アサヒる顧維鈞
投稿者: nmwgip 投稿日時: 2007/10/12 21:33 投稿番号: [21247 / 41162]
さて、いい機会だから顧維鈞演説それ自体についても検証してみようか。
まず、「ドイツ外交官の見た南京事件」に収録されている顧維鈞演説の該当部分は以下の通り。
『・・・・日本兵が南京と漢口でおこなった残虐行為についての信頼できるもうひとつの記録は、米国人の教授と外交使節団による報告と手紙にもとづくもので、一九三八年一月二八日の『デイリー・テレグラフ』紙と『モーニング・ポスト』紙に掲載されています。南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は二万人と見積もられ、その一方で、若い少女を含む何千人もの女性が辱めを受けました。・・・・』
顧維鈞の「南京における残虐行為」の主張は「米国人の教授と外交使節団による報告と手紙」に基づく新聞記事に依拠している訳だが、「二万人」という数字は、ここに名前が挙がっているデイリー・テレグラフとモーニングポスト以外の外国記事、外交官の報告にも見られる。
『上海十二月二十二日発
ニューヨーク・タイムズ宛航空便
南京の戦闘は、近代戦史における最も悲惨な物語の一つとして、歴史に残ることは疑いない。
近代軍事戦略の指示にことごとく反し、中国軍は自ら罠にかかり、包囲され、少なくとも三万三千人を数える兵力の殲滅を許した。この数は南京防衛軍のおよそ三分の二にあたり、このうち二万人が処刑されたものと思われる。(以下省略)』
(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』より、ダーディンの記事)
『・・・・城内の中国兵を「掃討」するため、まず最初に分遣隊が派遣された。市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる。兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。ほんの些細なことから、兵士であったとの嫌疑をかけられた者は、例外なく連行され、銃殺された模様だ。中国政府軍の残兵はあまねく「掃討」するという日本軍の決定は、断固として変更されることはなかった。・・・・』
(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』より、エスピー報告)
内容の正確性については一先ず横に置いておく。
ダーディン、エスピー両者の認識では、「二万人」という数字は兵士、または兵士の嫌疑をかけられた者の犠牲者数であり、一般市民が無差別に殺された数字ではない。
いわゆる「南京大虐殺」においてダーディンと並んで名が売れているスティールは1938年2月3日、2月4日に「その後あの恐ろしい日々に中国人と日本人が行ったことに関する以下の文章を書いた」と称する総括記事を発表しているが、その中で
『・・・・中国軍――その何とか残った部分――は、すでに怯え混乱した群集と化しており、いくらかでも憐憫の情をたれれば、喜んで降伏したであろう。しかし日本軍は虐殺を決心していた。彼らは手を下しうるすべての将兵を殺戮するまでは、満足しないつもりだった。
降伏した者にも容赦はなかった。彼らもまた同じように処刑場まで行進して行かされた。軍法会議も裁判もなしだった。予想されるとおり、何百という無実の市民がこの恐怖の支配の間に逮捕され、虐殺された。』
(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』より、スティールの記事)
と書いている。
スティールの認識する「虐殺」もまた、敗残兵を標的としたものであり、彼の総括記事においては、誤認された市民は数百でしかない。
ダーディンとスティールが同じものを見たのであれば、エスピーの報告が両記者と同じものを観察した結果であるならば、2万人の敗残兵掃討の過程で、南京守備隊が自らを市民に偽装した為に、数百人の南京市民が間違えられて犠牲になった、ということだ。
日本軍側の記録では、城壁内初期掃討数は二万人ではなく7千〜8千人、「兵士と実際そうでなかった者の識別」は身体的特徴により行っている。ダーディンの記事やエスピーの報告には明らかな誇張と悪意が含まれている。スティールの言うような、初期掃討期間に中国軍が降伏したという事実も無い。
しかしこうした相違点を別にしても、2万人の市民が無差別に虐殺されたという認識はどちらの側にも存在しない。
