嘘吐きラーベのメチャクチャ宣伝工作
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/01/12 23:53 投稿番号: [8286 / 41162]
>>スマイスの8000にしろ、ラーベの200000にしろ、その場にいた
>>人間の実際の知見をもとにした推測である。
>これらの数字は、軍民あわせての数字でしょうか、民間人(市民)だけの数字でしょうか。市民だけなら、安全区以外はほとんど無人(市民に関して)らしかったから、安全区の市民がそれだけ殺されたということになるようですが、もしそうなら安全区は大騒ぎになっていたと思いますが、どうなのでしょう。
既に判明したようですが、それらの数字は殺人ではなく、強姦の数字です。
8,000はスマイスではなく、ベイツだと思います。
また、ラーベは200,000ではなく、20,000だと思います。
農協の投稿は間違いが多過ぎます。
ちなみに、殺人について言うと、ベイツは40,000と宣伝し、ラーベは50,000〜60,000とヒトラーに報告しました。
ベイツは、12月15日、南京において目の前に居てその後も南京に留まる日本の新聞記者や同僚の陳教授には嘘が通用しないので、有りの儘の事実を話し日本の新聞記者の手を握りました。
一方、南京に居ない知人や、南京を去るダーディンやスティールたちには、大嘘宣伝工作をしたのです。
ベイツが知人に宛てたこれら手紙は、翌年、ティンパリーの『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)に編纂され出版されました。
『WHAT WAR MEANS』には、この手紙の他にも、ベイツが4万人大虐殺について書いた手紙も編纂されました。
(詳細は、#8276)
これらの宣伝工作が評価され、ベイツは1938年に蒋介石政府から勲章を貰いました。
一方、ラーベの場合、ラーベも虐殺は1件も目撃しませんでした。
ラ−べの日記や手紙の中ではラーべ本人が殺人現場を見た記述は一つもありません。
ラーベは、1937年12月17日の『第6号文書』では、「…同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。〜中略〜もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。… 」と述べていました。
ところが、東京裁判で検察側書証として提出された「1938年1月14日付のドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」には、「約二万の婦女子を冒し、数千の無辜の市民を殺害」と書かれていたそうです。
そして、1938年1月28付の南京のイギリス大使館宛手紙には、「一家の働き手が連行されたり殺されたりして、赤貧に陥っている家族が数千と言わないまでも、数百とあります」と書きました。
さらに、『ヒトラーへの上申書』には、「中国側の申し立てによりますと、十万の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万と見ています」と書いています。
ラーベの報告は、数百だったり数千だったり5〜6万だったり滅茶苦茶です。
このラーベの支離滅裂ぶりは、既に#8067で述べたように安全区国際委員会全体が嘘吐き宣伝工作委員会と化していたのが大きな理由ですが、ラーベ独自の事情もあったたようです。
ラーベは、安全区の自宅に、現金を一杯に詰めたトランクを幾つも持っていた支那軍将校の龍大佐と周大佐を潜伏させていたので、彼らに宣伝工作を依頼されたものと思われます。
また、当時ジョン・ラーべは、支那の蒋介石政権に武器を売って莫大な利益を得ていた「軍需産業ジーメンズ」の南京支社長でした。
支那事変が始まってから日本は再三ドイツに支那への武器輸出をやめるように要求していました。
ヒトラーはソ連を牽制するためにも、日本と手を組む事を選び、支那への武器輸出を控えました。
ラーベにしてみれば、自分が30年間も支那で培ってきた商売が水の泡になるので、「日本はこんなひどい事をしている。こんな国との同盟は止めてくれ!」と言いたかったのでしょう。
しかし、その話はあまりにも不自然すぎて同胞のドイツ人にも信じてもらえませんでした。
1938年1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、2月10日、自分の目で実情を確かめた上で漢口のドイツ大使館に、ラーベが語る日本軍の暴行事件について、「暴行事件と言ってもすべて支那人から一方的に聞いているだけ」と書き送っています。
