Re: 根拠なき『植民地解放戦争』論(1)
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2011/10/30 17:55 投稿番号: [37252 / 41162]
>日本帝国が、本当に
諸国民の主権を尊重し、独立を希求していた
とするならば、他国領土への派兵や武力行使は つとめて忌避した
はずであり、そもそも 戦争に突き進む前に、国際社会に 対して、
植民地諸国の解放を 繰り返し 働きかけ、また 誰より率先して
自らの 植民地支配を解消し、世界に 範を示していたはずだ。
オマエの言っていることは現実無視ばかり。
―――――――
ルーズベルトは1944年8月12日の声明で、アジアの民衆は日本の奴隷になることを望んでいないと言った。
全くその通りだ。
しかし、歴史的にみてアジアの民衆を奴隷にしていたのは日本ではなく、米国が同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国であることを、ルーズベルトは言わないのだ。
日本は当然のことながら、アジアの人々に対して、アジア或は太平洋地域の領土を併合したり、支配しようという意図或は希望は毛頭持っていないと繰り返し宣伝していた。
日本はただアジアをヨーロッパの支配から自由にしたいだけである(米国が南アメリカをヨーロッパの侵入から守っている様に)。
そして、アジアの民が互いに協力して自分たちの資源と文明を発展させることができるようにしたいのだ、というのが日本の主張だった。
日本の主張によれば、アジアでの日本の役割は単に指導者と守護者にすぎない。
アジア・太平洋地域の民衆が西洋列強から開放された暁には、日本がアメリカが南アメリカとの間にもっているのと同じ関係を、彼らとの間で持つことになるだろう、というのが日本の主張である。
アジアを開放したいという日本の願いは「聡明な利己主義」即ち法的擬制から出たものであり、したがって、結局はその実現方法は野蛮であるという前提に立つにせよ、日本がその擬制を信用させるために、アメリカと同じところまで、そしてヨーロッパ諸国よりははるか先まで、行っていたことを認める必要がある。
日本は現地住民に独立を約束した。
それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。
1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返還した。
大戦中日本は、実際に、占領した全ての地域に現地「独立」政府を樹立していった。
例えば、フィリピンは1943年10月14日に「独立」を獲得している。
これは米国が二度目にフィリピンを「解放」する数年前のことである。
ビルマは1943年8月1日に独立した。
マレー、インドネシア、インドシナに現地政権ができた。
マレーではインドの代表的指導者、チャンドラ・ボース率いる自由インド臨時政府が樹立された。
ボースは英国に宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍と共にインド進撃を目指した。
今日、インドの代表的指導者の中には、英国の政治的撤退を早めたのは、真に平和を願う指導者の長く実りのない平和的手段ではなく、ボースの隠然たる脅威、「忠誠心のない」英印軍、そして日本軍だったという人もいる。
こうして各地で独立を宣言した植民地政権を、西洋列強は法的擬制と呼び傀儡と言う。
しかし、フィリピンを例外として、これらの政府に参画した現地の人々が、戦争の最中でさえ、過去のどこの同じような現地政権より権威をもっていたことは事実である。
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著(1948年)
―――――――
>そして アジアや ヨーロッパでも、モンゴル、アフガニスタン、
アイルランド、ネパールなどが 自治権または完全独立を獲得し、
イラクの国際連盟委任統治が解除され、イギリスは租借港威海を
中国に返還し、アメリカが フィリピンの独立を 約束するなど、
脱植民地化の動きは、確実に 世界的な潮流と なっていった。
アジア39カ国のうち、たった3カ国を挙げて、「脱植民地化の動きは確定的となっていった」とか頓珍漢なこと言ってんじゃないよ!
それに、モンゴルで完全独立とか笑わせんな!