顧維鈞演説を国際社会がまともに相手にしなかったのは当然の事だ。
まず、「ドイツ外交官の見た南京事件」に収録されている顧維鈞演説の該当部分は以下の通り。
『・・・・日本兵が南京と漢口でおこなった残虐行為についての信頼できるもうひとつの記録は、米国人の教授と外交使節団による報告と手紙にもとづくもので、一九三八年一月二八日の『デイリー・テレグラフ』紙と『モーニング・ポスト』紙に掲載されています。南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は二万人と見積もられ、その一方で、若い少女を含む何千人もの女性が辱めを受けました。・・・・』
顧維鈞の「南京における残虐行為」の主張は「米国人の教授と外交使節団による報告と手紙」に基づく新聞記事に依拠している訳だが、「二万人」という数字は、ここに名前が挙がっているデイリー・テレグラフとモーニングポスト以外の外国記事、外交官の報告にも見られる。
『上海十二月二十二日発
ニューヨーク・タイムズ宛航空便
南京の戦闘は、近代戦史における最も悲惨な物語の一つとして、歴史に残ることは疑いない。
近代軍事戦略の指示にことごとく反し、中国軍は自ら罠にかかり、包囲され、少なくとも三万三千人を数える兵力の殲滅を許した。この数は南京防衛軍のおよそ三分の二にあたり、このうち二万人が処刑されたものと思われる。(以下省略)』
(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』より、ダーディンの記事)
『・・・・城内の中国兵を「掃討」するため、まず最初に分遣隊が派遣された。市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる。兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。ほんの些細なことから、兵士であったとの嫌疑をかけられた者は、例外なく連行され、銃殺された模様だ。中国政府軍の残兵はあまねく「掃討」するという日本軍の決定は、断固として変更されることはなかった。・・・・』
(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』より、エスピー報告)
内容の正確性については一先ず横に置いておく。
ダーディン、エスピー両者の認識では、「二万人」という数字は兵士、または兵士の嫌疑をかけられた者の犠牲者数であり、一般市民が無差別に殺された数字ではない。
いわゆる「南京大虐殺」においてダーディンと並んで名が売れているスティールは1938年2月3日、2月4日に「その後あの恐ろしい日々に中国人と日本人が行ったことに関する以下の文章を書いた」と称する総括記事を発表しているが、その中で
『・・・・中国軍――その何とか残った部分――は、すでに怯え混乱した群集と化しており、いくらかでも憐憫の情をたれれば、喜んで降伏したであろう。しかし日本軍は虐殺を決心していた。彼らは手を下しうるすべての将兵を殺戮するまでは、満足しないつもりだった。
降伏した者にも容赦はなかった。彼らもまた同じように処刑場まで行進して行かされた。軍法会議も裁判もなしだった。予想されるとおり、何百という無実の市民がこの恐怖の支配の間に逮捕され、虐殺された。』
(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』より、スティールの記事)
と書いている。
スティールの認識する「虐殺」もまた、敗残兵を標的としたものであり、彼の総括記事においては、誤認された市民は数百でしかない。
ダーディンとスティールが同じものを見たのであれば、エスピーの報告が両記者と同じものを観察した結果であるならば、2万人の敗残兵掃討の過程で、南京守備隊が自らを市民に偽装した為に、数百人の南京市民が間違えられて犠牲になった、ということだ。
日本軍側の記録では、城壁内初期掃討数は二万人ではなく7千〜8千人、「兵士と実際そうでなかった者の識別」は身体的特徴により行っている。ダーディンの記事やエスピーの報告には明らかな誇張と悪意が含まれている。スティールの言うような、初期掃討期間に中国軍が降伏したという事実も無い。
しかしこうした相違点を別にしても、2万人の市民が無差別に虐殺されたという認識はどちらの側にも存在しない。
顧維鈞演説を国際社会がまともに相手にしなかったのは当然の事だ。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.