>>攪乱工作説は東中野氏の妄想 2)
投稿者: ja2047 投稿日時: 2005/06/16 06:38 投稿番号: [6044 / 41162]
>どんな裏付け資料が出てくるか、楽しみにしています。
特に「ひとまず武装を放棄させて入れた」の根拠は外さないで下さい。
「ラーベの感謝状」と誤って紹介する人もある「安全区第一号文書」というのがあります。
安全区委員会の「占領軍」に対する最初の要請の一つに、この安全区に収容した敗残兵の話が
出てきます。
「安全区第一号文書」
「昨日の午後、多数の中国兵が城北に追いつめられたときに不測の事態が展開しました。そのうち若干名が当事務所に来て、人道の名において命を助けてくれるようにと、我々に嘆願しました。委員会の代表たちは貴下の司令部を見つけようとしましたが、漢中路の指揮官のところで差し止められ、それ以上は行くことができませんでした。そこで、われわれはこれらの兵士たちを全員武装解除し、彼らを安全区の建物に収容しました。現在、彼らの望み通りに、これらの人々を平穏な市民生活に戻してやる事をどうか許可されるようお願いします。」
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/doc_safety.html
ラーベがこの交渉に出かけた際、次のような回答を得ています。
福田書記官同席の下に交わされた覚書
「Ⅳ、武装解除された中国軍兵士を我々は人道的立場に立って扱うつもりである。その件は我が軍に一任するよう希望する」
ところが、安全区に戻ってみると、日本軍はこれらの一部を連行していくわけです。
武装解除の下りについては、ラーベ日記に状況が記録されています。
ラーベ日記 12月13日
[一部略]
我々はメインストリート非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いてしまったが最後、ふっとんでしまう。上海路へと曲がるとそこに沢山の市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど日本軍が向こうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は二日後にくるといった。
日本軍は北へ向かうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。
[中略]
本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大勢おしかけていたのだ。揚子江を渡って逃げようとして、逃げ遅れたに違いない。我々に武器を渡したあと、彼らは安全区のどこかに姿を消した。シュペアリングは非常に厳しい堅い表情で正面玄関にたち、モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。あとで日本軍に引き渡さなくてはならない
(「南京の真実」 ジョン・H・D・ラーベ 講談社文庫P122−123)
この他に個別に安全区に逃げ込んだ兵士がいたようですが、
基本的には「武装解除」して受け入れた
ということは、理解いただけると思います。
これに対して、「武装していた」、「まだ武器を近くに置いていた」という記録は
「増田六助日記」ぐらいしかないのじゃあないでしょうか。
次は武器に関する安全区記録と、軍発表(NY記事)の相違点について
考察してみたいと思います。
特に「ひとまず武装を放棄させて入れた」の根拠は外さないで下さい。
「ラーベの感謝状」と誤って紹介する人もある「安全区第一号文書」というのがあります。
安全区委員会の「占領軍」に対する最初の要請の一つに、この安全区に収容した敗残兵の話が
出てきます。
「安全区第一号文書」
「昨日の午後、多数の中国兵が城北に追いつめられたときに不測の事態が展開しました。そのうち若干名が当事務所に来て、人道の名において命を助けてくれるようにと、我々に嘆願しました。委員会の代表たちは貴下の司令部を見つけようとしましたが、漢中路の指揮官のところで差し止められ、それ以上は行くことができませんでした。そこで、われわれはこれらの兵士たちを全員武装解除し、彼らを安全区の建物に収容しました。現在、彼らの望み通りに、これらの人々を平穏な市民生活に戻してやる事をどうか許可されるようお願いします。」
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/doc_safety.html
ラーベがこの交渉に出かけた際、次のような回答を得ています。
福田書記官同席の下に交わされた覚書
「Ⅳ、武装解除された中国軍兵士を我々は人道的立場に立って扱うつもりである。その件は我が軍に一任するよう希望する」
ところが、安全区に戻ってみると、日本軍はこれらの一部を連行していくわけです。
武装解除の下りについては、ラーベ日記に状況が記録されています。
ラーベ日記 12月13日
[一部略]
我々はメインストリート非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いてしまったが最後、ふっとんでしまう。上海路へと曲がるとそこに沢山の市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど日本軍が向こうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は二日後にくるといった。
日本軍は北へ向かうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。
[中略]
本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大勢おしかけていたのだ。揚子江を渡って逃げようとして、逃げ遅れたに違いない。我々に武器を渡したあと、彼らは安全区のどこかに姿を消した。シュペアリングは非常に厳しい堅い表情で正面玄関にたち、モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。あとで日本軍に引き渡さなくてはならない
(「南京の真実」 ジョン・H・D・ラーベ 講談社文庫P122−123)
この他に個別に安全区に逃げ込んだ兵士がいたようですが、
基本的には「武装解除」して受け入れた
ということは、理解いただけると思います。
これに対して、「武装していた」、「まだ武器を近くに置いていた」という記録は
「増田六助日記」ぐらいしかないのじゃあないでしょうか。
次は武器に関する安全区記録と、軍発表(NY記事)の相違点について
考察してみたいと思います。
これは メッセージ 6036 (nmwgip さん)への返信です.