Re: >>>^2質問 横レス 2-1
投稿者: toitatoi 投稿日時: 2005/10/26 17:33 投稿番号: [10797 / 29399]
>「百人斬り競争」の史実について、私の見解は再三述べています。
あらためて、まとめますと、
(1)「百人斬り競争」の話は、両将校とりわけ野田氏が詳しく話し語ったものである。それが、新聞・雑誌に発表された。
これについては、野田氏も積極的に話をしていたと私も考えています。
>2)本多勝一氏が、その実態を捕虜あるいは捕虜と見做された非戦闘員の据えもの斬りだと判断したことは正しい。
推論をするのは勝手ですが、
実態も何も、そもそも「百人斬り」と称する行為自体があったかどうか、ということを示す証拠といえる物が皆無なのに、事実認定はできません。
本多氏の推測にしか過ぎません。
>これは、当時の日本軍の状況や志々目証言などか
ら言えることである。
他人がやっていたから、あいつもやっていたはずだ、とは、何の証明にもなりません。
ホラ話かもしれないことを聞かされてただけの証言に、「やった」との証拠能力はありません。
>ちなみに、産経の古森記者に誤報されたボブ・ワカバヤシ氏も、捕虜の殺害であった可能性が高いと述べています。(It is quite possible that Mukai and Noda did the same thing at Nanking even if their tally fell short of 211.[The Jouurnal of Japanese Studies",p.336])これは、実証的な研究者の標準的な見解でしょう。
研究者がそれぞれ見解をもたれるのは結構ですが、証言であっても、私が言っているのは、直接的な証言、「一緒にいて見た」「一緒にやった」「明確な証拠」が必要だということです。
この方が証拠としているのは何なのでしょう?
>やってもいない百人斬りを何度も報道されて話題の主となっているのに、実態を知っている人たちが黙っているでしょうか。そのようなトラブルがなかったということは、斬ったという数字も事実に沿ったものと考えるべきでしょう。
その論法は、
「たかが、そこら中で行われていた捕虜惨殺行為・民間人殺害行為だったにも、かかわらず、彼らだけが英雄として祭り上げられていることに対して実態を知っている人たちが黙っているでしょうか。そのようなトラブルがなかったということは、すえもの斬りではない新聞記事のように勇ましい話だったからです。」
という言い方と変わりませんが?
以前のレスでも指摘していますが、なぜ近くにいた人たちから、オレは見た、という話が、戦時中も含め、聞こえてこないのでしょう。
「あんな勇ましい話じゃなかったんだよ」って、その人たちの家族や親しい友人達とかにさえ。
聞かされていれば、聞かされた人たちは「へぇ〜」と思うでしょう。
「あいつらさ、祭り上げられてるけどさ。ひどいもんさ。そこら中で同じようなひどいことをやっていたんだ。単なる捕虜の処理をやってただけなんだよ」
そういう証言が、そういう種類の人たちから、まるでないのは、なぜでしょうか?
六車氏でさえ、本音では懐疑的な意見を残しているのみ。
>>>回想記の内容が真実であることを証明できなければ、それが証拠にはならないなどというのは無茶としかいいようがありません。訴訟ではもちろんのこと、歴史の論考でもそんなことは通用しません。
>>おやおや、どのような資料に対しても、それが真実かどうか、という視点を持つのは当たり前です。
>視点の問題ではなく、あなたは、真実であることを証明しなくてはならないと言っていたはずです。
解かりませんか?
証明できなければ、「証拠」ではありません。
どのような資料に対しても、それが真実かどうか、という視点を持つのは当たり前で、その資料が真実だとするのであれば、それを証明できなければなりません。
あらためて、まとめますと、
(1)「百人斬り競争」の話は、両将校とりわけ野田氏が詳しく話し語ったものである。それが、新聞・雑誌に発表された。
これについては、野田氏も積極的に話をしていたと私も考えています。
>2)本多勝一氏が、その実態を捕虜あるいは捕虜と見做された非戦闘員の据えもの斬りだと判断したことは正しい。
推論をするのは勝手ですが、
実態も何も、そもそも「百人斬り」と称する行為自体があったかどうか、ということを示す証拠といえる物が皆無なのに、事実認定はできません。
本多氏の推測にしか過ぎません。
>これは、当時の日本軍の状況や志々目証言などか
ら言えることである。
他人がやっていたから、あいつもやっていたはずだ、とは、何の証明にもなりません。
ホラ話かもしれないことを聞かされてただけの証言に、「やった」との証拠能力はありません。
>ちなみに、産経の古森記者に誤報されたボブ・ワカバヤシ氏も、捕虜の殺害であった可能性が高いと述べています。(It is quite possible that Mukai and Noda did the same thing at Nanking even if their tally fell short of 211.[The Jouurnal of Japanese Studies",p.336])これは、実証的な研究者の標準的な見解でしょう。
研究者がそれぞれ見解をもたれるのは結構ですが、証言であっても、私が言っているのは、直接的な証言、「一緒にいて見た」「一緒にやった」「明確な証拠」が必要だということです。
この方が証拠としているのは何なのでしょう?
>やってもいない百人斬りを何度も報道されて話題の主となっているのに、実態を知っている人たちが黙っているでしょうか。そのようなトラブルがなかったということは、斬ったという数字も事実に沿ったものと考えるべきでしょう。
その論法は、
「たかが、そこら中で行われていた捕虜惨殺行為・民間人殺害行為だったにも、かかわらず、彼らだけが英雄として祭り上げられていることに対して実態を知っている人たちが黙っているでしょうか。そのようなトラブルがなかったということは、すえもの斬りではない新聞記事のように勇ましい話だったからです。」
という言い方と変わりませんが?
以前のレスでも指摘していますが、なぜ近くにいた人たちから、オレは見た、という話が、戦時中も含め、聞こえてこないのでしょう。
「あんな勇ましい話じゃなかったんだよ」って、その人たちの家族や親しい友人達とかにさえ。
聞かされていれば、聞かされた人たちは「へぇ〜」と思うでしょう。
「あいつらさ、祭り上げられてるけどさ。ひどいもんさ。そこら中で同じようなひどいことをやっていたんだ。単なる捕虜の処理をやってただけなんだよ」
そういう証言が、そういう種類の人たちから、まるでないのは、なぜでしょうか?
六車氏でさえ、本音では懐疑的な意見を残しているのみ。
>>>回想記の内容が真実であることを証明できなければ、それが証拠にはならないなどというのは無茶としかいいようがありません。訴訟ではもちろんのこと、歴史の論考でもそんなことは通用しません。
>>おやおや、どのような資料に対しても、それが真実かどうか、という視点を持つのは当たり前です。
>視点の問題ではなく、あなたは、真実であることを証明しなくてはならないと言っていたはずです。
解かりませんか?
証明できなければ、「証拠」ではありません。
どのような資料に対しても、それが真実かどうか、という視点を持つのは当たり前で、その資料が真実だとするのであれば、それを証明できなければなりません。
これは メッセージ 10363 (watanabe1937 さん)への返信です.