結局ラーべの策略は実らず、ドイツに呼び戻され、二度と支那の土を踏むことはありませんでした。
>>人間の実際の知見をもとにした推測である。
>これらの数字は、軍民あわせての数字でしょうか、民間人(市民)だけの数字でしょうか。市民だけなら、安全区以外はほとんど無人(市民に関して)らしかったから、安全区の市民がそれだけ殺されたということになるようですが、もしそうなら安全区は大騒ぎになっていたと思いますが、どうなのでしょう。
既に判明したようですが、それらの数字は殺人ではなく、強姦の数字です。
8,000はスマイスではなく、ベイツだと思います。
また、ラーベは200,000ではなく、20,000だと思います。
農協の投稿は間違いが多過ぎます。
ちなみに、殺人について言うと、ベイツは40,000と宣伝し、ラーベは50,000〜60,000とヒトラーに報告しました。
ベイツは、12月15日、南京において目の前に居てその後も南京に留まる日本の新聞記者や同僚の陳教授には嘘が通用しないので、有りの儘の事実を話し日本の新聞記者の手を握りました。
一方、南京に居ない知人や、南京を去るダーディンやスティールたちには、大嘘宣伝工作をしたのです。
ベイツが知人に宛てたこれら手紙は、翌年、ティンパリーの『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)に編纂され出版されました。
『WHAT WAR MEANS』には、この手紙の他にも、ベイツが4万人大虐殺について書いた手紙も編纂されました。
(詳細は、#8276)
これらの宣伝工作が評価され、ベイツは1938年に蒋介石政府から勲章を貰いました。
一方、ラーベの場合、ラーベも虐殺は1件も目撃しませんでした。
ラ−べの日記や手紙の中ではラーべ本人が殺人現場を見た記述は一つもありません。
ラーベは、1937年12月17日の『第6号文書』では、「…同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。〜中略〜もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。… 」と述べていました。
ところが、東京裁判で検察側書証として提出された「1938年1月14日付のドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」には、「約二万の婦女子を冒し、数千の無辜の市民を殺害」と書かれていたそうです。
そして、1938年1月28付の南京のイギリス大使館宛手紙には、「一家の働き手が連行されたり殺されたりして、赤貧に陥っている家族が数千と言わないまでも、数百とあります」と書きました。
さらに、『ヒトラーへの上申書』には、「中国側の申し立てによりますと、十万の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万と見ています」と書いています。
ラーベの報告は、数百だったり数千だったり5〜6万だったり滅茶苦茶です。
このラーベの支離滅裂ぶりは、既に#8067で述べたように安全区国際委員会全体が嘘吐き宣伝工作委員会と化していたのが大きな理由ですが、ラーベ独自の事情もあったたようです。
ラーベは、安全区の自宅に、現金を一杯に詰めたトランクを幾つも持っていた支那軍将校の龍大佐と周大佐を潜伏させていたので、彼らに宣伝工作を依頼されたものと思われます。
また、当時ジョン・ラーべは、支那の蒋介石政権に武器を売って莫大な利益を得ていた「軍需産業ジーメンズ」の南京支社長でした。
支那事変が始まってから日本は再三ドイツに支那への武器輸出をやめるように要求していました。
ヒトラーはソ連を牽制するためにも、日本と手を組む事を選び、支那への武器輸出を控えました。
ラーベにしてみれば、自分が30年間も支那で培ってきた商売が水の泡になるので、「日本はこんなひどい事をしている。こんな国との同盟は止めてくれ!」と言いたかったのでしょう。
しかし、その話はあまりにも不自然すぎて同胞のドイツ人にも信じてもらえませんでした。
1938年1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、2月10日、自分の目で実情を確かめた上で漢口のドイツ大使館に、ラーベが語る日本軍の暴行事件について、「暴行事件と言ってもすべて支那人から一方的に聞いているだけ」と書き送っています。
結局ラーべの策略は実らず、ドイツに呼び戻され、二度と支那の土を踏むことはありませんでした。
これは メッセージ 8268 (monkeybrain132 さん)への返信です.