馬鹿ウヨ理論「日本兵は銃剣を使わない」⑤
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/28 15:09 投稿番号: [38076 / 41162]
もうすこし、前述した記録の続きを
引用しておこう。
↓
12月27日。 ---- 下関の処刑場に近づくと、この日もまた、
域内の方から、 中国人を乗せた無蓋のトラックが、
続々と やってきて、倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、
前々日と同じような処刑が行なわれていた。 ----
「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」と質問したところ、
上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられて
いるからです との答が返ってきた。
このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の
25日と27日に 手際よく行なわれていた。
もっとも、26日と25日前と27日後に どのような処刑が
行なわれていたかは 分からなかったが、
二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、
一時的な、興奮状態での対敵行動であるとは私には
思われなかった。
この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた
行動であるように 感じた。
以下に引用するのは、第16師団経理部予備主計少尉による
『小原立一日記』の 十二月十四日付の記述だ。
↓
中山門外にて
最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので
見に行った。色々な奴がいる。
武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は
直ちに銃殺、間もなく 一人づつ一丁ばかり離れた所へ引き出し
兵隊二百人ばかりで 全部突き殺す ---- -
中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。
外に二千名が逃げていると話していた。
戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた
「撃ち殺した」「射殺した」「銃殺」ではなく、
「突き殺す」と記述されている。 つまり 銃剣の使用だ。
馬鹿ウヨ論が正しいか、それとも、この日本兵の証言が正しいか、
かりに、馬鹿ウヨ理論が正しく、日本兵が ウソつきであるならば、
より「信憑性」を もたせるために、全員射殺した と書くはずだ。
銃剣による刺殺については、南京だけでなく、多数記録されている。
友清高志著『狂気―ルソン住民虐殺の真相』(徳間書店)によると、
フィリピンでも日本兵が銃剣を使い現地民を突き殺した記録がある。
1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中に
ゲリラに襲撃された事件がきっかけで、7月から徹底的な粛清作戦が
実施された。
ゲリラ討伐の名目で 実際には子どもから老人まで多数が殺された。
米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してから
特に マニラと南部ルソンで 大規模な虐殺が次々と起きた。
バタンガス州とラグナ州では 歩兵第17連隊(通称藤兵団)が
「対米戦に先立ち ゲリラを粛清する」
「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」
と命令を下した。
バタンガス州リパの虐殺に加わった 兵士の証言によると、
16から60歳の男子を 通行証を渡すという名目で学校に集め、
証明書を渡したうえで 10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連行し、
銃剣で刺して 谷底に突き落としていった。
そうして 一日がかりで 約800人の住民を虐殺した。
フィリピンにおける 日本軍による虐殺の犠牲者は
数十万人にのぼる と見られ、中国に次いで 多い。
また、英国国立公文書館所蔵の 英軍記録によると、
ビルマ(現・ミャンマー)では、これまで分かっているかぎりで
最大規模の虐殺は 45年7月のカラゴン事件であるとされている。
イギリス軍と抗日ゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、
女性子どもも含めて、10人くらいずつ 井戸の側に連行し
銃剣で刺殺して井戸に投げ込み、合わせて600人以上を虐殺した。
現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ
死刑になるが、裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、
子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺した、と弁明している。
被害者数など規模については別としても、銃剣による住民の刺殺
という事実自体は否定できないものであり、馬鹿馬鹿しい犬猫理論は
完全に破綻する。
↓
12月27日。 ---- 下関の処刑場に近づくと、この日もまた、
域内の方から、 中国人を乗せた無蓋のトラックが、
続々と やってきて、倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、
前々日と同じような処刑が行なわれていた。 ----
「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」と質問したところ、
上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられて
いるからです との答が返ってきた。
このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の
25日と27日に 手際よく行なわれていた。
もっとも、26日と25日前と27日後に どのような処刑が
行なわれていたかは 分からなかったが、
二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、
一時的な、興奮状態での対敵行動であるとは私には
思われなかった。
この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた
行動であるように 感じた。
以下に引用するのは、第16師団経理部予備主計少尉による
『小原立一日記』の 十二月十四日付の記述だ。
↓
中山門外にて
最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので
見に行った。色々な奴がいる。
武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は
直ちに銃殺、間もなく 一人づつ一丁ばかり離れた所へ引き出し
兵隊二百人ばかりで 全部突き殺す ---- -
中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。
外に二千名が逃げていると話していた。
戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた
「撃ち殺した」「射殺した」「銃殺」ではなく、
「突き殺す」と記述されている。 つまり 銃剣の使用だ。
馬鹿ウヨ論が正しいか、それとも、この日本兵の証言が正しいか、
かりに、馬鹿ウヨ理論が正しく、日本兵が ウソつきであるならば、
より「信憑性」を もたせるために、全員射殺した と書くはずだ。
銃剣による刺殺については、南京だけでなく、多数記録されている。
友清高志著『狂気―ルソン住民虐殺の真相』(徳間書店)によると、
フィリピンでも日本兵が銃剣を使い現地民を突き殺した記録がある。
1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中に
ゲリラに襲撃された事件がきっかけで、7月から徹底的な粛清作戦が
実施された。
ゲリラ討伐の名目で 実際には子どもから老人まで多数が殺された。
米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してから
特に マニラと南部ルソンで 大規模な虐殺が次々と起きた。
バタンガス州とラグナ州では 歩兵第17連隊(通称藤兵団)が
「対米戦に先立ち ゲリラを粛清する」
「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」
と命令を下した。
バタンガス州リパの虐殺に加わった 兵士の証言によると、
16から60歳の男子を 通行証を渡すという名目で学校に集め、
証明書を渡したうえで 10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連行し、
銃剣で刺して 谷底に突き落としていった。
そうして 一日がかりで 約800人の住民を虐殺した。
フィリピンにおける 日本軍による虐殺の犠牲者は
数十万人にのぼる と見られ、中国に次いで 多い。
また、英国国立公文書館所蔵の 英軍記録によると、
ビルマ(現・ミャンマー)では、これまで分かっているかぎりで
最大規模の虐殺は 45年7月のカラゴン事件であるとされている。
イギリス軍と抗日ゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、
女性子どもも含めて、10人くらいずつ 井戸の側に連行し
銃剣で刺殺して井戸に投げ込み、合わせて600人以上を虐殺した。
現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ
死刑になるが、裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、
子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺した、と弁明している。
被害者数など規模については別としても、銃剣による住民の刺殺
という事実自体は否定できないものであり、馬鹿馬鹿しい犬猫理論は
完全に破綻する。
これは メッセージ 38075 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.