兵隊さん、ウソを言ってはいかんぞな!
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2009/12/28 21:26 投稿番号: [30418 / 41162]
最近、NHKで放送された
特別ドラマ、司馬遼太郎原作の
「坂の上の雲」第一部。 その中で、印象に残った場面がある。
従軍記者として 清国に赴いた主人公の一人、正岡子規が
戦争で疲弊し、街も人心も荒廃した人々の姿を目の当たりにする。
そして、日本軍の強制徴用に耐えかねて抗議する老人の姿を見る。
あの老人は いったい何と言っているか? という子規の質問に
隊長は、「日本の兵隊さん、ありがとう」と言っておるのだ、と応える。
「ウソを言ってはいかんぞね。ワシは、シナ語は よう解らんが、
あの老人は、あきらかに怒っておったじゃないですか――」問質す子規。
「黙れ!日本の記者なら軍人の言うとおり書けばよい―」と怒鳴る隊長。
明治時代には、それでもまだ 軍人に対して抗議できる空気はあった。
だが、その後、軍国主義の肥大化に伴って、いささかでも 軍に対して
批判的な論調は、圧殺を免れない風潮が徐々に高まっていくことになる。
南京虐殺事件の当時は、もはや その軍国主義が 絶頂期に達していた。
日本の新聞記者も 事件当時、南京に従軍していたはずだ。
しかし、「日本の兵隊さん ありがとう、と言っておるのだ」と
日本軍が発表すれば、記者は そのとおりにしか書けなかった。
もしも 事実を書いたとしても、軍の検閲で すべて廃棄される。
記事が削除されるだけでなく、記者の身の安全さえ保障されない。
戦時中、軍の方針に逆らうことは、まさに 命がけであった。
結果、南京の出来事は、同市に駐在していた外国の報道機関によって
世界中に知れ渡ることになったが、日本国民だけは その事実を知らず
ただ戦勝気分に酔い、提灯行列を連ねて敵首都陥落を祝うだけだった。
ところで、正岡子規といえば 明治を代表する俳人だった。
俳句は、17文字に季節や風景を読み込む日本独自の言葉の芸術だ。
その俳句でさえも、太平洋戦争中は 厳しい弾圧の対象となった。
天皇制政府は、国民の表現の自由を圧殺したが、それは
言論・文化の あらゆる分野に及び、俳句も例外ではなかったのだ。
俳句の分野では、真っ先に『プロレタリア俳句』が1931年に発禁。
当時、俳句界では 新興俳句が 広がりをみせていた。
短詩型が特徴の俳句は、現実への鋭い視点と、瑞々しい感性がなければ
成立しない。
特高警察の弾圧は、この俳句成立の根本条件といえるものに向けられた。
1940年2月から8月、新興俳句の中心だった俳誌『京大俳句』会員、
平畑静塔、波止影夫ら15人が 相次いで特高警察に検挙された。
熱い味噌汁をすすりあなたいない
ホスピタル鏡を朝な女のみがく
これが「反戦思想を含せしめたる作品」だとされたのだ。
黙々と鉄槌ふり我等何を見る
ネクタイを締めて薄給かくす夏
これが 「銃後の生活苦等を素材としたる反戦俳句」とされた。
裁判所は これをもって
「一般大衆に階級的、反戦、反軍的意識を浸透せしめ」、
「其の左翼化に努め、以てコミンテルン日本共産党の目的遂行の為にする
行為」(「京大俳句」事件の「予審終結決定書」)であると決め付けた。
41年2月には、荻原井泉水の俳句革新に共鳴した栗林一石路が
橋本夢道らとつくった自由律系の『俳句生活』や『日本俳句』、
さらに 新興俳句関係の『広場』『土上』という東京の4俳誌の13人が、
また、同年10月には 山口県宇部市で『山脈』の山崎青鐘ら10人が、
検挙されてしまった。 同年12月8日の太平洋戦争開戦前夜のことだ。
戦争の進行とともに、厭戦気分につながる表現もチェックされた。
43年6月には 鹿児島で『きりしま』の 面高秀ら3人、
同年12月には 秋田で『蠍座』の2人が検挙されるなど、
弾圧の手は 地方の小さな俳句同人誌にまでも及んだ。
『土上』主宰の嶋田青峰は 留置場の劣悪な環境がたたって
病気が悪化し、伏せったまま 3年後に死去した。
