、山田支隊に対して第16師団が捕虜殺害を
>命じるというのは益々条理に合わない話となってくる。
> あり得ないんだよ。
事実に基づいて論理を組み立てましょうね。
(1)「飯沼日記に書かれているとおり、山田支隊の捕虜が第16師団に接収された」……この部分は飯沼日記に書かれているように事実です。
(2)「捕虜を処刑するにしても解放するにしてもそれは第16師団の任務となり」……これも、事実と言えるでしょう。
ここで重要になってくる事実は、第1に、捕虜を実際に管理していた部隊は第16師団ではなく、山田支隊であったこと、第2に、山田少将は最初に第16師団司令部のある「南京」に捕虜の処置方法を聞きに使いを出していることです。
当時、南京には、第13師団司令部もなければ、上海派遣軍・中支那方面軍司令部もありませんでした。
したがって、消去法からすれば、山田少将が捕虜の処置方法を聞きに使いを出したのは、第16師団と考えるのが妥当になるわけです。
>> この飯沼日記は、下関に捕虜が移動させられていたとことを示す資料です。
>> 捕虜を殺害したのは、証言で明らかになっていますね。
>> あと、村瀬写真も挙げましたし。
> ダメダメ、そんなことで誤魔化されると思ったら大間違いだ。
> 飯沼日記に記されていた捕虜の移動と、下関に捕虜収容所があったと
>いう「証言」の間に関連性を示すものは何もない。
> それから村瀬写真は捕虜殺害を示したものではない。
下関方向に捕虜を移動していたということは、下関方面に捕虜を収容することを目的にしていたと考えることが妥当でしょう。
そのことを裏付けるように、下関には捕虜を収容していた建物(もしくはコンテナなど)があったという証言が存在します。
そして、その証言により、多数の捕虜が殺害されたことが示されています。
村瀬写真では、多数の捕虜(後ろ手に縛られている)が殺されていることが証明されていますので、上記証言を裏付けていると言えるでしょう。
> 新河鎮の戦死者と、城内で摘出した便衣兵の被処刑者の死体が入り交
>じったものだ。
> ついでに言えば、沢田吉次証言は、この便衣兵処刑の光景だと推測さ
>れる。
では、その根拠を説明してもらいましょうか?
なかなかの珍説かとお見受けられますが(笑)。
> 「多数の捕虜を殺害した」と貴方は主張しているわけだが、「多数」
>というのは一体何処から導き出された結論かな?
>(No.11492)
> 相変わらず、答えがないね。
私が下記のような答えがない部分についての質問をしたからといって、一生懸命同じように「答えがない」というフレーズを使いたかったのでしょうか(笑)。
しかし、ウソは感心できませんよ。
多数の捕虜を殺害したという部分に関しては、飯沼日記、諸証言、村瀬写真で回答ずみです。
だからこそ、上記のとおりの議論に発展しているのでしょう?
>> あなたが聞いたことがないからと言って、それは事実にはなりません。
>> よろしいでしょうか?
> 下関に捕虜収容所があったという他の証拠を出せない限り、孤立証言
>であることは間違えないのだが?
「孤立証言」とは、また、都合のいい表現ですね(笑)。
私が提示しただけでも、証言は「沢田吉次 33iⅢ」「松田五郎 33iⅢ」「金谷正敏 33iⅢ」と3つ存在しましたよ。
ウソはいけませんね。
これは メッセージ 11562 (nmwgip さん)への返信です.