Re: 731部隊の細菌戦 - 裁判記録
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2009/09/07 09:28 投稿番号: [28904 / 41162]
d
崇山村
(a)江湾郷の崇山村は、北の上崇山村と南の崇山村の2つに分れており、住宅は密集して建てられていた。しかし、上・下の区域を越えた人の交流はほとんどなかった。同村のペストは、1942年(昭和17年)10月から上崇山村で爆発的に流行し、死者が続出する事態となった。
その後、12月上旬には上崇山村のペストはほぼ終結するように見えたが、12月に入ると今度は下崇山村で死者が出るようになった。
このペストは、義烏に流行していたペストが伝播したものと考えられる。
(b)崇山村のペストによる死者は、流行が終息する翌1943年(昭和18年)1月までに総計396人に上ったとされている。これは当時の崇山村の人口の約3分の1に当たる。
e 塔下州
(a)崇山村で流行していたペストは、1942年(昭和17年)10月に塔下州に伝播し、同村で大流行した。
(b)塔下州村のペストによる死者は、約2か月の間に103人に及んだとされている。この死者は、当時の村全体の人口の約5分の1に当たる。
(甲143の1・2、151、原告周洪根)
f 寧波
(a)1940年(昭和15年)10月下旬、日本軍機が寧波上空に飛来し、中心部の開明街一体にペスト感染ノミ(後にインドネズミノミと鑑定された。)の混入した麦粒を投下した。
(b)早くも10月29日ノミ等が投下された地域にペスト患者が出て、治療活動とともに防疫活動も活発に行われ、汚染区が封鎖され、消毒や家屋の焼却などが行われた。このような治療、防疫活動により、ペストは12月初めに最後の患者を出した後、終息した。
このペスト流行は、主として、投下されたペスト感染ノミが直接ヒトを噛んでペストがヒトに感染したことによるものと考えられる。
(c)当時公報による報道、国民政府中央防疫研究所長の報告書、治療に参加した医師等からの情報提供に基づく証人黄可泰らの調査(甲97の1・2参照)によれば、このペスト流行による死亡者で氏名が判明しているのは109人である。
(甲3、50、91、97の1・2、105の1、162の1・2、288の1・2、証人松本正一、証人吉見義明、証人黄可泰、原告何祺綏)
g 常徳
(a)1941年(昭和16年)11月4日、731部隊の日本軍機が常徳上空に飛来し、ペスト感染ノミと綿、穀物等を投下し、これが県城中心部に落下した。
(b)11月11日にはペスト患者が出始め、初発患者発生から約2か月間の1次流行で県城地区で8人の死亡患者が出た(当時の『防治湘西鼠疫経過報告書』による。)。ところが、約70日の間隔を置いて、1942年(昭和17年)3月から2次流行が起き、6月までに県城地区で合計34人の死亡患者が出た(同報告書)。
1次流行は投下されたペスト感染ノミが直接ヒトを噛んでヒトがペストに感染したものである可能性が高く、2次流行は、ペスト菌がそれに感染したネズミの体内で冬を越し、春の活動期にノミを介してヒトに感染した可能性が高いと考えられる。
(c) 1942年(昭和17年)3月以降、常徳市街地のペストが農村部に伝播していき、各地で多数の犠牲者を出した。
なお、「常徳関係のペストによる死亡者は7643人に上るとされている。(甲1,2,33,75,88,91,92,93の1,105の1,144の1・2,145の1・2、証人松本正一、証人吉見義明、証人中村明子、証人聶莉莉、原告易孝信、原告丁徳望)
(続く)
(a)江湾郷の崇山村は、北の上崇山村と南の崇山村の2つに分れており、住宅は密集して建てられていた。しかし、上・下の区域を越えた人の交流はほとんどなかった。同村のペストは、1942年(昭和17年)10月から上崇山村で爆発的に流行し、死者が続出する事態となった。
その後、12月上旬には上崇山村のペストはほぼ終結するように見えたが、12月に入ると今度は下崇山村で死者が出るようになった。
このペストは、義烏に流行していたペストが伝播したものと考えられる。
(b)崇山村のペストによる死者は、流行が終息する翌1943年(昭和18年)1月までに総計396人に上ったとされている。これは当時の崇山村の人口の約3分の1に当たる。
e 塔下州
(a)崇山村で流行していたペストは、1942年(昭和17年)10月に塔下州に伝播し、同村で大流行した。
(b)塔下州村のペストによる死者は、約2か月の間に103人に及んだとされている。この死者は、当時の村全体の人口の約5分の1に当たる。
(甲143の1・2、151、原告周洪根)
f 寧波
(a)1940年(昭和15年)10月下旬、日本軍機が寧波上空に飛来し、中心部の開明街一体にペスト感染ノミ(後にインドネズミノミと鑑定された。)の混入した麦粒を投下した。
(b)早くも10月29日ノミ等が投下された地域にペスト患者が出て、治療活動とともに防疫活動も活発に行われ、汚染区が封鎖され、消毒や家屋の焼却などが行われた。このような治療、防疫活動により、ペストは12月初めに最後の患者を出した後、終息した。
このペスト流行は、主として、投下されたペスト感染ノミが直接ヒトを噛んでペストがヒトに感染したことによるものと考えられる。
(c)当時公報による報道、国民政府中央防疫研究所長の報告書、治療に参加した医師等からの情報提供に基づく証人黄可泰らの調査(甲97の1・2参照)によれば、このペスト流行による死亡者で氏名が判明しているのは109人である。
(甲3、50、91、97の1・2、105の1、162の1・2、288の1・2、証人松本正一、証人吉見義明、証人黄可泰、原告何祺綏)
g 常徳
(a)1941年(昭和16年)11月4日、731部隊の日本軍機が常徳上空に飛来し、ペスト感染ノミと綿、穀物等を投下し、これが県城中心部に落下した。
(b)11月11日にはペスト患者が出始め、初発患者発生から約2か月間の1次流行で県城地区で8人の死亡患者が出た(当時の『防治湘西鼠疫経過報告書』による。)。ところが、約70日の間隔を置いて、1942年(昭和17年)3月から2次流行が起き、6月までに県城地区で合計34人の死亡患者が出た(同報告書)。
1次流行は投下されたペスト感染ノミが直接ヒトを噛んでヒトがペストに感染したものである可能性が高く、2次流行は、ペスト菌がそれに感染したネズミの体内で冬を越し、春の活動期にノミを介してヒトに感染した可能性が高いと考えられる。
(c) 1942年(昭和17年)3月以降、常徳市街地のペストが農村部に伝播していき、各地で多数の犠牲者を出した。
なお、「常徳関係のペストによる死亡者は7643人に上るとされている。(甲1,2,33,75,88,91,92,93の1,105の1,144の1・2,145の1・2、証人松本正一、証人吉見義明、証人中村明子、証人聶莉莉、原告易孝信、原告丁徳望)
(続く)
これは メッセージ 28903 (fukagawatohei さん)への返信です.