さらに坂本氏はこう述べている。
「『朝日』は、本多勝一氏の『中国の旅』の中で、『五台山で2万人以上虐殺された』
とあるが、前記の通り砲6門をろかくしたのみである。
また、『13日には下関(シャーカン)に通ずる把江門の扉を閉めて通行を阻止し、
逃げてくるおびただしい市民を機関銃で射殺した』という意味のことを報道しているが、
われわれのいた清涼山から把江門までの直線距離は4〜5キロぐらいである。
もしもそんなことがあったとすれば、機関銃の銃声が聞こえてこないはずがない」
(証言による『南京戦史』(6))。
読者はすでに『第5章
南京攻略戦』の項で、中華門、光華門、中山門から入城した
将兵や新聞記者がどういう光景に接したか、くわしく紹介しているので読了されているはず
(ホームページ作者注:ごめんなさいこの部分は本を買って読んで下さい)。
「街は森閑として人っ子一人いず、整然と、むしろ清潔にさえ感じられた」と
異口同音に述べている点を想起して頂きたい。
第10軍の参謀谷田勇氏(東京・杉並区在住)も、「軍司令部は14日午前、城内に入り、
正午すぎ南京路のほとりにある銀行の社屋に司令部をおいた。
市内はすでに平静で、駐留間一発の銃声も聞かなかった。
自分はその日午後城内を一巡し、何枚かの写真を撮って回ったが、
若干の死体を見たのみで、市街はすでに沈静していた」―と筆者に語り、
数枚の写真を示しながら、その時の市街の状況を説明した。
谷田氏によると下関埠頭には約1000人ほどの死体があった。
その死体は13日の攻略時の戦闘における死体と思われる。
この日は自分(谷田)の誕生日にあたり、
同夜冷酒で柳川閣下と共に乾杯した
感激は忘れられぬ、とその記憶は実に鮮明である。
『南京戦史』(6)によると、当時の朝日の近藤記者(現在・科学振興センター代表)は
「光華門外は激戦で日本兵の死体も、中国兵の死体もあったが、
それほど多数という印象はない。
市民の死体は全く見当たらなかった。」と述べている。
また「報知新聞」から「毎日」のカメラマンに転じた二村二郎氏(東京在住)
は
「歩兵第47連隊について城壁をよじ登って
城内に入ったが、市内にはそれほど死体はなかった」
といっている。
引用すれば際限ないが、〈累々たる死体〉や〈血の河〉を
見たなどという者は一人もいないのである。
日本軍や日本の新聞記者だけでなく、15人の国際委員会の委員も、
5人の外人記者も、その他第三国人だれひとりとして、中国人証人の
言うような凄絶な光景は見ていないのである
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