文化・芸術、これら表現の自由が侵されるとき、それは まさに
危険な戦争の前夜であることを 歴史の教訓としなければならない。
「坂の上の雲」第一部。 その中で、印象に残った場面がある。
従軍記者として 清国に赴いた主人公の一人、正岡子規が
戦争で疲弊し、街も人心も荒廃した人々の姿を目の当たりにする。
そして、日本軍の強制徴用に耐えかねて抗議する老人の姿を見る。
あの老人は いったい何と言っているか? という子規の質問に
隊長は、「日本の兵隊さん、ありがとう」と言っておるのだ、と応える。
「ウソを言ってはいかんぞね。ワシは、シナ語は よう解らんが、
あの老人は、あきらかに怒っておったじゃないですか――」問質す子規。
「黙れ!日本の記者なら軍人の言うとおり書けばよい―」と怒鳴る隊長。
明治時代には、それでもまだ 軍人に対して抗議できる空気はあった。
だが、その後、軍国主義の肥大化に伴って、いささかでも 軍に対して
批判的な論調は、圧殺を免れない風潮が徐々に高まっていくことになる。
南京虐殺事件の当時は、もはや その軍国主義が 絶頂期に達していた。
日本の新聞記者も 事件当時、南京に従軍していたはずだ。
しかし、「日本の兵隊さん ありがとう、と言っておるのだ」と
日本軍が発表すれば、記者は そのとおりにしか書けなかった。
もしも 事実を書いたとしても、軍の検閲で すべて廃棄される。
記事が削除されるだけでなく、記者の身の安全さえ保障されない。
戦時中、軍の方針に逆らうことは、まさに 命がけであった。
結果、南京の出来事は、同市に駐在していた外国の報道機関によって
世界中に知れ渡ることになったが、日本国民だけは その事実を知らず
ただ戦勝気分に酔い、提灯行列を連ねて敵首都陥落を祝うだけだった。
ところで、正岡子規といえば 明治を代表する俳人だった。
俳句は、17文字に季節や風景を読み込む日本独自の言葉の芸術だ。
その俳句でさえも、太平洋戦争中は 厳しい弾圧の対象となった。
天皇制政府は、国民の表現の自由を圧殺したが、それは
言論・文化の あらゆる分野に及び、俳句も例外ではなかったのだ。
俳句の分野では、真っ先に『プロレタリア俳句』が1931年に発禁。
当時、俳句界では 新興俳句が 広がりをみせていた。
短詩型が特徴の俳句は、現実への鋭い視点と、瑞々しい感性がなければ
成立しない。
特高警察の弾圧は、この俳句成立の根本条件といえるものに向けられた。
1940年2月から8月、新興俳句の中心だった俳誌『京大俳句』会員、
平畑静塔、波止影夫ら15人が 相次いで特高警察に検挙された。
熱い味噌汁をすすりあなたいない
ホスピタル鏡を朝な女のみがく
これが「反戦思想を含せしめたる作品」だとされたのだ。
黙々と鉄槌ふり我等何を見る
ネクタイを締めて薄給かくす夏
これが 「銃後の生活苦等を素材としたる反戦俳句」とされた。
裁判所は これをもって
「一般大衆に階級的、反戦、反軍的意識を浸透せしめ」、
「其の左翼化に努め、以てコミンテルン日本共産党の目的遂行の為にする
行為」(「京大俳句」事件の「予審終結決定書」)であると決め付けた。
41年2月には、荻原井泉水の俳句革新に共鳴した栗林一石路が
橋本夢道らとつくった自由律系の『俳句生活』や『日本俳句』、
さらに 新興俳句関係の『広場』『土上』という東京の4俳誌の13人が、
また、同年10月には 山口県宇部市で『山脈』の山崎青鐘ら10人が、
検挙されてしまった。 同年12月8日の太平洋戦争開戦前夜のことだ。
戦争の進行とともに、厭戦気分につながる表現もチェックされた。
43年6月には 鹿児島で『きりしま』の 面高秀ら3人、
同年12月には 秋田で『蠍座』の2人が検挙されるなど、
弾圧の手は 地方の小さな俳句同人誌にまでも及んだ。
『土上』主宰の嶋田青峰は 留置場の劣悪な環境がたたって
病気が悪化し、伏せったまま 3年後に死去した。
文化・芸術、これら表現の自由が侵されるとき、それは まさに
危険な戦争の前夜であることを 歴史の教訓としなければならない。