散るぞ悲しき―改ざんされた訣別電文(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/11 20:07 投稿番号: [38798 / 41162]
栗林の
絶唱ともいえる
訣別電報の電文を、
皇軍の大本営は 改ざんして 新聞発表した。
昭和20年3月22日付の新聞各紙は、大きく硫黄島の陥落を報じた。
そして、各紙とも 「訣別電報」 の電文を 掲載したが、
それは 次のような 文章となっていた。
戦局最後の関頭に直面せり
十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち
皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ
全員壮烈なる総攻撃を敢行す
改ざんされた電文が 強調したのは、
栗林が強調した将兵達の苦闘ではなく、「皇国の必勝と安泰」だった。
続く 「壮烈なる総攻撃」 という言葉は、当時 さかんに使われた
常套句であり、栗林の実際の電文には どこにも出てこない 文言だ。
つまり、大本営が 勝手に 付け加えたものだ。
さらに、この後に続く部分にも、栗林が書いた電文にはない文言、
「将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ」と挿入されている。
逆に、栗林の電文にはあって、新聞発表では 削られた 表現がある。
「宛然徒手空拳を以て」 という部分が それだ。
武器もなく、補給も途絶えた中で戦わねばならなかった兵士達の苦しみ、
悔しさ、それを 栗林は 「宛然(=まるっきり)徒手空拳」という、
はっきりした 批判のニュアンスを 持たせた言葉で 表現した。
もちろん、大本営が これを 見逃すはずはなかった。
栗林の電文が まず訴えたかったのは、
桁違いの物量で攻めてくる敵に「徒手空拳」で立ち向かい、
「弾丸尽き水涸れ」て斃れていく兵士たちの姿であることは、
一読して 解る。
決まりきった形式を越えて、言うべきことを言おうとした
当時の指揮官としては 異色の電文、といってよいだろう。
栗林は、絶海の孤島に屍を晒し、遺骨も帰れない部下たちの悲しみを
せめて本国の人々に伝えることが 指揮官の務め と考えたのだろう。
しかし、大本営は その遺言を 国民の目に 触れさせまいとした。
この電文には もうひとつ、決定的な改ざんが 加えられている。
国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
この歌は、電文の最後に添えられた 栗林の辞世の歌だ。
末尾の「散るぞ悲しき」が、発表では「散るぞ口惜し」に変えられたのだ。
栗林家にある実物には、この歌の頭に朱筆で 大きく丸印が付けられている。
原文は「悲しき」の部分が 線で消され、脇に 「口惜し」と書かれている。
死んでいく 兵士たちを、栗林は 「悲しき」 と歌ったのだ。
それは、率直にして 痛切な 本心の発露であったに 違いない。
しかし、「皇軍」 にあっては それは 許されないことだった。
あるいは、栗林は わかっていたのかもしれない。
「徒手空拳」という言葉が 大本営のお偉方の心情を
逆なでするであろうことも、
部下の死を「悲しき」と嘆じることが 帝国軍人にあるまじき
タブーであるということも。
しかし、勝利も 帰還も望めぬ 戦場にあって、潔く散ることを禁じ、
最後まで 死よりも苦しい 持久戦を命じた 自分の言葉を守った
2万将兵のために、どうしても、言わないわけには いかなかった
のではないだろうか。 この電文は、日本国民へのメッセージであり、
戦争指導者たちへのプロテストであり、歴史への証言だったのだ と思う。
皇軍の大本営は 改ざんして 新聞発表した。
昭和20年3月22日付の新聞各紙は、大きく硫黄島の陥落を報じた。
そして、各紙とも 「訣別電報」 の電文を 掲載したが、
それは 次のような 文章となっていた。
戦局最後の関頭に直面せり
十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち
皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ
全員壮烈なる総攻撃を敢行す
改ざんされた電文が 強調したのは、
栗林が強調した将兵達の苦闘ではなく、「皇国の必勝と安泰」だった。
続く 「壮烈なる総攻撃」 という言葉は、当時 さかんに使われた
常套句であり、栗林の実際の電文には どこにも出てこない 文言だ。
つまり、大本営が 勝手に 付け加えたものだ。
さらに、この後に続く部分にも、栗林が書いた電文にはない文言、
「将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ」と挿入されている。
逆に、栗林の電文にはあって、新聞発表では 削られた 表現がある。
「宛然徒手空拳を以て」 という部分が それだ。
武器もなく、補給も途絶えた中で戦わねばならなかった兵士達の苦しみ、
悔しさ、それを 栗林は 「宛然(=まるっきり)徒手空拳」という、
はっきりした 批判のニュアンスを 持たせた言葉で 表現した。
もちろん、大本営が これを 見逃すはずはなかった。
栗林の電文が まず訴えたかったのは、
桁違いの物量で攻めてくる敵に「徒手空拳」で立ち向かい、
「弾丸尽き水涸れ」て斃れていく兵士たちの姿であることは、
一読して 解る。
決まりきった形式を越えて、言うべきことを言おうとした
当時の指揮官としては 異色の電文、といってよいだろう。
栗林は、絶海の孤島に屍を晒し、遺骨も帰れない部下たちの悲しみを
せめて本国の人々に伝えることが 指揮官の務め と考えたのだろう。
しかし、大本営は その遺言を 国民の目に 触れさせまいとした。
この電文には もうひとつ、決定的な改ざんが 加えられている。
国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
この歌は、電文の最後に添えられた 栗林の辞世の歌だ。
末尾の「散るぞ悲しき」が、発表では「散るぞ口惜し」に変えられたのだ。
栗林家にある実物には、この歌の頭に朱筆で 大きく丸印が付けられている。
原文は「悲しき」の部分が 線で消され、脇に 「口惜し」と書かれている。
死んでいく 兵士たちを、栗林は 「悲しき」 と歌ったのだ。
それは、率直にして 痛切な 本心の発露であったに 違いない。
しかし、「皇軍」 にあっては それは 許されないことだった。
あるいは、栗林は わかっていたのかもしれない。
「徒手空拳」という言葉が 大本営のお偉方の心情を
逆なでするであろうことも、
部下の死を「悲しき」と嘆じることが 帝国軍人にあるまじき
タブーであるということも。
しかし、勝利も 帰還も望めぬ 戦場にあって、潔く散ることを禁じ、
最後まで 死よりも苦しい 持久戦を命じた 自分の言葉を守った
2万将兵のために、どうしても、言わないわけには いかなかった
のではないだろうか。 この電文は、日本国民へのメッセージであり、
戦争指導者たちへのプロテストであり、歴史への証言だったのだ と思う。
これは メッセージ 38797 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.