ノモンハン事件でソ連の戦車の中には身体を縛り付けられたモンゴル人が乗っていた。
それを後方のソ連の督戦隊が監視していた。
アフガニスタンもネパールも、大東亜戦争の頃とは関係ない時期の話だから、ここで「脱植民地化の動きは確定的となっていった」などと言うのは酷いこじ付けだ。
とするならば、他国領土への派兵や武力行使は つとめて忌避した
はずであり、そもそも 戦争に突き進む前に、国際社会に 対して、
植民地諸国の解放を 繰り返し 働きかけ、また 誰より率先して
自らの 植民地支配を解消し、世界に 範を示していたはずだ。
オマエの言っていることは現実無視ばかり。
―――――――
ルーズベルトは1944年8月12日の声明で、アジアの民衆は日本の奴隷になることを望んでいないと言った。
全くその通りだ。
しかし、歴史的にみてアジアの民衆を奴隷にしていたのは日本ではなく、米国が同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国であることを、ルーズベルトは言わないのだ。
日本は当然のことながら、アジアの人々に対して、アジア或は太平洋地域の領土を併合したり、支配しようという意図或は希望は毛頭持っていないと繰り返し宣伝していた。
日本はただアジアをヨーロッパの支配から自由にしたいだけである(米国が南アメリカをヨーロッパの侵入から守っている様に)。
そして、アジアの民が互いに協力して自分たちの資源と文明を発展させることができるようにしたいのだ、というのが日本の主張だった。
日本の主張によれば、アジアでの日本の役割は単に指導者と守護者にすぎない。
アジア・太平洋地域の民衆が西洋列強から開放された暁には、日本がアメリカが南アメリカとの間にもっているのと同じ関係を、彼らとの間で持つことになるだろう、というのが日本の主張である。
アジアを開放したいという日本の願いは「聡明な利己主義」即ち法的擬制から出たものであり、したがって、結局はその実現方法は野蛮であるという前提に立つにせよ、日本がその擬制を信用させるために、アメリカと同じところまで、そしてヨーロッパ諸国よりははるか先まで、行っていたことを認める必要がある。
日本は現地住民に独立を約束した。
それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。
1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返還した。
大戦中日本は、実際に、占領した全ての地域に現地「独立」政府を樹立していった。
例えば、フィリピンは1943年10月14日に「独立」を獲得している。
これは米国が二度目にフィリピンを「解放」する数年前のことである。
ビルマは1943年8月1日に独立した。
マレー、インドネシア、インドシナに現地政権ができた。
マレーではインドの代表的指導者、チャンドラ・ボース率いる自由インド臨時政府が樹立された。
ボースは英国に宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍と共にインド進撃を目指した。
今日、インドの代表的指導者の中には、英国の政治的撤退を早めたのは、真に平和を願う指導者の長く実りのない平和的手段ではなく、ボースの隠然たる脅威、「忠誠心のない」英印軍、そして日本軍だったという人もいる。
こうして各地で独立を宣言した植民地政権を、西洋列強は法的擬制と呼び傀儡と言う。
しかし、フィリピンを例外として、これらの政府に参画した現地の人々が、戦争の最中でさえ、過去のどこの同じような現地政権より権威をもっていたことは事実である。
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著(1948年)
―――――――
>そして アジアや ヨーロッパでも、モンゴル、アフガニスタン、
アイルランド、ネパールなどが 自治権または完全独立を獲得し、
イラクの国際連盟委任統治が解除され、イギリスは租借港威海を
中国に返還し、アメリカが フィリピンの独立を 約束するなど、
脱植民地化の動きは、確実に 世界的な潮流と なっていった。
アジア39カ国のうち、たった3カ国を挙げて、「脱植民地化の動きは確定的となっていった」とか頓珍漢なこと言ってんじゃないよ!
それに、モンゴルで完全独立とか笑わせんな!
ノモンハン事件でソ連の戦車の中には身体を縛り付けられたモンゴル人が乗っていた。
それを後方のソ連の督戦隊が監視していた。
アフガニスタンもネパールも、大東亜戦争の頃とは関係ない時期の話だから、ここで「脱植民地化の動きは確定的となっていった」などと言うのは酷いこじ付けだ。
これは メッセージ 37236 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.