mht2040at氏の中傷に反論する(3)
投稿者: nmwgip 投稿日時: 2006/01/25 23:11 投稿番号: [8654 / 41162]
四点目。
> 東京裁判<ですらも>弁護側は便衣兵処刑合法論など全く述べず、捕虜は解放した、のようなことを言って殺害の事実を否定することによって検察側に反論した。
これについてはまず、中山証人の証言を借りてこよう。
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サトン検察官
南京安全地区国際委員会は、南京において支那軍が降伏した後におきまして、揚子江の岸で三万人ぼかりの支那兵が殺され、その殺された支那兵の埋葬について処置したのではありませんか。
中山証人
そういうことは承わっておりません。但し次のようなことが誤り伝えられたものと考えられるのであります。安全地区内に一部の破れた兵が潜んでおりまして、しかも武器を持って潜んでおったのでありますから、これを探し出しまして、すなわち軍法会議にかけて処断したということはあるいはあったと思います。それを大袈裟に伝えられたものと思います。
サトン検察官
彼らが射殺される前に、軍法会議にまわされたのは、幾人でありましたか。
中山証人
数は覚えておりません。
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この通り、殺害の事実を否定などしていない。
中山証人は「軍法会議にかけて処断したことはあるいはあった」と証言している。
捕虜解放云々は正規の捕虜として捕縛した中国兵の話だ。
参考までにその部分も引用しておく。
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サトン検察官
・・・しかしながら南京の揚子江の向う岸に着いたという者は、揚子江の南岸において日本兵のために射殺された支那兵の死体が漂流して、向こう岸に着いたその死体であったのではありませんか。
中山証人
そういうようなことは絶対にありません。当時数十万の軍隊が、南京附近に集っておりまして、その食糧にさえ日本軍は困っておった状態で、支那の俘虜に食わすだけの食糧はどうしてもなかったのであります。なお当時大本営の方針といたしましては、日支事変を拡張、拡大させないという考えでありまして、中支那方面軍は、南京を占領したならぱ、その地域を確保せいというような考えのように承っておりましたので、派遺軍は俘虜を揚子江の北岸に釈放した、否追放したと考えます。
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余談だが、サトンが指摘している揚子江岸に漂着した死体については、後年アメリカのケネディ教授も次のように述べて日本側の主張を支持している。
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「唐将軍(唐生智司令官)は抵抗する気配すら見せなかった。12月12日の夕刻、日本軍の進軍ペースを落とす策として南京市の城壁の外にある家屋に放火することを命令した後、唐将軍は大型ボートに乗って逃亡し、揚子江上流に向かった。南京防衛隊の残兵と、揚子江下流地域から南京市に退却してきた兵士たちは、指揮官たちに見捨てられ、市を包囲する火の海に行く手を封じられることを恐れて、可能なかぎり安全を求めて暴走した。何千もの兵士たちは揚子江の凍てつくような流れの中に身を投じたが、遠い対岸に安全を求めたこの行動が自殺行為だったことは、たちまち証明されたのだった。さらに多くの兵士たちは変装して、包囲された市内に潜入することを目論んだ。彼らは接近しつつある侵略者の追及をかわすために狂気の争奪を繰り広げた。軍服をかなぐり捨て、民間人用の衣服を求めて商店の略奪や市民の襲撃を行い、戦友を踏みにじり、手斧で襲い、機関銃で撃ったのである。」
(No.8386)
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そして中山参謀(当時)は、処刑された中国兵については軍法会議に掛けたはずだ、という思い込みがあったから、軍法会議不要論には進まなかったというだけのことだ。
もう一言付け加えるならば、中山参謀は証人であって弁護人ではない。
訊かれた事に答えるだけで、法廷戦術に関与できる立場の者ではない。
「弁護側は」「殺害の事実を否定することによって検察側に反論した」という説は、この場合当てはまらない。
元々論拠とはならない東京裁判の資料であるから、資料の誤用については調査不足ということで不問としてあげよう。
最後に、私から見たmht2040at氏の印象・特徴は「常識よりも思い込みが優先・調査及び読解力不足」ですな。
