Re: 大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/01 20:14 投稿番号: [38148 / 41162]
>その事細かな日本軍がやった残虐行為の資料をどうやって手に入れたのかね。
>もう80年も立っているというのに、当時の部隊の構成や軍人の数までいかにも真実性を表すために書き込んでいる。
南京攻略戦に 直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
第十六師団の 歩兵第三十三聯隊と 歩兵第三十八聯隊、
第九師団の 歩兵第七聯隊、
第三師団の 歩兵第六十八聯隊 第一、第三大隊、
第十軍では 第百十四師団の歩兵第六十六聯隊第一大隊と
歩兵第百五十聯隊、国崎支隊、歩兵第四十一聯隊の第三大隊、
同第十二中隊の戦闘詳報が、防衛研究所に 所蔵されている。
また、このほかに 数多くの関係将兵の日記が 残されている。
第十六師団長の日記によると、同師団は 12月13日だけで
2万4千〜5千人の捕虜を 「片づけた」 と記録しており、
同師団の旅団長も 「我支隊のみで二万以上の敵は解決した」
と記録している。
また、同師団隷下の 歩兵第三十三聯隊の 戦闘詳報では、
13日に 捕虜2,896を「処断」した と記録している。
第十六師団だけで、また たった1日だけで、少なくとも
2万人を超す捕虜を殺したということが 証明されている。
上海派遣軍のなかで、もっとも組織的に 捕虜の大量殺害を
実行したのは、第十三師団 歩兵第百三旅団が指揮する
歩兵第六十五聯隊基幹の Y支隊である とされている。
同支隊は、12月14日に 幕府山付近で14,777名を
捕虜にしたことを 記録している。
この人数は、当時の 国内の新聞にも 報道されており、
同支隊の幹部や 兵士の日記にも 記録されているものだが、
17,000名とか 20,000名という 記述もある。
上海派遣軍参謀長の 12月15日の日記にも、「支隊ノ俘虜
東部上元門附近ニ 一万五、六千アリ、尚増加ノ見込」とあり、
14日以降も 捕虜は 増え続けていたことがわかる。
Y支隊は、この大量の捕虜を いったんは 収容したが、
隊の兵力の 数倍にのぼる数で、その給養にも 困惑した。
支隊長の日記によると、14日には「恰モ発見セシ上元門外ノ
学校ニ収容セシ所、一四七七七名ヲ得タリ」
「斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ」、
15日には、「捕虜ノ仕末其他ニテ騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ
連絡ス 皆殺セトノコトナリ」 と記されている。
支隊長の日記には、捕虜の処置について 軍司令部と
打ち合わせしたこと、その結果、皆殺しにせよとの指示が
あったことが 記されている。 捕虜殺害は一部の兵士が
感情に任せて行なったのではなく、組織的犯行だったのだ。
支隊長の日記は、さらに 以下のとおり 記述している。
18日 「捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス」
19日 「捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム
>もう80年も立っているというのに、当時の部隊の構成や軍人の数までいかにも真実性を表すために書き込んでいる。
南京攻略戦に 直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
第十六師団の 歩兵第三十三聯隊と 歩兵第三十八聯隊、
第九師団の 歩兵第七聯隊、
第三師団の 歩兵第六十八聯隊 第一、第三大隊、
第十軍では 第百十四師団の歩兵第六十六聯隊第一大隊と
歩兵第百五十聯隊、国崎支隊、歩兵第四十一聯隊の第三大隊、
同第十二中隊の戦闘詳報が、防衛研究所に 所蔵されている。
また、このほかに 数多くの関係将兵の日記が 残されている。
第十六師団長の日記によると、同師団は 12月13日だけで
2万4千〜5千人の捕虜を 「片づけた」 と記録しており、
同師団の旅団長も 「我支隊のみで二万以上の敵は解決した」
と記録している。
また、同師団隷下の 歩兵第三十三聯隊の 戦闘詳報では、
13日に 捕虜2,896を「処断」した と記録している。
第十六師団だけで、また たった1日だけで、少なくとも
2万人を超す捕虜を殺したということが 証明されている。
上海派遣軍のなかで、もっとも組織的に 捕虜の大量殺害を
実行したのは、第十三師団 歩兵第百三旅団が指揮する
歩兵第六十五聯隊基幹の Y支隊である とされている。
同支隊は、12月14日に 幕府山付近で14,777名を
捕虜にしたことを 記録している。
この人数は、当時の 国内の新聞にも 報道されており、
同支隊の幹部や 兵士の日記にも 記録されているものだが、
17,000名とか 20,000名という 記述もある。
上海派遣軍参謀長の 12月15日の日記にも、「支隊ノ俘虜
東部上元門附近ニ 一万五、六千アリ、尚増加ノ見込」とあり、
14日以降も 捕虜は 増え続けていたことがわかる。
Y支隊は、この大量の捕虜を いったんは 収容したが、
隊の兵力の 数倍にのぼる数で、その給養にも 困惑した。
支隊長の日記によると、14日には「恰モ発見セシ上元門外ノ
学校ニ収容セシ所、一四七七七名ヲ得タリ」
「斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ」、
15日には、「捕虜ノ仕末其他ニテ騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ
連絡ス 皆殺セトノコトナリ」 と記されている。
支隊長の日記には、捕虜の処置について 軍司令部と
打ち合わせしたこと、その結果、皆殺しにせよとの指示が
あったことが 記されている。 捕虜殺害は一部の兵士が
感情に任せて行なったのではなく、組織的犯行だったのだ。
支隊長の日記は、さらに 以下のとおり 記述している。
18日 「捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス」
19日 「捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム
これは メッセージ 38147 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.