> 東京裁判<ですらも>弁護側は便衣兵処刑合法論など全く述べず、捕虜は解放した、のようなことを言って殺害の事実を否定することによって検察側に反論した。
これについてはまず、中山証人の証言を借りてこよう。
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サトン検察官
南京安全地区国際委員会は、南京において支那軍が降伏した後におきまして、揚子江の岸で三万人ぼかりの支那兵が殺され、その殺された支那兵の埋葬について処置したのではありませんか。
中山証人
そういうことは承わっておりません。但し次のようなことが誤り伝えられたものと考えられるのであります。安全地区内に一部の破れた兵が潜んでおりまして、しかも武器を持って潜んでおったのでありますから、これを探し出しまして、すなわち軍法会議にかけて処断したということはあるいはあったと思います。それを大袈裟に伝えられたものと思います。
サトン検察官
彼らが射殺される前に、軍法会議にまわされたのは、幾人でありましたか。
中山証人
数は覚えておりません。
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この通り、殺害の事実を否定などしていない。
中山証人は「軍法会議にかけて処断したことはあるいはあった」と証言している。
捕虜解放云々は正規の捕虜として捕縛した中国兵の話だ。
参考までにその部分も引用しておく。
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サトン検察官
・・・しかしながら南京の揚子江の向う岸に着いたという者は、揚子江の南岸において日本兵のために射殺された支那兵の死体が漂流して、向こう岸に着いたその死体であったのではありませんか。
中山証人
そういうようなことは絶対にありません。当時数十万の軍隊が、南京附近に集っておりまして、その食糧にさえ日本軍は困っておった状態で、支那の俘虜に食わすだけの食糧はどうしてもなかったのであります。なお当時大本営の方針といたしましては、日支事変を拡張、拡大させないという考えでありまして、中支那方面軍は、南京を占領したならぱ、その地域を確保せいというような考えのように承っておりましたので、派遺軍は俘虜を揚子江の北岸に釈放した、否追放したと考えます。
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余談だが、サトンが指摘している揚子江岸に漂着した死体については、後年アメリカのケネディ教授も次のように述べて日本側の主張を支持している。
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「唐将軍(唐生智司令官)は抵抗する気配すら見せなかった。12月12日の夕刻、日本軍の進軍ペースを落とす策として南京市の城壁の外にある家屋に放火することを命令した後、唐将軍は大型ボートに乗って逃亡し、揚子江上流に向かった。南京防衛隊の残兵と、揚子江下流地域から南京市に退却してきた兵士たちは、指揮官たちに見捨てられ、市を包囲する火の海に行く手を封じられることを恐れて、可能なかぎり安全を求めて暴走した。何千もの兵士たちは揚子江の凍てつくような流れの中に身を投じたが、遠い対岸に安全を求めたこの行動が自殺行為だったことは、たちまち証明されたのだった。さらに多くの兵士たちは変装して、包囲された市内に潜入することを目論んだ。彼らは接近しつつある侵略者の追及をかわすために狂気の争奪を繰り広げた。軍服をかなぐり捨て、民間人用の衣服を求めて商店の略奪や市民の襲撃を行い、戦友を踏みにじり、手斧で襲い、機関銃で撃ったのである。」
(No.8386)
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そして中山参謀(当時)は、処刑された中国兵については軍法会議に掛けたはずだ、という思い込みがあったから、軍法会議不要論には進まなかったというだけのことだ。
もう一言付け加えるならば、中山参謀は証人であって弁護人ではない。
訊かれた事に答えるだけで、法廷戦術に関与できる立場の者ではない。
「弁護側は」「殺害の事実を否定することによって検察側に反論した」という説は、この場合当てはまらない。
元々論拠とはならない東京裁判の資料であるから、資料の誤用については調査不足ということで不問としてあげよう。
最後に、私から見たmht2040at氏の印象・特徴は「常識よりも思い込みが優先・調査及び読解力不足」ですな。
これは メッセージ 8652 (nmwgip さん)への返信です.